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第5話「巡回検査官」

 朝日が壁の亀裂から差し込んだとき、私はすでに廊下の奥に立っていた。

 昨夜の音の出所を確かめるためだ。床板の荷重を足裏で確かめながら、一歩ずつ進む。根太は乾燥で縮んでいるが、まだ生きている。歩ける。

 廊下の突き当たりに広い部屋があった。扉は蝶番が錆びて開いたまま。中を覗き込んで——足が止まった。


 家具が、動いていた。

 二十年間放置されていたはずの部屋に、床の埃をこすった筋が何本も走っている。重い書棚が壁から五寸ほどずれ、椅子が部屋の中央に引き出されている。窓は割れているが風は来ていない。地震でもない——私なら揺れを感じる。

 建物の構造では説明できない。答えを保留して、廊下を戻った。今は先にやることがある。


 門の前で、ハンスが御者台に座っていた。


「お嬢様。おれにゃ祈ることしかできねえですが。どうかご無事で」


 ぶっきらぼうな声の裏に、三日間馬車を走らせた男の精一杯があった。


「ありがとう、ハンス。気をつけて」


 馬車が霧の中へ消えた。車輪の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

 これで完全に孤立した。残ったのは私、マルタ、リーネ、トーマスの四人だけ。


 振り返って屋敷を見上げた。朝の光の中、夜には見えなかった細部が見える。そして——。


(あの梁が、まずい)


 二階の窓枠の上に渡された横梁。昨日は日が陰って見落としていた。梁の中央がわずかに垂れ下がっている。木材の繊維が引き裂かれ始めている。このまま放置すれば、二階の床ごと落ちる。


「マルタ、トーマス、リーネ。二階には絶対に上がらないで」

「……梁ですか」


 マルタが窓の上を見た。建築用語は知らないが、「お嬢様が上を見て顔を険しくしている」ことは読めるようになっている。


「補強が必要なの。でも今の人手と道具では、つっかい棒を入れる木材もない」


 歯がゆかった。問題は見えている。解法もわかる。けれど手が足りない。

 水路の詰まりを確認するために北側に回ったとき——蹄の音が聞こえた。一頭。速い。馬車ではなく、騎馬だ。

 霧の中から黒い影が現れた。


 黒い馬に、黒い軍服。

 門をくぐった騎手が手綱を引き、馬が止まった。男が顔を上げたとき——心臓が跳ねた。

 暗い色の瞳。感情の読めない目。けれどその瞳が建物を見る角度を、私は知っている。舞踏会の夜、壁際で天井の亀裂を見ていた男。内覧会で「床は二十ミリだな」と言った男。王都を出る朝、大劇場のアーチを一人で見上げていた背中。

 あの人が、ここにいる。


「廃領管理の巡回検査に参った。代理管理者は」


 低い声。短い言葉。舞踏会の夜と変わらない。


「——私です。アークライト家のエリシア」


 名前を名乗った。三度すれ違って一度も交わせなかった名前を。声が少しだけ上ずったのを、自分で感じた。


 男は馬から降りた。長靴が沈んだ石畳を踏む。


「グレイヴェル家のオスカー。巡回検査を命じられている」


 オスカー。その名前が胸のどこかに落ちて、すとんと収まった。あの男に名前があること。それを知れたこと。予想以上に——大きかった。


「……王都から、お一人で?」

「馬で一日だ」


 馬車で三日の距離を、騎馬で一日。昨日の朝に王都を出て、ここまで走ってきた。


「巡回の範囲にこの廃領が含まれている。建物の状態を確認する」


 オスカーは屋敷を見上げた。天井から柱へ、柱から壁へ、壁から床へ。私と同じ順番で。

 それから壁に手を当てた。掌を石壁に押し当て、目を閉じ、指先に意識を集中するように。


「北壁の基礎が沈んでいる。水路の詰まりが原因か」


 息を呑んだ。壁に触れただけで、基礎の沈下を読んだ。私が測量図と一日がかりの調査で出した結論を、この人は掌で出してしまう。


「そうです。水路が西側で詰まって地下水位が上がって——」

「析出物は硫酸塩だな」


 遮られた。けれどセドリックや父の遮断とは種類が違う。私の言葉を止めたのではなく、先に同じ答えへ到達しただけだ。同じものが見えている人間が、同じ結論を口にしただけだ。


「二階の梁が見えましたか」


 私は聞いた。


「中央が撓んでいる。繊維が裂け始めている」


 やはり見えている。


「今の人手と道具では支えが入れられません。つっかい棒を加工できる状況ではなくて——」

「場所を指示しろ」


 オスカーは手袋を外した。その手には——やはりインクの染みがあった。褐色の消えない痕。けれど今、その手から伝わってくるのはインクの記憶ではなかった。空気が微かに張り詰める。肌の産毛が逆立つ。舞踏会の夜、三百人の頭上の梁を支えたときと同じ——魔力の気配。


