第18話「四ヶ月目の雨」
大劇場の改修設計を進め始めて、四ヶ月が過ぎていた。
秋が冬になり、冬が深まり、雪が降り、溶け、また降った。グラオフェルトの霧は地面すれすれまで下がり、門の先の道が見渡せるようになった。屋敷の壁から析出物は消え、目地は打ち直され、北壁は乾いた石の色に戻っていた。
雨の朝だった。
東の角部屋——今は製図室と呼んでいる——で、大劇場の改修図面を引いていた。天井アーチの荷重分散。排水経路の再設計。龍脈の接地路を組み込んだ地下構造。四ヶ月分の図面が壁に貼られ、床に積まれ、机の上を埋めている。
門の外から、荷馬車の音がした。ブラントだ。けれど今日はもう一つ——軽い蹄の音が混じっていた。
「管理者様。ギルドからの使いです」
ブラントの荷馬車の後ろから、馬を降りたのは若い男だった。二十歳になるかならないか。薄い茶色の髪を短く刈り、目が大きい。背筋は伸びているが、膝が少し震えている。緊張だ。
そして——手に持っている道具箱が、光っていた。真新しい木箱。金具も留め具も磨かれたまま。使った形跡がない。
「ル、ルッツ・ベルクと申します。建築ギルドよりアークライト様の改修設計補助として派遣されました。よ、よろしくお願いいたします」
声が裏返った。緊張で。
「ルッツさん。建築ギルドの登録は」
「今年の春に登録しました。登録番号四二一七です」
「では一つ聞きます。中央アーチの荷重を左右の壁柱に分散させるとき、アーチの頂点にかかる圧縮力と、壁柱の基部にかかる水平推力の関係は」
ルッツの顔が——真剣になった。震えが止まった。
「圧縮力がアーチの曲率に沿って壁柱に伝わり、基部で水平推力に変換されます。推力が基部の摩擦力を超えると壁柱が外側に押し出されて、アーチが開く——崩壊します」
正確だった。教科書通りの、けれど正確な回答。
(セドリックは「それは職人の仕事だ」と言った。この子は——答えられる)
「合格です。製図室にどうぞ」
ルッツの目が——輝いた。大きな目がさらに大きくなった。道具箱を抱えて、屋敷に入ってきた。ピカピカの道具箱が、ぶつけないように胸に抱かれている。大事にされている道具。まだ使われていない道具。
製図室に入ったルッツは、壁に貼られた図面を見て足を止めた。
「これ……大劇場の改修設計ですか。天井アーチの荷重分散図と、排水経路の——これは地下の……」
「見てわかる?」
「はい。けど——この地下構造の管は、見たことがない設計です。これは何の管ですか」
接地路だ。けれど龍脈のことは言えない。
「温水管の一種です。詳しくは追って説明します。まずは天井アーチの改修図面の清書を手伝ってください。この設計で荷重が三割減る計算になっていますが、検算をお願いします」
「は、はい!」
ルッツは道具箱を開いた。定規と分度器を取り出す手つきが丁寧で、けれど少し不器用だった。新品の道具に慣れていない。使い込んでいない。
(この子は——伸びる)
セドリックとの違いは明白だった。セドリックは完成した図面を欲しがった。ルッツは計算の過程を知りたがった。セドリックは答えを盗んだ。ルッツは答えの出し方を学ぼうとしている。
昼過ぎ、ブラントが帳面を閉じながら話しかけてきた。
「管理者様。王都の話ですがね」
いつもの柔らかい声。けれど目が——商人の値踏みではなく、心配の色をしていた。
「大劇場の記念公演が予定されています。落成一周年ということでしてね。王族も出席される」
「記念公演? 勧告書は出しています。使用制限を——」
「ええ。ですが、中止は政治的に難しいようです。王家の威信がかかっている。セドリック殿が設計監修を務めた劇場の最初の記念公演を中止すれば、王家が失敗を認めることになる」
