第13話「台帳の名前」
王都の空は、記憶より低かった。
馬を並べて門をくぐったとき、私の目は真っ先に建物を見た。舞踏会場の屋根。大劇場の方角に見える足場の影。通りに並ぶ石造りの壁。すべてが——追い出された日と同じ場所にある。けれど見る目が変わっていた。廃領の壁を触り、水路を掘り、龍脈を見つけた後の目で見ると、王都の建物は綺麗すぎて、却って裏側が気になる。
「ギルドはこの先だ」
オスカーが短く言った。黒い馬を先に進める。王都の人々が道を空ける。オスカーの黒い軍服に、人々の目が一瞬だけ留まり、すぐに逸れた。恐れている——というより、関わりたくないという目だった。
建築ギルドの本部は、石畳の広場に面した三階建ての石造りだった。壁は厚く、窓は小さく、古い。百年は経っている。基礎がしっかりしていて、沈下の気配もない。いい建物だ。
受付で父の紹介状を見せた。蝋の封を確認した事務員が奥に消え、しばらくして——白髪の痩せた男が現れた。丸い眼鏡をかけ、背を丸め、インクで黒く染まった指で帳面を抱えている。
「ギルド書記官のハインツでございます。マティアスギルド長は本日不在ですが、登録照会は私が対応いたします。アークライト家のエリシア様でよろしいですかな」
声は乾いていた。温かみも冷たさもない。事実だけを扱う人間の声だ。
「はい。初回登録図面に関する照会が入っていると聞きました」
「ええ。王都大劇場の設計帰属に係る確認でございます。少々お待ちを」
ハインツは書庫に案内してくれた。天井まで棚が並び、帳面と巻物と図面筒がぎっしり詰まっている。インクと古い紙の匂いが充満していた。
ハインツの指が、膨大な台帳の背表紙を辿った。年度順。登録番号順。指先の動きに迷いがない。何十年もこの棚を管理してきた人間の手だ。
「こちらでございます」
一冊の台帳を引き抜き、机の上に開いた。ページを繰る。指先が一行で止まった。
そこに——私の名前があった。
『初回登録番号三七四二。登録者名 エリシア・アークライト。登録日——。対象建築物 王都大劇場(設計原案)。図面種別 構造設計・荷重計算・排水設計・避難動線。備考 清書版は別途提出予定。』
消されていなかった。私の名前は、ギルドの台帳に残っていた。
「この登録は現在も有効です。清書版の提出がないまま保留状態になっておりますが、初回登録そのものは抹消されておりません」
ハインツは台帳の上に指を置いたまま、淡々と続けた。
「なお、王都大劇場に関しましては、ロウゼンハイム家のセドリック殿より、設計監修として別途登録申請が出されております。しかし——」
ハインツの声が、わずかに変わった。乾いた声の中に、ほんの少しだけ——苦い何かが混じった。
「——セドリック殿が登録にいらした際、私は慣例として基礎確認の質問をいたしました。中央アーチの荷重配分について。セドリック殿は『それは職人の仕事だ』とお答えになりました」
私は——笑いそうになった。笑いを堪えるのに苦労した。荷重配分は設計の根幹だ。職人の仕事ではない。設計者が最初に決めるものだ。
「設計監修を名乗る方が荷重配分をご存じない。台帳に記す側としては——気にかかるところでございます」
ハインツは眼鏡を直した。事実を述べただけだ。個人的な意見は一切含まれていない。けれどその「気にかかる」の一語に、書記官としての矜持が込められていた。
「ただし」
ハインツは指を台帳から離した。
「台帳は証拠の第一歩にはなりますが、これだけでは覆りません。セドリック殿が清書図面を委員会に提出済みです。委員会がそれを盾にすれば、正式な調査が入らない限り——帰属の変更はできません」
制度の壁だ。台帳に名前があるだけでは勝てない。清書図面という「完成品」を持っている側が、制度上は有利になる。けれど——台帳は消えていない。最初の一歩はここにある。
「ハインツさん。この台帳を閲覧させていただけますか。他の登録者の記録も確認したいのですが」
「どうぞ。閲覧は登録者の権利でございます」
台帳をめくった。自分の登録番号の前後を確認する。他の設計者の登録様式を見ておきたかった。比較することで、自分の登録がどう位置づけられるかわかる。
ページを遡る。三年前。五年前。十年前。
指が、止まった。
『登録番号一二〇八。登録者名 フローラ・アークライト。登録日——。対象建築物 グラオフェルト領主邸(設計・施工監理)。図面種別 構造設計・床下温水路設計・換気設計。』
フローラ・アークライト。
母の名前だった。
呼吸が止まった。指先が台帳の上で固まった。文字が揺れて見える。いや、揺れているのは私の目だ。
母は——建築ギルドの登録者だった。そして登録された建築物は——グラオフェルト領主邸。私が今、直している屋敷。
(あの屋敷を設計したのは——母だった?)
