第6話「ポルターガイスト」
三日目の朝、椅子が飛んだ。
朝食の支度をしていたマルタの背後を、木製の椅子が横切った。壁にぶつかって砕ける——かと思ったら、壁の手前で軌道が逸れ、床を滑って窓の下に転がった。
リーネの悲鳴が屋敷中に響いた。
「ひいいいっ! 呪い、呪いですっ! やっぱり呪いだって、婆さまが——!」
三つ編みを振り乱して廊下を走るリーネを、トーマスが無言で受け止めた。太い腕で抱え込むように止める。リーネは泣きじゃくりながらトーマスの胸に顔を埋めた。
「マルタ、怪我は」
「ありません。ただ——」
マルタは砕けた椅子の残骸を見下ろしていた。白いエプロンに木片の埃がかかっている。手は震えていなかったが、唇が一文字に引き結ばれていた。
「——お嬢様。あの椅子、わたくしに当たる直前に曲がりましたよね」
見ていた。マルタは見ていた。椅子が壁にぶつかる寸前で軌道を変えたことを。
私も見ていた。そしてもう一つ、気づいていたことがある。
椅子がぶつかったのは南側の壁だ。析出物が少なく、目地も健全な、屋敷の中で最も頑丈な壁。北壁ではない。亀裂だらけの北壁を——避けている。
(この「何か」は、どの壁が弱いか知っている)
四日目。廊下を歩いていると、頭の上を本が三冊、横一列で飛んでいった。紙がばさばさと音を立てて、二階への階段の踊り場にぶつかった。踊り場の壁に本の角が当たり、漆喰が少し剥がれた。
(また南壁側。北壁には当てない)
五日目の夜だった。
東の角部屋で測量図に書き込みをしていると、部屋の温度が急激に下がった。吐く息が白くなる。蝋燭の炎が横に倒れるほどの風が——閉め切った室内に吹いた。
机の上のインク瓶が浮いた。
鉛筆が浮いた。
定規が浮いた。
製図用具が一つずつ、ゆっくりと宙に持ち上がっていく。
隣の部屋でリーネが悲鳴を上げた。足音が遠ざかる——階段を駆け下り、一階に逃げていった。トーマスの重い足音がそれを追う。
「お嬢様……」
マルタが入口に立っていた。来るべきか留まるべきか、判断を迷っている顔だった。
「マルタ、下がっていて。大丈夫」
大丈夫、ではなかった。インク瓶が宙で傾き始めている。中身をぶちまけたら、測量図が台無しになる。
けれど私は動かなかった。椅子を見た。本を見た。今、インク瓶を見ている。
三日間の観察で、わかったことがある。
飛んだ椅子は私に当たらなかった。
飛んだ本は私に当たらなかった。
そして——弱い壁には、一度もぶつけていない。
「当てるつもりがないのね」
声に出した。宙に浮いたインク瓶に向かって。
「三日間、ずっと見ていたわ。椅子はマルタの後ろを通ったけれど、マルタには当たらなかった。本は階段にぶつかったけれど、私の頭上を越えていった。そして——北壁には一度も物を投げていない。あそこが一番脆い壁だと、あなたは知っている」
インク瓶が止まった。宙に浮いたまま、微かに震えている。
「あなたは脅しているだけよ。怖がらせて追い出したいだけ。でも本気で傷つける気はない。壁が壊れることも避けている」
冷気が渦巻いた。怒りの気配。私の髪が激しく揺れた。
インク瓶が動いた——投げつけられる、と思った瞬間、瓶は宙で止まり、ゆっくりと机の上に戻った。中身は一滴もこぼれていない。
そして——部屋の奥の空気が歪んだ。
影でもなく光でもなく、空間そのものが揺らぐように。薄い輪郭が浮かび上がった。ドレスの裾。細い手。長い髪。色彩はなく、透き通った陽炎のような姿。
女だった。若い。私と同じくらいか、少し年上か。かつては美しかっただろう顔が、怒りに歪んでいた。
「……見抜いたか。小賢しい女め」
声は空気の振動というより、壁の中から響くようだった。低く、誇り高く、怒りを含んでいる。
