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第12話「父の書斎」

 父の字だった。

 硬い筆跡。右上がりの癖。インクの濃淡が均一な、感情を排した実務の筆致。私が子供の頃から見慣れた——レイモンド・アークライトの手紙。


 封を切った指先が、まだ冷たい。


『エリシアへ。

 建築ギルドより、貴殿の初回登録図面に関する照会が入った。大劇場の設計監修に係る帰属確認の一環と思われる。ギルド長マティアスへの紹介状を同封する。必要に応じて対処されたし。

 なお、廃領の管理状況について、巡回検査官より定期報告を受けている。

                  レイモンド・アークライト』


 追伸があった。本文と同じ筆跡だが、インクの濃さがわずかに違う。書き足したのだ。迷った末に。


『書斎の製図机は、そのままにしてある。』


 手紙を持つ指が、震えた。


 一行。たった一行の追伸。けれどその一行が——王都を出てから一度も触れなかった場所に、触れた。父の書斎。私が夜遅くまで図面を引いていた製図机。セドリックに奪われた清書の元図を描いた場所。インクの染みが残っている、古い樫の机。

 それを——そのままにしてある。片付けていない。私の痕跡を消していない。


(冷たいだけの人ではなかった——のだろうか)


 王都を発つ朝のことを思い出した。父は私を見送らなかった。代理管理証書と測量図を黙って渡しただけだった。庇わなかった。王家にもセドリックにも逆らわなかった。けれど——証書を渡した。測量図を渡した。そして今、ギルド長への紹介状を送ってきた。


 声を出さないまま、私を見捨てないでいる。不器用に。遠回りに。表には出せない形で。


「お嬢様」


 マルタが入口に立っていた。私の手元を見て——手紙の震えを見て——何も聞かず、白湯を一杯持ってきた。温かい井戸水を沸かしたものだ。


「お父様からですか」

「……ええ」

「お嬢様のお顔が、泣きそうと怒りそうの間ですので——白湯を」


 十年の付き合いだ。建物は読めても自分の顔は読めない。マルタが読んでくれる。


「建築ギルドに行かなければならないかもしれない」


 手紙の内容を説明した。初回登録図面の照会。大劇場の設計帰属の確認。セドリックが「設計監修」を名乗っている以上、ギルドに登録された私の元図面との整合が問題になる。放置すれば——私の登録そのものが抹消される可能性もある。


「王都へ?」


 マルタの声が硬くなった。


「はい。ギルドに直接行って、登録を確認する必要がある。父が紹介状を用意してくれている」

「お嬢様を追い出した王都へ、ですか」

「追い出されたからこそ、よ。私の図面が私のものだという記録を、守らなければ」


 マルタは黙った。白いエプロンの下で拳を握っているのが見えた。反対しているのではない。心配しているのだ。


 リディアに事情を話した。


「管理者様が不在の間、帳簿と日常運営は私が管理します。ドルフさんの作業指示は——」

「測量図に工程を書き込んであります。ドルフさんは現物主義だから、図面より現場で判断するけれど——」

「工程表は作り直しておきます。三日分ずつ。数字で管理できる範囲は、お任せください」


 リディアは眼鏡を押し上げた。不安はない顔だった。数字が管理できる場所に不安を感じない人だ。


「セレスティア様にも伝えないと」


 壁に向かって声をかけた。


「——聞いておった」


 冷気がかすかに揺れた。声だけ。姿は見せない。


「王都に行くのか」

「建築ギルドに用があるの。登録図面の——」

「図面のことなど知らぬ。行くなら行け。ただし——」


 沈黙が落ちた。長い沈黙。怒りでも嘲りでもない。


「——戻ってくるのじゃろうな」


 その声は、二十年間人を追い出し続けてきた怨霊の声ではなかった。残される側の声だった。


「戻ります。ここは私の現場ですから」

「……ふん。好きにせい」


 冷気が引いた。けれど最後の「好きにせい」の声は、震えていなかった。信じている声だった。


 夕方、オスカーが来た。

 巡回のたびに、門をくぐる足音でわかるようになった。黒い長靴が沈んだ石畳を踏む音。この廃領で最も聞き慣れた足音。


「父から手紙が来ました」


 手紙を見せた。オスカーは受け取り、一読し——「巡回検査官より定期報告を受けている」の行で目を止めた。


「……報告は俺の義務だ。管理対象の廃領の状況を、関係者に通知する」

「知っています。怒っているわけではありません。むしろ——父が読んでいたのだと思うと」


 言葉が詰まった。父がオスカーの報告書を読んでいた。水路が通ったこと。屋根が直ったこと。暖房が動いたこと。人が増えたこと。パンが焼けるようになったこと。

 一度も手紙をよこさなかった父が——報告書で、私の暮らしを見ていた。


 手紙を持つ指が震えた。二度目の震え。今度は——こらえきれなかった。


 オスカーの手が伸びた。

 手袋を外した右手が、私の手紙を持つ手に重なった。震えを止めるように。前に頬に触れたときとは違う——傷を確かめるのではなく、震えそのものを受け止める手だった。インクの染みた指が、私の指の上にある。


「……報告書には、建物の状態しか書いていない」


 低い声。静かな声。


「お前がどんな顔で壁を触っているかは——書けなかった」


 心臓が、跳ねた。あの舞踏会の夜と同じ跳ね方。けれど今度は天井が落ちてくるわけではない。落ちてきたのは——もっと柔らかいものだった。


 手が離れた。オスカーは背を向けた。


「ギルドに行くなら——」

「はい。行きます。登録図面を確認しないと」

「……俺も王都に用がある。同行する」


 振り返らずに言った。同行。王都まで。私と一緒に。


「巡回検査官の職務として?」

「……職務として」


 間があった。嘘ではないが、全部でもない——そういう間だった。私には人の嘘を見抜く力はない。けれど「間」なら読める。建物の隙間を読むように。


 マルタが夕食の支度を終えて戻ってきたとき、私はまだ手紙を持っていた。


「お嬢様。お決めになりましたか」

「ギルドへ参ります。オスカー様も、同行してくださるそうです」

「……そうですか」


 マルタは白湯のカップを下げながら、ほんの一瞬——笑った。小さく。十年分の「お嬢様はわかっていない」を含んだ笑みだった。


 東の角部屋で、手紙を測量図と一緒にしまった。父の字。追伸の一行。『書斎の製図机は、そのままにしてある。』

 あの机にはもう戻らない。戻る必要がない。私の製図机は——今はここにある。測量図と設計図が広がる、温かい床の上の、この部屋に。

 けれど父がそれを残していてくれたことは——建物の柱のように、静かに、私を支えていた。


 明日から準備を始める。王都行きの支度。ギルドでの段取り。留守中の工程表。

 そして——あの大劇場の天井のことを、もう一度、この目で確かめなければならない。

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