政治。建物の安全より政治が優先される。勧告書を出した。改修設計を進めている。けれど施工許可は——まだ下りていない。閉鎖命令も出ていない。四ヶ月間、制度の壁は動いていない。
「ブラントさん。記念公演はいつですか」
「あと一ヶ月ほどと聞いています」
一ヶ月。天井裏の木栓劣化。半年が限界とした猶予の——残り二ヶ月。記念公演で大人数が集まれば、集中荷重がかかる。最悪の条件が揃う。
「もう一つ——」
ブラントが声を落とした。
「北東交易路の商人仲間から聞いた話ですが。グラオフェルトの地下に珍しい資源があるという噂が、王都に届いているようです」
指先が冷たくなった。
「……どの程度の噂ですか」
「まだぼんやりとした話です。『呪いの廃領の地下に何かがある』という程度でしてね。具体的に何かまでは広まっていない——今のところは」
龍脈の情報が漏れている。ブラントには龍脈のことを伝えていない。ドルフはオスカーが口止めした。セレスティアが外部に話すはずがない。リディアやマルタにも龍脈の詳細は伝えていない。
では——誰が。
夕方、オスカーが来た。
四ヶ月間、三日ごとの巡回は一度も欠かさなかった。門をくぐり、馬を繋ぎ、壁に手を当てて検査し、食卓につく。その繰り返しが——四ヶ月。
オスカーの椅子がある。食卓の端。いつの間にかそこが「オスカーの席」になっていた。誰も座らない。三日ごとに空いている椅子。オスカーが来ると、マルタが何も言わず白湯を置く。リーネがパンを一つ多く焼く。トーマスが門の前を掃く。リディアが帳面の端に「巡回日」と記す。
四ヶ月の蓄積が、ここにある。
「龍脈の噂が王都に届いているそうです」
食後、二人きりの製図室で伝えた。オスカーは壁に手を当てたまま、目を閉じた。
「……漏れたか」
「ブラントさんにも伝えていません。ドルフさんはオスカー様が口止めしている。ならば——」
「巡回報告書だ」
オスカーの声が硬かった。
「俺の報告書に、龍脈という語は使っていない。だが——『地下の熱源に関する異常』『残留魔力の調査結果』という記述がある。報告書は王家の管理部門に送られる。そこから推測された可能性がある」
報告書。オスカーの義務。父に廃領の状況を知らせたのと同じ報告書が——王家にも届いている。
「記念公演の政治的困難。施工許可の遅延。そして龍脈の噂。全部が——繋がっているとしたら」
私は図面に目を戻した。改修設計。接地路。排水経路。四ヶ月かけて描いた線の全部が、施工許可なしには紙の上の絵でしかない。
オスカーが椅子に座った。彼の椅子に。製図室の隅、壁際の古い椅子。四ヶ月前にドルフが修理した椅子。背もたれの高さがオスカーの肩に合っている。
「お前は——ここにいろ」
静かに言った。
「図面を引き続けろ。施工許可が下りるまで。記念公演がどうなろうと——設計が完成していなければ、何も始まらない」
正しかった。けれどその正しさの裏に——前に聞いた言葉が重なった。「その劇場はもうお前の仕事ではない」。あのときとは違う。あのときは壁だった。今は——盾だ。
「わかっています。引き続けます」
オスカーは頷いた。立ち上がり、ルッツの検算を一瞥して「荷重の単位が途中で変わっている。直せ」と指摘し、馬に向かった。
ルッツが慌てて検算を見直している。「ほんとだ——すみません!」と道具箱から定規を出し直す音が聞こえる。ピカピカの定規が、少しだけ手に馴染み始めている。
雨が窓を叩いている。四ヶ月目の雨。
改修図面の線を引く。一本の線が、もう一本を呼ぶ。この線の先に——千人の頭上がある。
龍脈の噂。記念公演。政治の壁。施工許可の不在。
けれど私にできることは——線を引くことだ。正確に。誠実に。建物が嘘をつかないように、図面も嘘をつかない。
雨音の中で、鉛筆の音だけが響いていた。




