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第3話「追放先の設計図」

 父の書斎に呼ばれたのは、翌朝のことだった。

 アークライト家の書斎は樫材の書棚で三方を囲まれている。背表紙の列は整然としていたが、私の目は右側の棚板に行く。下から三段目が、わずかに弓なりに反っている。湿気だ。この屋敷の地下は排水が甘い。五年前から指摘しているのに、誰も直さない。

 建物のことばかり考えている——セドリックの声が頭をよぎった。振り払う。


「座りなさい、エリシア」


 父、レイモンド・アークライトは机の向こう側にいた。灰色の交じり始めた髪を撫でつけ、姿勢は崩さず、声には私情が一切乗っていない。政務の相手を迎える顔だった。

 指示された椅子は座面が硬く、背もたれの角度が急だった。長居させない椅子。この書斎には、もう一脚、革張りの深い椅子がある。あれは来客用だ。私に出されたのは、こちら。


「昨夜の件は聞いている」


 婚約破棄。父はそれだけ言い、次の言葉を選ぶように一拍置いた。机の上には封書が二通。一通は王家の紋章——昨夜、マルタが私に渡したものと同じもの。もう一通は蝋封が切られた状態で、当主宛の文面が覗いていた。


「お父様。大劇場のことをお話しさせてください」


 私は待たなかった。令嬢として無作法だとわかっている。けれど、これだけは今言わなければならない。


「大劇場の床材は設計より薄く施工されています。天井の装飾は構造的な機能を削られていて、荷重分散ができない状態です。地下水脈への対処も——」

「エリシア」


 父は静かに、けれど確実に遮った。書斎の空気が冷えた。


「大劇場はロウゼンハイム家の監修であり、王家の事業だ。アークライト家が口を挟む立場にはない」

「けれど、あの施工では五年も——」

「エリシア」


 二度目。父の声は穏やかだったが、壁だった。セドリックと同じ壁ではない。セドリックは建築を理解しなかった。父は——理解した上で、塞いでいる。書棚の湿気を五年間放置してきたこの人は、建物に無関心なわけではない。直さないと決めたのだ。


「王家の威信に関わる事業について、婚約を破棄された令嬢が公に警告を出せばどうなる。わかるな」


 わかる。逆恨みと取られる。変人令嬢の見苦しい報復だと噂される。アークライト家全体が王家の不興を買う。

 わかっているから悔しい。正しいことを言っても、それを言う立場がなければ、正しさは届かない。


「……はい」

「よろしい」


 父は机の上から書類の束を取り上げた。任命書と一緒に括られていた、もう一つの厚み。


「王家から、ヴェインロード家旧領の代理管理が命じられた。当家として、この任命を受ける。代理管理役はお前だ」


 追放。体のいい政治的な追放。王家に逆らわず、ロウゼンハイム家との距離を取り、アークライト家の傷を最小限にする判断。父にとっては合理的なのだろう。

 私は反論しなかった。昨夜の馬車の中で、任命書を見た時点で覚悟はしていた。


「これを持っていけ」


 差し出されたのは、任命書ではなかった。

 もっと分厚い書類の束。表紙には「代理管理証書」と記され、その下に王家の印が押されている。


「代理管理証書……?」

「この証書があれば、当該領地における修復工事、資材調達、人員雇用について、管理者の裁量で契約を結べる。王家の印入りだ」


 私は書類を受け取った。手の中の重み。紙の重みではない、権限の重みだ。

 これは——ただの追放ではない。任命書だけなら「呪われた土地で暮らせ」という罰でしかない。けれど代理管理証書は、修復工事の契約権限と、資材調達の裁量権を管理者に与える。呪われた土地を「管理する」ための法的な道具だ。