「梁の中央ではなく、梁と柱の接合部を支えてください。東側の荷重が集中する一点です。中央を押さえると端部に力が逃げて、かえって壁を壊します」


 オスカーの視線が、一瞬だけ壁から外れた。

 私を見た。

 建物ではなく、私を。

 ほんの短い一瞬。その視線の中に、驚きとも確認ともつかない何かが混じっていた。この女は荷重の流れを読んでいる——という認識。

 私は見返した。言葉は交わさなかった。けれど、あの瞬間——互いの目の中に、同じ建物が映っていたと思う。


 オスカーは何も言わず屋敷に入った。二階への階段の下に立ち、天井を見上げて右手を梁と柱の接合部に向けた。

 空気が張った。

 梁の撓みが止まった。歪もうとする力と押し返す力が拮抗する。けれど今回は支える点が正確だった。私が指示した荷重集中点、そこだけに過不足なく魔力が注がれている。壁への逃げ荷重がない。


「……間に合った」


 声が少し震えた。梁が安定した。二階の床は当面持つ。一人ではできなかったことが、この人の手で可能になった。

 設計者の目と、魔力の手。初めて噛み合った瞬間だった。


「他に補強が必要な箇所は」


 オスカーが聞いた。壁を見ている。


「北壁の目地が危ういところが三箇所。それから廊下の天井の端部が——」


 気づけば、修繕箇所を次々と説明していた。測量図を広げ、現地で追記した印を指差しながら。オスカーは黙って聞き、ときどき壁に手を当てて私の説明を検証するように触れた。

 気づけば一時間が経っていた。


「お嬢様。お客様にお茶もお出しせず……」


 マルタが廊下に立っていた。手には錫のコップ——水だ。他に出すものがない。


「すみません、マルタ。構造の話に——」

「存じております。お嬢様が建物のお話を始めると、時間が消えますので」


 マルタはオスカーに水を差し出した。オスカーは手を止め、コップを受け取った。


「……礼を言う」


 短い一言。マルタは小さく頷き、それから私をちらりと見た。何か言いたげな顔をしたが、エプロンの裾を正して黙った。


「巡回の予定がある。今日はここまでだ」


 オスカーは水を一口で飲み干した。門へ向かう。黒い馬が霧の中で待っていた。

 振り返って屋敷を見上げた。壁ではなく——東の角部屋の窓の方向を。


「次の巡回は十日後になる」


「オスカー様」


 名前を口にした。声にすると自然にその音が出た。


「二階の梁の補強、ありがとうございます」


 オスカーは振り返らなかった。けれど手綱を引く手が一瞬だけ止まった。それから馬を走らせた。黒い背中が霧の中へ溶けていく。

 名前を知った。あの人の名前を。そして——あの人も、私の名前を知った。


「お嬢様」


 マルタが横に立っていた。


「あの方、壁を見るふりをして、ずっとお嬢様のことを見ていらっしゃいましたよ」

「壁を見ていたのよ、マルタ。建物を読む人は壁を見るものよ」

「そうでございますか」


 マルタの声には、十年分の「お嬢様は人の顔を読めない」が詰まっていた。


 午後、二階の探索を始めた。オスカーの魔力で梁が安定したので、床板を一枚ずつ踏みながら慎重に上がる。

 二階は大半が朽ちていた。家具は黴だらけで窓硝子は割れ、壁紙が湿気で剥がれている。けれど柱と梁の構造は直せる範囲だ。


 奥の部屋に踏み込んだとき、空気が変わった。

 温度が、急に下がった。床の熱がなくなったのではない。空気だけが冷たい。息が白くなった。秋の昼間に、息が白くなるはずがない。


 本棚から——一冊の本が落ちた。

 風はない。空気は動いていない。ぱたん、と表紙が開いた。

 もう一冊。もう一冊。棚の端から順に、一冊ずつ。まるで見えない手が一冊ずつ引き抜いているように。


 建物の構造では、説明できない。


「……そこに、いるの?」


 声に出した。返事はなかった。冷たい空気がぐるりと渦を巻いて私の髪を揺らし——止まった。本は落ちるのをやめた。静寂。けれどこの部屋にいたのは、私だけではなかった。


 階段を降りながら考えた。壁の析出物、床の熱、水路の詰まり——これらは建築で読める。けれど家具が動き、本が落ち、空気が凍る。これは建築の外にある。

 この屋敷には、構造の問題とは別の何かがいる。

 直すべきものと、直せないもの。その境界を見極めなければ——この廃領は、直しきれない。

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