第17話「接地路」
異変は、朝食の最中に始まった。
リーネが焼いたパンを食卓に並べているとき、テーブルが震えた。コップの水が波立ち、皿が滑り、蝋燭の炎が横に倒れた。
「地震……?」
リーネが三つ編みを掴んだ。けれど地面は揺れていない。震えているのは——建物だ。壁が、梁が、床が、一斉に振動している。
(壁が怖がっている)
建物を触った。手を壁に当てた瞬間、わかった。石壁の内部を魔力が走っている。龍脈からの流れだ。いつもの床下の温もりとは桁が違う。壁全体が——魔力で飽和しかけている。
「セレスティア様!」
廊下に出た。西側の壁から冷気が噴き出していた。けれどいつもの冷気ではない。温度が不安定に上下している。冷たくなったり、温かくなったり——魔力の波が乱れている。
セレスティアが廊下の真ん中にいた。
膝をついていた。両手で自分の体を抱くように。輪郭が激しく明滅している。銀色の髪が光り、消え、また光る。透き通った手が震えていた。
「止まらぬ——止まらぬのじゃ——!」
声が割れていた。恐怖だ。怒りではない。自分の体を通り抜ける力を、制御できない恐怖。
家具が動き始めた。椅子が浮き、棚が揺れ、壁から漆喰の欠片が落ちた。ポルターガイストだ。けれどあの頃とは違う。あの頃は威嚇だった。今は——暴走だ。
「セレスティア様。今、壁が震えているのではありません。震えているのは——あなたです」
膝をついたセレスティアの前にしゃがんだ。透き通った目が——私を見た。恐怖で満ちた目。二十年間、怒りで満ちていた瞳が、今は恐怖に揺れている。
「龍脈の魔力が増えすぎている。あなたの体を通って地上に溢れている。だから——逃がす道を作る。今すぐ」
立ち上がった。
「マルタ! 床下暖房の予備の陶管を持ってきて。ドルフさんは粘土を。リディアさん——」
「何を持ちましょう」
「帳面を。接地路の設計を口述します、書き取ってください」
走った。西側の掘削跡へ。覆いを外す。龍脈の光が見えた——いつもより強い。青白い光が脈動している。心臓のように。速く。
ドルフが粘土を運んできた。トーマスが陶管を担いでいる。
「嬢ちゃん、何をする気だ」
「陶管の内側に粘土を敷く。粘土に龍脈の魔力を通す性質がある——温泉水が粘土層を通って析出物を残すように、魔力も粘土に沿って流れる。この管を龍脈の流れに接続して、余った魔力を建物の外に逃がす」
ドルフは鼻を鳴らした。理解したのか疑問に思ったのかわからない。けれど粘土を練り始めた。職人は理屈より先に手を動かす。
陶管の内壁に粘土を塗り込んだ。薄く、均一に。温水路の原理と同じだ。水を通すための管に、今度は魔力を通す。
「リディアさん、書き取って。陶管の口径は二十センチ。粘土の厚さは五ミリ。管の長さは——屋敷の西壁から十メートル外側の地表まで。傾斜は三度。放出点は——」
「放出点は地表の砂利層です。砂利が魔力を分散させて大地に還します」
声が——後ろから聞こえた。オスカーだった。いつ来たのか。黒い軍服に汗が滲んでいる。馬を走らせてきたのだ。
「魔力の乱れを感じて来た。接地路の構想は——もう設計したのか」
「今しています。手伝ってください。管の接続点に魔力を流して封止する必要があります」
オスカーは一言も余計なことを言わず、掘削跡に降りた。私の横にしゃがみ、陶管の端部に手を当てた。
私は管を龍脈の流れに向けて位置を調整した。粘土を塗った陶管の端を、岩盤の亀裂——龍脈の光が漏れている場所に——近づけた。
指先が、光に触れた。
一瞬——体の中を、何かが通り抜けた。
青白い光ではない。もっと深い何か。大地の底から湧き上がる力が、指先を通って腕に走り、背骨を昇り、頭の天辺に抜けた。呼吸が止まった。世界が——一瞬だけ、透明に見えた。龍脈の流れが、地図のように見えた。この土地の下を走る力の道筋が。
そして消えた。指先が管に触れた瞬間、感覚は戻った。
「……エリシア?」
オスカーの声。近い。私の顔を覗き込んでいる。
「大丈夫です。管を繋ぎます」
気のせいだ。疲労の幻覚だ。そう自分に言い聞かせて、作業に戻った。
オスカーが魔力を流した。陶管の接続部が光り、粘土が焼き固められ、管と龍脈が繋がった。余剰魔力が——管の中を走り始めた。粘土の表面を沿って、ゆっくりと、けれど確実に、建物の外へ向かって流れていく。
屋敷に戻った。
壁の震えが——止まっていた。家具は落ち着き、冷気は引き、漆喰の粉が静かに床に積もっている。
セレスティアが廊下にいた。膝をついたまま。けれど輪郭の明滅は収まっている。安定した、薄い銀色の光。
「……止まった。止まったのか」
「止まりました。接地路が余分な魔力を外に逃がしています」
セレスティアは——私を見上げた。透き通った目に、恐怖の残滓と、それ以上の何かが浮かんでいた。
「お前は——妾を直したのか。建物を直すように」
「建物を直したんです。あなたは建物の一部だから」
言ってから、自分の言葉の意味に気づいた。セレスティアはこの屋敷の一部だ。壁であり、梁であり、床であり——この家そのものだ。
毛布を持ってきた。マルタが差し出したもの。セレスティアの肩にかけた。
毛布が——かかった。
落ちなかった。透明な肩の上に、布が引っかかっている。わずかな実体が、毛布を支えている。
二人とも、何も言わなかった。
夕方、接地路の動作確認を終えた。
魔力の流量は安定している。放出点の砂利層で分散され、地表に異常はない。床下暖房は正常に機能している。温水路と接地路が並走する形で、熱と魔力の両方を管理する構造が完成した。
「魔力を直接支配する技術ではない」
オスカーが掘削跡の縁に立って言った。
「構造に沿って安全に逃がす技術だ。お前の設計思想そのものだな」
「水も、熱も、荷重も、魔力も——同じです。封じるのではなく、流す」
オスカーは頷いた。それから——一歩、後ろに下がった。
気づいた。作業中はすぐ隣にいた。肩が触れる距離で管を繋ぎ、魔力を流し、手が交差するほど近くにいた。けれど作業が終わった瞬間——離れた。
「外周を確認してくる」
それだけ言って歩き出した。屋敷の裏手に消えていく。
(……また、離れた)
天井裏のあの夜からずっと。近づいては離れ、触れては引き、言いかけては止まる。この人の中で何が起きているのか——建物を読むようには読めない。
「——あの男、逃げておるな」
壁から声。セレスティア。毛布を肩にかけたまま。
「逃げる? 何から」
「自分からじゃ。近づきすぎることが——怖いのじゃろう」
セレスティアの声は、いつもの呆れた調子ではなかった。静かだった。二十年間一人でいた怨霊が、人が人を恐れる理由を——理解している声だった。
東の角部屋で、改修設計の図面を広げた。大劇場の天井構造。排水経路。龍脈の制御。
今日完成した接地路の技術は——大劇場にも使えるかもしれない。封じられた龍脈を、管と粘土で安全に逃がす。グラオフェルトで学んだことが、王都の建物を救う道具になる。
指先に、あの一瞬の感覚が残っていた。龍脈に触れた瞬間の、透明な世界。あれは何だったのか。
考えないことにした。今は——図面を引く。




