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第10話「完成記念冊子」

 床下暖房の最初の管が繋がった朝、廃領に温もりが通った。

 ドルフが陶管を埋設し、私が分岐点の角度を調整し、オスカーが接合部に魔力を流して水漏れを封じた。温泉水が管の中を走り、東の角部屋の床が——初めて、均一に温かくなった。

 床板に手を当てたリーネが目を丸くした。


「温かい……! 床が、全部温かいですっ! 呪いじゃなくて?」

「呪いじゃないわ。温泉の湯が管の中を通っているだけ」

「すごい……すごいって……」


 リーネは床に座り込んで、両手で板を撫でていた。呪いの熱が、暖房に変わった。追放先の廃領が、冬を越せる場所になり始めている。


 昼過ぎ、ブラントの荷馬車が門をくぐった。

 二度目の訪問だ。穀物、塩、蝋燭、釘、そして——。


「これは廃領の管理者様にと思いましてね。王都で出回っている冊子です」


 ブラントが帳面の間から取り出したのは、薄い装丁の印刷物だった。表紙に金文字で——「王都大劇場 完成記念冊子」。


 指先が冷たくなった。

 表紙の下に、小さく署名がある。「設計監修 セドリック・ロウゼンハイム」。


「北東交易路の宿場で、建材商が配っていましてね。王都の威信をかけた大劇場だとか。管理者様は建築にお詳しいようでしたから、何か参考に——」


「ありがとうございます、ブラントさん」


 声は平静だったと思う。けれど冊子を受け取る手が、わずかに震えた。マルタが気づいた。何も言わなかったが、白いエプロンの下で拳を握っていた。


 東の角部屋で、冊子を開いた。

 美しい印刷だった。大劇場の外観図。正面広場の大噴水。王族席の装飾。舞台機構の概略。セドリックが王家の威信と自分の功績を誇示するために作らせた冊子——それは一目でわかった。

 けれど私が見ているのは、装飾でも噴水でもなかった。


 断面図。

 冊子の中程に、大劇場の断面図が載っていた。天井構造、客席の配置、舞台下の大型設備室、王族専用の地下通路——概略とはいえ、構造の骨格が読める。


(……待って)


 天井の断面を指で辿った。中央天井のアーチが大きすぎる。私の元設計では、地下の古い暗渠の位置を考慮してアーチの半径を小さくしていた。暗渠の上に大きな荷重をかければ、地盤沈下で支持点がずれる。けれどこの断面図のアーチは——私の設計より大きい。見栄えを優先して広げたのだ。


 舞台下の大型設備室。これも私の設計にはなかった。舞台の下に、地下二層にわたる巨大な設備空間を作っている。排水経路を圧迫している。しかも王族専用の地下通路が——排水路と交差している。


(排水路を分断している。雨季に地下水位が上がったら——)


 鉛筆を取った。冊子の余白に、計算を書き始めた。天井アーチの拡大による荷重増加。地下設備室の重量。排水経路の分断。古い暗渠との干渉。すべてが——悪い方向に重なっている。


 すぐには落ちない。構造自体はまだ持つ。けれど条件が重なれば——大雨の後の地盤軟化、季節の温度変化による材の伸縮、落成式のような大人数の集中荷重——急速に劣化が進む。数年。もしかしたら、もっと早い。


「お嬢様」


 マルタの声が遠くから聞こえた。いつの間にか、陽が傾いている。


「お嬢様。蝋燭を持ってまいりました。それと——オスカー様がいらしています」


 顔を上げた。入口にオスカーが立っていた。三日ごとの巡回。けれど私の頭はまだ大劇場の断面図の中にいた。


「この冊子を見てください」


 立ち上がり、冊子をオスカーに差し出した。断面図のページを開いて。


「天井のアーチが、元の設計より大きくされています。地下に大型設備室と王族専用通路が増設されていて、排水経路を分断している。古い暗渠の位置と合わせると——」


「エリシア」


 オスカーの声が、私の言葉を止めた。冊子を受け取りもせず、私を見ていた。壁ではなく。建物でもなく。


「その劇場は、もうお前の仕事ではない」


 空気が止まった。


「……何を」

「お前は追放された。図面は奪われた。警告は握り潰された。その上でまだ、あの劇場の心配をするのか」


 冷たい言葉ではなかった。怒りでもなかった。けれどそこには——壁があった。オスカーと私の間に、初めての壁が。


「あの劇場には何千人もの人が入ります。落成式には王族も来る。もし天井が——」

「落成式を止める権限はお前にない。俺にもない」


 事実だった。正しかった。けれど——。


「正しいかどうかの話ではありません。あの天井の下に人がいるんです。舞踏会の夜、三百人の頭上を見たときと同じです。見えてしまったら——見なかったことにはできない」


 オスカーは黙った。長い沈黙だった。冊子が私とオスカーの間に垂れ下がっている。


「……今ここで必要なのは、この屋敷を直すことだ」


 それだけ言って、壁に手を当てた。いつもの検査の姿勢。背中で会話を閉じた。


 私は冊子を机に置いた。指先がまだ震えている。怒りではない。もどかしさだ。見えているのに手が届かない。直せるのに直す権利がない。それが——建築士にとって、最も苦しいことだ。


「お嬢様」


 マルタが静かに入ってきた。蝋燭を机に置き、私の隣に立った。


「オスカー様は——お嬢様を止めたのではないと思います」

「止めていたわ。あの劇場のことは考えるなと」

「いいえ。あの方は——お嬢様が傷つくことを止めたいのだと思います」


 マルタの声は穏やかだった。十年来の侍女は、建物は読めないが、人は読める。


「お嬢様を追い出した人たちのために、お嬢様がまた苦しむのを——見ていられなかったのではないですか」


 私は何も言えなかった。そういう読み方は——私にはできない。壁なら読める。人の心は読めない。


 オスカーが帰る前、門の前で一言だけ交わした。


「冊子は預かっていていい。ただし——今は、ここの仕事を」


 短い言葉。けれどその短さの中に、さっきとは違うものが混じっていた。命令ではなく——願いに近い何か。


「……はい。今は、ここを」


 オスカーの馬が霧の中に消えた後、壁の中から声がした。


「——あの男、下手じゃな。お前を心配しておるのに、叱っておるように聞こえる」


 セレスティアだった。


「心配?」

「当たり前じゃ。お前がいなくなったら、誰がこの屋敷を直すのじゃ。妾も困る。あの男も——困るのじゃろうな。妾とは違う理由で」


 セレスティアの声は、いつもの呆れた調子だった。けれど最後の一言だけ——少しだけ、優しかった。


 東の角部屋に戻った。床下暖房の温もりが足裏に届く。龍脈の力で温められた湯が、陶管の中を静かに流れている。この部屋は、もう寒くない。

 この屋敷は、もう廃墟ではない。


 冊子を開いた。天井の断面図が、蝋燭の光に照らされている。

 数年以内に——条件が揃えば、もっと早く——あの天井は危険になる。けれど今の私にできることは、ここにいて、この廃領を直すことだけだ。


 今日は、グラオフェルトを選んだ。

 けれどあの天井は——待ってはくれない。

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