「妾の土地に踏み込んでおいて、妾の威嚇を分析するとは。何者じゃ、お前は」
妾。古い一人称。貴族の、それも高位の令嬢が使う言葉だ。
「アークライト家のエリシア。この廃領の代理管理者です」
「管理者? ここを?」
透き通った顔が、嘲りで歪んだ。
「何人目じゃ。王家が送り込む厄介払いは、もう数えるのも飽きた。どうせお前もすぐに逃げる。他の者たちと同じように」
「逃げません」
即答した。怨霊の顔が——ほんの一瞬、揺らいだ。
「ただし、一つだけお願いがあります」
私は立ち上がった。怨霊と正面から向き合う。恐怖がないわけではない。けれど建物の中で恐怖に負けたことはない。今まで一度も。
「物を投げるのをやめてください。四日目に飛んだ本が階段の踊り場にぶつかって、漆喰が剥がれました。あなたは北壁を避けていますが、それでも衝撃は梁を通じて建物全体に伝わります。あなたが物を投げるたびに、この屋敷が少しずつ壊れているんです」
怨霊は——黙った。
私が恐怖の話ではなく、建物の損傷の話をしたことに、理解が追いついていない顔だった。
「……お前、正気か」
「私に言わせれば、壊れかけた建物の中で物を投げる方がどうかしています。二階の梁は先日ようやく補強したばかりなのに、あなたの振動で接合部に負荷がかかったら——」
「黙れ!」
冷気が爆発した。部屋中の家具がガタガタと揺れる。棚の上のカップが落ち、床で割れた。
「妾の土地を奪い、妾の家を壊し、妾を殺した者たちの末裔が——管理者だと? 笑わせる。出て行け。さもなくば——」
「さもなくば、何?」
私は一歩、前に出た。
「物を投げる? 壁を揺らす? それをすれば、この屋敷が壊れます。あなたが二十年守ってきたこの建物が。北壁を避けて物を投げていたのは、あなたがこの屋敷を壊したくないからでしょう」
怨霊の輪郭が、揺れた。
怒りではなく——動揺だ。
長い沈黙があった。冷気が少しずつ薄れていく。家具の震えが止まる。
「……妾は、この土地に縛られている。逃げられぬのじゃ。壊したくて壊しているのではない。怒りが——抑えられぬだけじゃ」
声が、わずかに小さくなった。怒りの下に、別のものが混じっている。疲労だ。二十年分の、消えない怒りと、消えない悲しみの疲労。
「あなたの名前を教えてください」
「……セレスティア。ヴェインロード家のセレスティアじゃ」
ヴェインロード。処刑された悪役令嬢の家。この廃領の元領主の家名。
「セレスティア様。私はこの屋敷を直しに来ました。壊しに来たのではありません。あなたが物を投げなければ、私は修繕に集中できます。それだけのことです」
セレスティアは私を見ていた。透き通った瞳で。怒りでも嘲りでもなく、理解しようとするような——戸惑いの目で。
「……変な女じゃ」
それだけ言って、輪郭が薄れていった。冷気が引き、部屋に温もりが戻った。床下からの、あの異常な熱。怨霊がいなくなると、床の温度がよくわかる。
割れたカップの破片を拾いながら、私は考えた。二十年。ヴェインロード家が処刑されてから二十年、この怨霊はここにいる。怒りに縛られ、出て行けと叫び続け、家具を投げ、壁を揺らし——けれど建物を壊すことだけは、無意識に避けてきた。
この屋敷を守ろうとしているのか。それとも、ただ壊れることが怖いのか。
「お嬢様……」
マルタが階段を上がってきた。白いエプロンの下の手が、かすかに震えていた。
「聞こえていました。お嬢様が幽霊に——建物の損傷について説教していらっしゃるのが」
「説教ではないわ。事実を伝えただけよ」
「……存じております。お嬢様にとっては建物が最優先ですものね」
