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第2話「設計者の名前」

 王都大劇場の内覧会に足を踏み入れた瞬間、私の目は天井ではなく床に落ちた。

 大理石の厚みが足りない。

 三十ミリ厚を指定したのに、これは二十ミリもない。靴底を通じて伝わる反響の軽さで、わかる。大理石は厚みで音が変わる。三十ミリの重厚な響きではなく、これは薄い板を下地に貼ったときの、頼りない音。冬場の凍結融解を三度も繰り返せば、端から欠けていく。五年保たない。

 私が設計した大劇場は、こんな床ではなかった。


「お嬢様、どうかなさいましたか」


 隣を歩くマルタが、小声で問いかけてきた。アークライト家に仕えて十年になる私付きの侍女で、図面机の消しカスを毎朝掃除し、インクだらけの私の指を「また洗いますよ」と叱るのは、この女性の役目だった。短く結い上げた栗色の髪と、何があっても崩さない白いエプロンが、マルタの矜持のようなものだ。


「床を見ていたの」

「……また、でございますか」


 マルタは小さくため息をつきながらも、足元に目をやった。彼女は建築の知識を持たない。けれど私が「床を見ている」と言えば何か問題があるのだと理解する。十年の蓄積がそういう信頼を作る。

 私は歩きながら、視線を上へ移した。天井から柱へ、柱から壁へ——いつもの癖だ。

 壁のモールディングに、隙間が出ている。石膏と木枠の間に爪先ほどの亀裂。これも私の図面にはなかった施工だ。天井の装飾は——簡略化されている。私が描いた天井飾りは、荷重を分散させる機能を兼ねていた。飾りに見えて、実際には天井パネルの継ぎ目を押さえ、経年による垂れ下がりを防ぐ構造体。それが、見た目だけを残して中の骨を抜かれている。

 美しい。けれど、中身がない。

 建物を読む目が叫んでいた。これは私の設計ではない、と。私の設計思想を借りた、別の何かだ。


 大広間の正面に、それはあった。

 額装された設計図面。私が夜ごと描き、朝ごと見直し、百回は引き直した線。あの大劇場の心臓部。

 その右下——署名欄に記されていた名前。


「設計監修 セドリック・ロウゼンハイム」


 私の名前は、どこにもなかった。


「お嬢——」


 マルタが息を呑んだ。彼女は知っている。あの図面を描いたのが誰か。何度目の深夜に紅茶を運び、何十回インク瓶を取り替え、朝方に机に突っ伏して眠る私に毛布をかけたか。

 私は額装の前から離れ、微笑みを作り直した。

 清書図面の署名は、慣例として提出者の名前が入る。私が描いた設計であっても、清書を依頼し、王家へ提出したのがセドリックであれば、署名欄はセドリックのものになる。それが王都の建築界の慣行だった。設計者と提出者の区別は、図面の線そのものの中にしか残らない。


(けれど——清書を預ける前に、初回の設計図は建築ギルドへ登録してある)


 その事実を、今ここで口にする意味はない。静かに、胸の底に沈めた。


「セドリック様」


 私は婚約者の元へ歩み寄った。王族の列席する華やかな場。百人を超える貴族たちが完成間近の大劇場を見上げる中、セドリックは数人の高位貴族と談笑していた。私が近づくと、一瞬だけ眉をひそめ——すぐに穏やかな顔に戻した。


「エリシア。どうだ、感想は」

「見事な仕上げですわ。特に、この床の大理石——二十ミリの薄さで、これだけの光沢を出すのは、相当な腕の施工者でなければ」


 建築士にしか通じない皮肉だった。大理石を指定より薄く切り、表面だけ磨き上げて厚みの不足を隠す。素人の目には上等な仕事にしか見えない。けれど構造を知る者なら、これが手抜きだとわかる。


「当然だ。最高の素材と技師を選んだのだから」


 セドリックは胸を張った。私の言葉を、褒め言葉として受け取っている。二十ミリという数字の意味に、気づいてすらいない。

 この人は、大劇場の設計図を自分の名前で提出した。地下水脈への警告も、古い暗渠にかかる荷重の計算も、避難動線の見直しも——私が赤入れした部分をすべて「余計な落書き」として清書から消した。そして今、図面の形だけを自分の功績として語っている。

 図面の形は盗める。けれど設計思想は盗めない。大理石の厚みひとつ語れないこの人には、この建物が何年保つかすら見えていない。


「——なお、本日はもう一つ、ご報告がございます」


 セドリックの声が大広間に響いた。貴族たちの視線が集まる。


「アークライト家令嬢エリシアとの婚約を、本日をもって解消いたします」


 ざわめきが広がった。

 私は——驚かなかった。舞踏会の夜、温度のない革手袋に触れたときから、予感はあった。天井の亀裂よりも前から崩れていたもの。それが今、名前を得ただけだ。


「エリシア嬢は聡明な方ですが、残念ながら——建築という専門分野への過度な執着が、令嬢としての本分を損ねていると判断いたしました。ご理解いただけましたら幸いです」


 穏やかな声。労るような口調ですらあった。つまり、憐れんでいるのだ。図面にしがみつく変人令嬢を哀れに思っている。周囲の貴族たちもセドリックに同調するように頷き、私に向ける目は同情と嘲笑の混ざったものだった。


