第4話「壁の悲鳴」
三日目の昼過ぎ、馬車が止まった。
最初に見えたのは、霧だった。
白い、低い霧。地面から這い上がるように立ちのぼり、道の先を覆い隠している。馬が鼻を鳴らし、足踏みをして、それ以上進もうとしなかった。
「お嬢様……こ、ここがグラオフェルトでございますか……」
御者のハンスが御者台から振り返った。白髪交じりの髭面に、三日間の旅路で見せなかった恐怖が浮いている。
「呪いだ。間違いなく呪いでさ。こんな霧ぁ普通じゃねえ」
私は馬車の窓から手を出した。
霧の空気が——生暖かい。秋の午後にしてはおかしい。地面近くほど霧が濃く、膝の高さを超えると薄くなる。これは地表付近から熱が上がっている証拠だ。地下水が温められて蒸気を出しているか、あるいは地熱そのものが地表に漏れているか。
どちらにせよ、呪いではない。
「降ります」
「お、お嬢様ッ!」
荷台の隅で縮こまっていたリーネが悲鳴を上げた。アークライト家から「最低限の人手」として付けられた使用人の一人で、二十歳そこそこの若いメイドだ。栗毛を三つ編みにして、白い顔をさらに白くしている。
「呪いの霧に出たら二度と戻れないって……村の婆さまが——」
「リーネ。地面を触ってみなさい」
リーネは私を見た。正気を疑う目だった。そこへ、もう一人の使用人——年配の下男トーマスが、重い体を荷台から下ろしながらぼそりと言った。
「……お嬢様がやれと仰るなら」
トーマスはほとんど喋らない男だった。三日間で発した言葉は、両手の指で足りる。太い眉の下の小さな目は、何を考えているか読めない。けれど命じられたことはやる、という種類の忠実さがある。
トーマスが屈んで地面に手を触れた。
「……温い」
「でしょう。地面の下に熱源がある。水蒸気が上がっているの。呪いではなく、自然現象よ」
リーネは信じていない顔をしていたが、トーマスが平然と立ち上がったのを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
石畳は、測量図の通り沈下していた。
等間隔で敷かれていたはずの石が不均等に沈み、西側がより深く落ちている。地下水路が西側で詰まり、水圧のかかり方が変わったのだろう。推測が当たっている。
霧の中に、門が見えた。
左の門柱が十度ほど内側に傾いている。けれど石積みの根元は生きていた。蔓草を剥がして根石を据え直せば、立て直せる。
「マルタ、測量図を」
「はい、お嬢様」
マルタが馬車を降り、荷物の中から紙束を取り出した。霧の中でも白いエプロンが鮮やかだ。手は震えていない。
門をくぐった。
蔦に覆われた屋敷が、霧の向こうに浮かんでいた。二階建て、石造りの壁に木造の屋根。右側三分の一の屋根が崩落しているが、残りは——持っている。梁が折れたのではなく、瓦の固定が外れただけだ。直せる。
私は壁に近づいた。
石壁の目地に、白い結晶が吹き出している。指で触れた。ざらつく粉末。乾いた、鉱物質の手触り。硫酸塩の析出だ。地下水が壁の石材を通って表面に染み出し、水分が蒸発して塩類だけが残る。
(呪いの白い壁——正体はこれか)
壁の析出物を触る指先に、一瞬だけ、あの内覧会の夜が重なった。大理石の床を靴底で読んだ、あの感触。二十ミリの薄さを「当然だ」と言ったセドリック。そして——「床は二十ミリだな」と、一言で正確に拾い上げた、あの男。
壁に触れて真実を読む行為を、理解できる人間がこの世界にはいた。少なくとも一人。
けれどその人は、今ここにはいない。名前も知らないまま、王都に置いてきた。
指先から手を離した。感傷に浸っている場合ではない。目の前に、直すべき壁がある。
建物を一周した。測量図と照合しながら、ひび割れの位置、窓枠の歪み、基礎石のずれを記録していく。北側の壁が最もひどい。湿気で石が膨張し、目地が割れている。けれど——。
「直せる」
声に出していた。全員が振り返った。ハンスも、トーマスも、リーネも、マルタも。
「水路を通せば地下水位が下がります。壁の水分が抜ければ、目地を打ち直すだけでいい。屋根は右側の崩落部分だけ瓦を葺き直す。門は根石を据え直す」
南側に回った。井戸がある。覗き込むと、水面は濁っていた。
「井戸は後回し。水路を直せば、水も自然に入れ替わるはず」
膝に測量図を広げ、現実の状態を書き加えた。門の傾斜。石畳の沈下パターン。屋根の崩落範囲。析出物の位置。推定される水路の詰まり箇所。
鉛筆で引く線の一本一本に、修繕の道筋が見える。これは呪われた廃墟ではない。修繕箇所が特定できる、読める現場だ。