マルタは割れたカップの破片を私の手から受け取りながら、小さくため息をついた。それから——少しだけ笑った。怖いはずなのに、この人は笑える。十年の信頼が恐怖に勝つ瞬間を見た気がした。
「リーネとトーマスは」
「一階で。リーネはまだ泣いています。トーマスが隣にいますので、大丈夫かと」
「マルタ。二人には、幽霊がいることを隠さなくていい。でも——物は投げなくなると思う」
「お嬢様がそうおっしゃるなら」
その夜は、何も飛ばなかった。冷気もなかった。ただ、廊下の奥から微かに——すすり泣くような音が聞こえた。建物の軋みではない。もっと人間に近い音だった。
七日目の昼過ぎ。
予定より三日早く、蹄の音が聞こえた。
黒い馬。黒い軍服。オスカーが門をくぐった。
「巡回予定は十日後では——」
「状況の確認に来た」
短い言葉。けれど馬の息が荒い。急いで来たのだ。
「屋敷で魔力の異常を感じた。前回の巡回では検知しなかった性質の——残留魔力がある」
オスカーは屋敷の壁に手を当てた。目を閉じる。掌が壁に触れている時間が、前回より長かった。
「……ポルターガイストか」
「ええ。この屋敷に、怨霊がいます。ヴェインロード家のセレスティアと名乗りました」
オスカーの手が——止まった。壁に触れたまま、微動だにしない。
名前を聞いた瞬間の反応だった。表情は変わらない。けれど、手が止まった。
「……セレスティア・ヴェインロード」
反芻するように名前を繰り返した。その声に、私が聞いたことのない重さがあった。
「怨霊としての残留魔力が強い。通常のポルターガイストは数年で消える。ここに二十年いるとすれば——異常だ」
二十年。普通は消えるものが、消えずに残り続けている。それが「異常」だとオスカーは言う。なぜセレスティアだけが残っているのか。何が彼女をこの土地に縛りつけているのか。
「怪我は」
オスカーが聞いた。壁から手を離し、振り返り——私の顔を見た。今度は壁ではなく、はっきりと。
その視線が、私の頬で止まった。
「その傷」
「え?」
頬に手を当てた。四日目に飛んだ本の角が、かすったのだ。薄い擦り傷。痛みはほとんどなかったから忘れていた。
「本がかすっただけです。大したこと——」
オスカーの手が伸びた。
手袋を外した右手が、私の頬に触れた。指先で、傷の線を確かめるように。インクの染みた指が、私の肌の上にある。
心臓が止まりそうになった。
「……浅い。跡は残らない」
オスカーはそれだけ言って、手を引いた。何事もなかったかのように。けれど私の頬は——指先が触れた場所が、建物の床下の熱とは違う温度で、じんと熱を持っていた。
「報告書を残す。巡回の記録にポルターガイストの件を含める」
事務的な声に戻ったオスカーは、馬に向かった。
「次は予定通り三日後に来る。屋敷の安全確認を重ねる」
三日後。十日の間隔が三日に縮まった。それが巡回検査官としての判断なのか、別の理由なのか——私にはわからなかった。人の顔を読むのは苦手だ。
オスカーの馬が霧の中に消えた後、マルタが横に立っていた。
「お嬢様。頬が赤うございますよ」
「……傷のせいよ」
「傷は左頬です。赤いのは右頬です」
私は何も言えなかった。マルタは黙ってエプロンの裾を正した。
その夜、廊下の奥から声が聞こえた。
すすり泣きではなかった。ぽつりと呟くような、独り言のような。
「——変な女じゃ。まったく」
壁の向こうから聞こえるセレスティアの声は、もう怒っていなかった。呆れていた。少しだけ。
呪われた廃領に、建築士と怨霊と、十年来の侍女が住んでいる。そして十日ごと——いや、三日後に——建物を読む男がやってくる。
奇妙な場所になり始めていた。