床下温水路設計。換気設計。あの屋敷の床が温かかったのは、龍脈の熱を利用した温水路が最初から設計に組み込まれていたからだ。私が「発見」した床下暖房は——母がすでに設計していたものだった。
「エリシア」
オスカーの声が、遠くから聞こえた。私の隣に立っている。台帳を覗き込み——フローラの名前を見た。何も言わなかった。けれど立つ位置が、わずかに近くなった。
「ハインツさん。この登録者——フローラ・アークライトについて、何かご存知ですか」
「フローラ様ですか。ええ、記憶にございます。二十年以上前ですが——グラオフェルトの領主邸を手がけられた方です。床下の温水路設計に特徴がありました。図面が非常に精緻で——」
ハインツは言葉を切った。私の顔を見て。
「……ご親族でいらっしゃいますか」
「母です」
短く答えた。それ以上は声が出なかった。
ギルドを出たとき、雨が降っていた。
秋の冷たい雨。王都の石畳が濡れて光っている。空が低い。出発の朝に見た空より、もっと低い。
オスカーが黒い外套を広げた。油を含んだ厚い布。軍用の雨避けだ。片手で外套を持ち上げ、私の頭上にかざした。
「濡れる」
一語。いつもの短さ。けれど外套の下に入ると——肩が触れた。オスカーの肩と私の肩。並んで歩くには、外套が一人分しかない。どちらかが寄らなければ、片方が濡れる。
オスカーは何も言わず、私の側に半歩寄った。肩が触れ続けている。軍服の硬い布と、私の作業着の薄い布。その間を、雨の冷たさとは違う熱が通っている。
「母が——あの屋敷を設計していた」
雨音の中で言った。声が小さくなった。
「知っていましたか」
「……いや」
短い否定。けれどオスカーは続けた。
「だが——お前があの屋敷を直せる理由が、わかった気がする」
それはどういう意味かと聞こうとして——やめた。今はまだ、その答えを受け止められる状態ではなかった。母のことを何も知らなかった。父が何を隠していたのかもわからない。わかったのは一つだけだ。
私が直している屋敷は、母が建てた屋敷だった。
床下の温水路を「発見」だと思っていたものは、母の設計だった。
呪いだと恐れられていたあの温もりは——母が残した温もりだった。
雨が強くなった。オスカーの外套が私の肩に触れている。濡れた石畳の上を、二人分の足音が重なって響いた。
宿に戻ってから、台帳の内容を整理した。私の登録。セドリックの登録。そして——母の登録。
ハインツの言葉が頭に残っている。台帳は証拠の第一歩。けれど清書図面を盾にされれば、調査なしには覆せない。
調査を入れるには——大劇場の現場を確認し、台帳の設計と清書図面の設計の違いを、物理的に証明する必要がある。
雨の音が窓を叩いている。
明日。大劇場を——この目で見なければならない。




