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第19話「請願書」

 封書は、ブラントが持ってきた。

 いつもの帳面と荷物に混じって、一通の厚い封書。蝋の封印に見覚えのない家紋が押されている。鷲と剣。


「北東交易路の中継所で預かりました。宛先がグラオフェルト代理管理者になっていましたので」


 ブラントの目が——いつもの商人の目ではなかった。心配の色だ。この男が心配を見せるのは、帳面の数字が合わないときか、商売に支障が出るときだけだ。


 封を切った。


『ハイデンベルク家より、王家安全管理局ならびにグラオフェルト代理管理者に対する請願書。グラオフェルト廃領の地下に確認された魔力資源(推定深度:地表より約十メートル)について、王家直轄管理への移行および当家による管理権の委託を請願する。——ハイデンベルク家当主 ヴィクトル・ハイデンベルク』


 指先が冷たくなった。龍脈のことが——書いてある。


 けれど私の目が止まったのは、家紋でも請願の文面でもなかった。


(推定深度——十メートル?)


 十メートル。実際の龍脈は十二メートルだ。温泉脈が十メートル付近にあり、その下に龍脈がある。ハイデンベルク家が掴んだ情報は——不完全だ。温泉脈と龍脈を混同しているか、正確な深度まで届いていない。


「ブラントさん。ハイデンベルク家をご存じですか」

「ええ。北部の中堅貴族です。鉱脈や水源の管理権を複数持っていましてね。王家への請願を通じて資源の管理委託を獲得し、利益を上げる——資源政治に長けた家です」


 資源政治。龍脈を「魔力資源」として狙っている。建物を直す力としてではなく、利権として。


「この情報は、どこから漏れたのでしょう」


 ブラントは帳面を閉じた。


「私の推測ですがね。王都には複数の経路があります。巡回報告書は王家の管理部門に届く。管理部門には複数の貴族が出入りしている。ハイデンベルク家がそこから情報を拾った可能性は高い」


「ルッツの報告書は——」

「それも確認すべきですな。ただし——」


 ブラントは声を落とした。


「建設委員会への業務報告は、ギルド経由で王家にも写しが届く制度になっています。ルッツ君個人の問題ではなく、制度の構造として情報が流れているのです」


 制度の構造。個人の裏切りではなく、報告制度そのものが情報の流出経路になっている。


 ルッツを呼んだ。

 製図室に入ってきたルッツの道具箱が、目に入った。ピカピカだったはずの木箱。角が擦れている。留め具に粘土の粉が詰まっている。定規に鉛筆の跡がついている。四ヶ月前の新品ではない——使い込まれた道具になっている。


「ルッツ。建設委員会への報告書を見せてください」


「はい。ここに控えがあります」


 ルッツは迷いなく帳面を差し出した。報告書の控え。一通ずつ、日付と内容が記録されている。改修設計の進捗。図面の検算結果。資材の使用量。——龍脈の記述は、一切ない。


「龍脈のことは書いていませんね」

「はい。管理者様とオスカー様から、地下資源については報告に含めないよう指示を受けています」


 真っ直ぐな目だった。隠し事をする目ではない。この子は——白だ。


「ただし——」


 ルッツの顔が少し曇った。


「報告書の封緘は僕が行いますが、配送はギルドの連絡便に託しています。途中で開封された可能性は——僕には確認できません」


 正直だった。自分の管理範囲と管理できない範囲を、正確に区別している。セドリックなら「完璧に管理している」と言い切っただろう。ルッツは「確認できない」と言える。


「ありがとう、ルッツ。あなたの報告書に問題はありません」


 ルッツは少しだけ——ほっとした顔をした。疑われることを恐れていたのではない。疑われて当然の立場にいることを、理解していたのだ。


 夕方、オスカーが来た。

 請願書を見せた。オスカーは一読し——「十メートル」の記述で目を止めた。


「不正確だな。十二メートルだ」

「はい。温泉脈と龍脈を混同しています。正確な情報は持っていない」


「だが——存在を知られた以上、黙っていても状況は悪化する」


 オスカーは請願書を机に戻した。製図室の壁際の、彼の椅子に座った。


「ブラントさんに制度を聞きました。王家直轄管理と現地委託管理の二つの選択肢があると」


「王家直轄は最悪の選択だ。龍脈を『封じる設計』で管理する技師団が乗り込んでくる。グラオフェルトで起きたことの二の舞になる」


 封じる設計。母フローラの時代に龍脈を歪めた思想。あの技師団がまた来れば——接地路も温水路も壊される。


「現地委託管理なら——」

「代理管理証書の延長線上で、お前が龍脈の管理を継続できる。ただし王家の審査を通す必要がある」


 審査。龍脈の管理状況を王家に見せなければならない。秘密にしていた龍脈を、公的に認めなければならない。


「黙っていれば、ハイデンベルク家の請願が通る。王家直轄になり、管理権を奪われる。けれど自分から報告すれば——」


「先手を打てる。自主報告は制度上、請願より優先される。現地管理者の報告義務を果たしたことになる」


 オスカーの目が真っ直ぐに私を見ていた。壁ではなく。建物でもなく。これから戦いに入る人間の目を。


「エリシア。これは——お前が決めることだ」


 名前を呼ばれた。あの天井裏以来、名前で呼ばれるたびに胸が跳ねる。けれど今は——跳ねている場合ではない。


「自主報告を出します。龍脈の存在、深度、温泉脈との関係、接地路の技術、管理状況のすべてを。隠していたのではなく、管理体制を整えてから報告するつもりだった——それが事実ですから」


 オスカーは頷いた。


「報告書の草稿は俺が見る。巡回検査官として、管理状況の裏づけを付ける」


 二人だけの秘密が——二人で守る戦いに変わった。九ヶ月前、「龍脈のことは二人だけの話だ」と言ったのはオスカーだった。今、その秘密を公にするのは——秘密を守るためだ。


「リディアさん。帳簿を出してください。龍脈関連の管理記録をすべて」

「畏まりました。接地路の施工記録、魔力流量の観測データ、温水路の稼働状況——三冊にまとまっています」


 リディアが眼鏡を押し上げて帳面を積んだ。数字の人が数字で武装してくれる。


「ドルフさん。接地路の現物確認をお願いします。管の状態と粘土層の劣化がないか」

「了解だ。見てくるぞ」


 ドルフが鼻を鳴らして出ていった。


 セレスティアの声が壁から聞こえた。


「——妾の土地を、また奪おうとしておるのか」


 怒りではなかった。疲れだった。二十年前に奪われた土地を、また誰かが狙っている。


「奪わせません。今度は——記録があります。証拠があります。あなたが二十年間守ったこの土地を、帳簿と図面と報告書で守ります」


 セレスティアは黙った。長い沈黙の後——。


「……変な女じゃ。相変わらず」


 けれどその声は——信じている声だった。


 夜、自主報告書の草稿を書いた。蝋燭の灯りの中で、鉛筆が走る。龍脈の位置。深度十二メートル。温泉脈との関係。接地路の設計原理。管理実績。


 ハイデンベルク家の請願書には「十メートル」と書いてあった。二メートルの差。けれどその二メートルが——私たちが現場にいる証拠だ。正確な数字を持っているのは、実際に掘り、触れ、測った人間だけだ。


 報告書の最後に書いた。


『本報告は、現地管理者としての報告義務に基づく自主報告である。審査の受入れを要請する。』


 審査が来る。王家が来る。

 けれどこの土地には——四ヶ月分の図面と、帳簿と、接地路と、温かい床と、パンの匂いがある。


 奪わせない。

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