「お嬢様」
マルタが私の隣に立った。旅用の前掛けをエプロンの上に重ね、髪を布で覆い、完全に作業態勢だ。
「まず今夜、寝る部屋を決めませんか」
「東の角部屋。屋根が残っていて、壁の析出が少ない」
「畏まりました。——トーマス、リーネ、荷物を東の角部屋へ。ハンスさん、馬車は門の内側に。さあ、動いて」
マルタの声に、三人が動き出した。リーネはまだ怯えた顔だったが、マルタの十年の侍女歴が作る有無を言わさぬ声には逆らえない。トーマスは黙って荷物を担いだ。
ハンスだけが動かなかった。
「お嬢様。おれは、ここまでが契約でして。朝には馬車を返さにゃなりません」
「ええ。ありがとう、ハンス」
「……本気で、ここに住むおつもりで?」
困惑と恐怖が入り混じった声だった。呪いの霧の中に降り立って、最初にやったことが壁を指で擦ることだった令嬢を、どう理解していいかわからない——そんな顔だ。
「住むというより、直すのよ」
ハンスは口を開きかけ、閉じ、黙って馬を門の内側に引いた。
東の角部屋は予想通り、屋敷の中では最も状態がよかった。
天井の漆喰は一部剥がれているが、梁は通っている。窓枠が歪んで隙間が空いていたが、マルタが持参した布で塞いだ。そして、床を踏んだ瞬間——。
靴底に、熱を感じた。
(地下からの熱が、床板を通して上がっている)
指先を床板に当てた。温かい。けれど部屋全体が均一に温かいわけではない。西側が強く、東へ行くほど弱くなる。何かが地下を通って西から東へ流れている。白い霧の原因と同じ熱源だ。
測量図にはこの熱の記載がない。二十年前にはなかったのか、記録されなかったのか。
(この熱の出所を突き止めないと、床の修復ができない)
一つの問題を解くと、次の問題が現れる。建物はいつもそうだ。
マルタが古い毛布を見つけてきて床に敷き、蝋燭を灯した。最後の宿場町で買い込んだ硬いパンと乾し肉が今夜の夕食だ。水筒の水を注いだ錫のコップを手渡してくれる。
「お嬢様。この部屋、床が温かいですね」
毛布の上に座りながら、マルタが言った。
「気づいた?」
「ええ。呪いでございますか」
「呪いなら均一に温かいはず。でもこの熱は西から東へ流れている。何かが地下を通っているの」
「お嬢様がそうおっしゃるなら、呪いではないのでしょう」
硬いパンをちぎりながら、マルタは落ち着いた声で言った。建築の理屈はわからない。けれどこの人が「呪いではない」と言うなら——十年の信頼がそのまま言葉になっている。
夜が深まった。
蝋燭の灯りが石壁を照らし、影が揺れるたびに壁の亀裂が生き物のように動いて見える。隣の部屋でリーネが毛布にくるまり、時折小さく呻いていた。トーマスは入口近くに座り、無言で荷物番をしている。ハンスは馬車の中に閉じこもった。
ギシ、と天井が鳴った。
昼間の熱が冷めて木材が収縮している。木造建築ではごく普通のことだ。ギシ。パキ。ギイ。屋敷のあちこちから音がする。二十年間無人だった建物が、人が戻ってきたことで環境が変わり、反応している。蝋燭の熱。人の体温。足が踏みしめた床板の荷重。建物は変化に敏感だ。
「建物が鳴っているだけよ」
私はマルタに言った。マルタは頷き、パンの最後の欠片を口に入れた。
けれど——ひとつだけ、違う音があった。
木の収縮でも、石の軋みでもない。屋敷の奥、廊下の先の暗がりから聞こえてきた。何かが引きずられるような。重い家具が、床の上を滑るような。
ずるり、と。
マルタの手が止まった。
「……お嬢様。今の、は」
「わからない。建物の音じゃない」
廊下の先は暗い。蝋燭の光が届かない闇の中から、もう一度——ずるり。そして、何かが硬い床に当たる、コツン、という音。
私は蝋燭を手に取って立ち上がった。
「お嬢様!」
マルタが袖を掴んだ。
「暗い中で床の状態がわからないまま歩くのは危険です。お願いですから、今夜はお止めください」
正しかった。耐荷重を確認していない床を暗闘で歩くのは、建築士として許されない。
「……明日の朝、確認する」
座り直した。蝋燭の炎が揺れる。廊下の闇は静かに戻った。けれど——何かがいる。壁の析出物でもなく、床下の熱でもなく、建物の軋みでもない、別の何かが。この屋敷の奥に。
温かい床の上で、測量図を胸に抱えた。修繕箇所の印を指で辿る。水路。屋根。壁。床。そして明日——廊下の奥。
呪われた廃領の最初の夜が、静かに更けていく。
壁が軋み、床が温もり、闇の奥で何かが動く。
それでも——ここには直す場所がある。建物が私に語りかけている。壊れた場所を、直してくれ、と。




