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第11話「帳簿の令嬢」

 リーネのパンが三種類になった。

 丸パン。平パン。そして今朝初めて焼いた、塩漬け肉の脂を練り込んだ惣菜パン。形はまだいびつだが、噛むと肉の塩気が広がって——これは、うまい。


「リーネ、これ美味しい」

「ほんとですかっ? マルタさんに脂の量を三回も直されたんですけど——」

「三回直したからこの味になったのでしょう。次は一回で済むようになさい」


 マルタは厳しく言ったが、口元がわずかに緩んでいた。


 朝食の片付けをしているとき、ブラントの荷馬車の音が聞こえた。三度目の来訪。間隔が短くなっている。取引が定着してきた証拠だ。


「おはようございます、管理者様。今日は塩と蝋燭と漆喰、それと——人を一人、連れてきました」


 荷馬車の幌の後ろから、女が一人降りてきた。

 二十代半ば。眼鏡をかけている。髪をきっちりと結い上げ、灰色の実用的な服を着て、片手に帳面を——いや、帳面が三冊。もう片方の手にインク壺と筆を持っている。荷馬車から降りる前に、門柱の傾きを一瞥し、石畳の沈下パターンを一瞥し、屋敷の壁を見上げて——帳面に何かを書いた。


「リディアと申します。帳簿管理と経理が専門です。ブラントさんに、こちらで人手を探していると伺いまして」


 声は澄んでいた。速い。無駄がない。帳面のページをめくるような話し方だ。


「お話は伺っていますが——失礼ですが、ご経験は?」

「王都の穀物商アーレンス商会で三年、帳簿を管理していました。商会が廃業した後、北東交易路で仕事を探しておりましたところ、ブラントさんに」


 ブラントが帽子を取って補足した。


「私の取引先の商会でしてね。腕は確かです。数字を扱わせたら、この子の右に出る者はそうおりません。ただ、口が達者すぎて前の雇い主と揉めたという話もありましてね——」

「ブラントさん。余計なことを」

「いやいや、正直が商売の基本でしてね」


 リディアは眼鏡を指で押し上げ、私を真っ直ぐに見た。


「管理者様。お手元に帳簿はございますか」

「帳簿は——ありません。購入記録は測量図の裏に」

「測量図の裏に」


 リディアの眉が、ぴくりと上がった。


「失礼ですが、この廃領の収支管理はどなたが」

「私が。購入したものはすべて記憶して——」

「記憶」


 もう一度、眉が上がった。それから帳面を開き、走り書きを始めた。


「穀物の購入日と数量。塩漬け肉の樽の重量と単価。蝋燭の本数と使用量。釘の規格と消費ペース。漆喰の使用箇所と残量。これらを、記憶で?」


「……はい」


「管理者様。それは、帳簿がないということです」


 正論だった。ぐうの音も出ない。


 その日の午後、リディアは屋敷中を歩き回った。部屋の数を数え、壁の補修状況を記録し、ドルフに資材の在庫を聞き、マルタに食料の残量を確認し、リーネにパンの原価を計算させた。


「リーネさん。穀物一袋から何個パンが焼けますか」

「え、えっと……二十……いや、三十……くらい、かなって……」

「正確な数字をお願いします。次に焼くときから、個数を数えてください」


 リーネが目を白黒させている。マルタは腕を組んで見ていた。


「お嬢様。あの方、なかなか容赦がありませんね」

「でも正しいわ。私は建物ばかり見て、数字の管理を怠っていた」


 夕方までに、リディアは帳簿の初稿を仕上げた。

 三冊の帳面に、購入記録、在庫管理、修繕工程の進捗が整理されている。数字の並びは正確で、余白に計算式が小さく書き込まれていた。


「管理者様。現状の問題点を三つ、報告してよろしいですか」


 三つ。数字の人だ。


「第一に、食料の消費計画が未策定です。現在の在庫と消費速度から逆算すると、次のブラントさんの来訪までに穀物が不足します。第二に、建材の使用量が記録されていません。漆喰の残量と補修予定面積が合致していない可能性があります。第三に——」


 リディアは眼鏡を押し上げた。


「——人件費の概念がありません。ドルフさんへの報酬はどうなっていますか」


 私は——言葉を失った。ドルフへの報酬。考えていなかった。オスカーが手配した職人だから、てっきり巡回検査の一環として——。


「ドルフさんに確認しましたところ、『嬢ちゃんに言われたから来た』とのことですが、報酬の取り決めはないそうです」

「……それは、私の落ち度です」


 建物は読めるのに、人への対価を見落としていた。図面の裏に数字を走り書きして「管理」だと思っていた。恥ずかしかった。


「代理管理証書に人員雇用裁量権があります。リディアさん。正式に、この廃領の帳簿管理を依頼したい。報酬は——」

「月額銀貨五枚。食事と寝床付き。帳簿の最終確認権は管理者様に」


 即答だった。相場を知っている。交渉の余地を残しつつ、明確な条件を出す。商会で三年帳簿を管理した人間の値段の付け方だ。


「承認します。ドルフさんの報酬も、リディアさんの基準で算出してください」

「畏まりました。明日までに提案書を出します」


 リディアは帳面を閉じた。初めて——ほんの少しだけ、口元が緩んだ。


「よい職場になりそうですね。数字が正直な場所は、働きやすいですから」


 夕食は、初めて全員が揃った。

 東の角部屋に、マルタが古い布を敷いて食卓を整えた。リーネの惣菜パンと、塩漬け肉を煮込んだスープ。錫のコップに汲んだ井戸水は、水路を直してから澄み始めている。

 私、マルタ、リーネ、トーマス、ドルフ、リディア。六人。蝋燭の灯りと、床下暖房の温もり。壁にはまだ析出物の痕が残っているが、亀裂は塞がり、天井からの雨漏りは止まっている。