 なぜ父がこれを手配できたのか。王家からの任命に、わざわざこの証書をつけさせたのか。それとも当主の判断で——。


「……お父様、これは——」

「必要なものは自分で判断しろ。当家から人員や資金の支援は出せない」


 父は言葉を切った。ほんの一瞬、机の上から目を上げて私を見た。


「——壊れた建物の直し方は、お前が一番よく知っているはずだ」


 その一言を、うまく受け取れなかった。追い出す口実に添えた慰めなのか、それとも。

 考える間を与えず、父はもう書類に目を落としていた。面会は終わりだ、という書斎の主の所作。私は立ち上がり、証書の束を胸に抱えて、一礼して退室した。


 廊下に、マルタが立っていた。

 白いエプロンを正し、背筋を伸ばし、涙の痕は拭い去られている。目元が赤いのは、一晩泣き切った名残だ。けれど顔つきは——覚悟を決めた人間のものだった。


「お嬢様」

「マルタ。あなたは屋敷に残りなさい。呪われた土地に付き合わせるわけには——」

「参ります」


 遮られた。侍女が令嬢の言葉を遮るのはマナー違反だが、マルタの目にはそんなことを気にする余地がなかった。


「呪われた土地であろうと、お嬢様の袖のインクを洗うのは私の仕事でございます」


 マルタはエプロンの裾を握りしめた。


「それに——あの図面の夜を知っているのは、私だけです。お嬢様がどれほどの線を引き、どれほどの夜を費やされたか。誰かが覚えていなければなりません」


 私はしばらく、マルタの顔を見ていた。建物を読むのは得意だ。人の顔を読むのは苦手だ。けれど今のマルタの表情は、読み間違えようがない。


「……ありがとう、マルタ」


 小さく頷いて、マルタはすぐに侍女の顔に戻った。


「では、お支度を。グラオフェルトまで馬車で三日と聞きましたので」

「その前に」


 私は代理管理証書の下にある、もう一つの束を示した。古い綴じ紐で括られた黄ばんだ紙。父がいつ挟んだのか——ヴェインロード家旧領の測量図と地所の記録だった。二十年以上前の調査記録。父は、これを黙って入れていた。


 自室に広げた。

 机の上に測量図を開く。紙の端は茶色に変色し、インクの滲んだ箇所もある。けれど図面は読める。等高線、門の位置、石畳の配置、屋敷の外形。

 門がある。傾いているかもしれないが、門柱が残っていれば直せる。石畳がある。沈下していても、地盤の問題さえ特定できれば手が打てる。屋敷がある。規模は——そこそこ大きい。梁と柱の数から推定して、少なくとも十部屋以上。


 そして、水路の線。

 屋敷の北側から東へ流れ、南の井戸に繋がっている。けれど途中に破線がある。途切れている箇所。


(水路が塞がっている?)


 井戸が濁っているという噂は、この水路の詰まりが原因かもしれない。水が正しく流れなければ、溜まった水は腐る。白い霧が立つというのも、地下の水と熱が関係しているなら——呪いではなく、水路と排水の問題だ。

 鉛筆を手に取った。無意識ではなく、意識して。

 測量図の余白に、修繕の印をつけ始める。門。石畳の沈下箇所。屋敷の梁で歪みが出やすい位置。水路の詰まり。井戸。

 一つ、二つ、三つ、四つ——印は増えていく。これは追放先ではない。修繕現場だ。


「お嬢様、お荷物に製図用具も入れてよろしいですか」


 衣装箱を抱えたマルタが部屋に入ってきた。私の手元を覗き込み、鉛筆の印だらけになった測量図を見て——少しだけ微笑んだ。


「当然でしょう。インク瓶は三つ。定規は二本。あと——」


 旅支度の中身を指示しながら、私は社交用のドレスを箱から外し、代わりに厚手の作業着を入れた。繻子の靴を下ろし、歩ける革の長靴を入れた。コルセットは——迷って、一つだけ残した。令嬢である必要はないが、権限を使う場面で身なりは武器になる。


 翌朝、馬車が王都を出た。

 石畳の響きが車輪を通じて座席に伝わる。王都の石畳は——悪くない。目地の打ち方が丁寧だ。これを敷いた職人は、わかっている人間だ。

 大劇場の前を通過する一瞬、私は窓から目を向けた。

 正面入口の大アーチが朝日を受けて光っている。私が描いた線。石の中に生きている、正しい曲率。

 その傍らに——黒い軍服の背中があった。

 男が大アーチを見上げていた。一人で。私と同じ角度で、私と同じ場所を見ている。楔石のあたり。荷重が集中する、あの一点。

 馬車が通り過ぎる。ほんの数秒。男はこちらを見なかった。私も声をかけられなかった。窓枠を掴んだ指先に力が入った。インクの染みた、この手と同じ手を持つ人。名前も知らないまま、王都が遠ざかっていく。


「お嬢様、何か見えましたか」


 マルタが聞いた。


「……いいえ。何でもないわ」


 嘘だった。けれど、今は前を向く。

 膝の上に広げた測量図の、水路の破線を指で辿った。修繕箇所の印を数え直す。まず水。それから屋根。次に壁。最後に内装。建物には直す順番がある。人の住める場所を取り戻すには、正しい手順がいる。

 呪われた廃領に、建築士が行く。

 壊れたものを——直すために。

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