「お嬢様……!」


 マルタが震えていた。白いエプロンを握りしめ、唇を噛んで、涙をこらえている。


「あの図面に——お嬢様がどれほどの夜を費やされたか——この方はご存じないのですか……!」


 声が裏返りそうになるマルタの手に、私はそっと触れた。冷たくなった侍女の指を包む。


「マルタ。建物は残るわ」


 マルタは私を見上げた。意味がわからない、という顔だった。わからなくていい。これは建築士の信条だ。人の記憶は薄れ、署名は書き換えられる。けれど三十ミリで指定された床に二十ミリしか使われていない事実は、建物の中に刻まれ続ける。モールディングの隙間も、骨を抜かれた天井飾りも。いつか建物そのものが、何が削られ、何が改変されたかを語る。


 人々が散り始めた広間で、私はもう一度だけアーチを見上げた。

 正面入口の大アーチ。楔石の角度、スプリングラインの高さ、曲率の変化。これだけは正しく施工されている。私が図面に描いた通りの線が、石の中に生きている。


「良いアーチだった」


 声は横から聞こえた。

 振り向くと——黒い軍服。舞踏会の夜、壁際で天井を見ていた、あの男。

 私はたぶん、一瞬だけ令嬢の微笑みを忘れた。


「あの署名の人間には、あのアーチは設計できない」


 男は私の顔ではなく、私の右手を見ていた。インクの染みた指先。何百枚もの図面を引いた痕跡は、どれだけ洗っても完全には消えない。

 男の手にも——同じ痕があった。親指と人差し指の間、ペンを握る位置に残る、褐色の薄い染み。図面を引く人間だけが持つ手だ。


「……どなたか、存じませんけれど」


 私はかろうじてそれだけ言った。心臓が妙に速く打っていた。舞踏会の夜は、天井の危機という緊張の中での接触だった。今は違う。婚約を破棄され、名前を奪われ、広間に取り残された私の前に、この男はもう一度現れた。同じものが見える人間として。


「床は二十ミリだな」


 男は短くそれだけ言った。

 私の心臓が、もう一度跳ねた。わかるのだ、この人には。セドリックが理解できなかった皮肉を、この男は一言で正確に拾い上げた。

 何か返そうとしたけれど、男はもう背を向けていた。黒い軍服の背中が広間の出口へ消えていく。名前も聞けなかった。また。


「お嬢様……あの方は」

「知らないの。本当に」


 マルタの問いに答えながら、私は自分の胸の中の妙な鮮明さに戸惑っていた。婚約を壊され、署名を奪われた夜に、なぜこんなにも鮮やかに覚えているのだろう——あの男の手の、インクの染みを。


 帰りの馬車の中で、マルタがとうとう泣いた。

 声を殺して、ハンカチを何度も目に押し当てた。私は何も言えなかった。慰める言葉を持たない自分が情けなかった。けれど、建物を読む目は嘘をつけない。ここで「大丈夫」と言えば、それは嘘になる。今の私は、大丈夫ではない。


「お嬢様。これが……屋敷に届いておりました」


 マルタが涙を拭きながら差し出した封書には、王家の紋章が押されていた。

 中身は一枚の任命書。


 ——ヴェインロード家旧領の代理管理を、アークライト家令嬢エリシアに命ずる。


 呪われた廃領。処刑された悪役令嬢の旧領。白い霧が立ちこめ、井戸は濁り、住む者もいないと聞く土地。王家が持て余し、誰も引き受けない場所。

 婚約破棄の次は、体のいい追放か。筋書きとしてはわかりやすい。


「お嬢様——そんな、こんなことが……」


 マルタが新しい涙をこぼした。私は任命書を折りたたみ、懐へ入れた。そして一つだけ聞いた。


「マルタ。廃領には、建物があるのかしら」


 マルタが泣きながら目を丸くした。今しがた人生を壊されたばかりの令嬢が最初に口にすることが、それか——と言いたげな顔だった。

 けれど、これが私だ。天井から見る。柱を読む。壁を触る。床を聴く。そして建物が人を守れるかどうかを確かめる。

 セドリックの署名で飾られた大劇場は、いつか自分の中身を語り出す。二十ミリの床も、隙間だらけのモールディングも、骨を抜かれた天井飾りも——全部。建物は設計者の思想を覚えている。何を守ろうとし、何を無視したかを。


 馬車の窓の外、王都の灯りが遠ざかっていく。

 その先に待つ廃領がどんな姿をしているか、まだわからない。けれど建物がある限り、私にはやることがある。それだけは、確かだった。

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