 ドルフが惣菜パンを一口で頬張り、鼻を鳴らした。


「悪くねえ」


 ドルフの「悪くねえ」は、リーネにとって最高の褒め言葉だったらしい。三つ編みを揺らして、もう一個パンを差し出している。


 蹄の音がした。

 遅い時間の訪問だった。オスカーが門をくぐったとき、すでに陽は沈んでいた。


「巡回が遅れた。——人が増えたな」


 食卓の六人を見て、オスカーの足が止まった。壁を見る癖が出かけて——止まった。壁ではなく、食卓を見ていた。灯りに照らされた六人の顔を。


「オスカー様。お食事を」


 マルタが錫のコップとパンを用意した。オスカーは食卓の端に座った。七人目。けれど彼は食べ始めなかった。パンを手に持ったまま、食卓を見ていた。


「……オスカー様?」


 私が声をかけた。オスカーは——少しだけ、目を伏せた。


「人が集まって飯を食う光景を見るのは久しいな」


 短い言葉だった。けれどその短さの中に、長い時間が詰まっていた。「久しい」ではなく「覚えていない」と言いかけて、やめたような。

 この人は——いつも一人で食事をしているのだろうか。王都で。公爵家で。巡回検査の道中で。


(人の気持ちを読むのは苦手だ。けれど今の——今のは、わかった)


 寂しかったのだ。この人は。


「オスカー様。パンが冷めます」

「……ああ」


 オスカーはパンを一口噛んだ。噛んで——止まった。


「……塩気がある」

「リーネが焼いた惣菜パンです。塩漬け肉の脂を練り込んであります」

「……悪くない」


 ドルフと同じ言葉だった。けれど声の温度が違った。ドルフの「悪くねえ」は職人の評価で、オスカーの「悪くない」は——もっと柔らかいものだった。


 食後、リディアの帳簿を見せた。


「帳簿管理者を雇いました。リディアさんです。代理管理証書の人員雇用裁量権に基づいて」


 オスカーは帳面をめくった。数字を辿る目は、図面を読むときと同じ精度だった。


「……正確だな。商会仕込みか」

「アーレンス商会で三年だそうです」


 オスカーは帳面を返し、私を見た。前回の巡回で壁を作った目ではなかった。前回の溝が——消えたわけではない。けれど食卓で七人分のパンを食べた後の目は、少しだけ温度が違った。


「この廃領は——変わり始めている」


 建物の話ではなかった。人の話だった。この男が人の話をするのを、初めて聞いた。


「変わっているのは建物です。壁と屋根と水路と暖房を直しただけで——」

「それだけではない」


 短く遮られた。けれどその先は言わなかった。何が「それだけではない」のか——私にはわからなかった。けれど聞いてはいけない気がした。この人が自分から言葉にするまで、待つべきだと。


 建物なら、壁を叩けば答えが返る。人は——待たなければならない。


 オスカーが去った後、リディアが帳面を片付けながら言った。


「管理者様。あの方が来るたびに、屋敷の空気が変わりますね。数字には出ませんが」

「……空気?」

「ええ。具体的には、マルタさんが茶を淹れる速度が一・三倍になります。リーネさんがパンを追加で焼きます。トーマスさんが門の前を掃きます。そしてドルフさんが鼻を鳴らす回数が減ります」


 数字で人を読む。建物で世界を読む私とは、まったく別の読み方だ。


「それは、何を意味するの」

「歓迎されている、ということですね」


 リディアは眼鏡を押し上げて、帳面を閉じた。


 その夜、セレスティアの声が壁から聞こえた。


「——人が増えたな。賑やかになった」

「うるさくて嫌?」

「……嫌ではない。妾の屋敷に人が住んでおるのを見るのは——嫌では、ない」


 長い沈黙の後、小さく付け加えた。


「ただし、壁を汚すなと言っておけ」


 怒りではなかった。照れ隠しだった。二十年間一人だった怨霊が、七人の食卓の音を聞いている。


 翌朝、ブラントが出発の支度をしていたとき、鞍袋から封書を取り出した。


「忘れるところでした。北東交易路の中継所で預かりましてね。アークライト家の紋章が押してあります」


 封書を受け取った。父の家紋。見覚えのある蝋の封印。

 手が——震えた。王都を出て以来、実家からの連絡は一度もなかった。


 封を切る前に、一つだけわかった。

 この手紙が何を告げるにせよ——私はもうあの頃のエリシアではない。壁を読み、水路を直し、龍脈を見つけ、怨霊と共存し、七人の食卓を持つ廃領の管理者だ。


 封を切った。

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