5
森の中へと踏みこんでいく。
ジェライドは木々の間を縫い、ゆっくりとした足取りで音色をたどった。
時折立ち止まって、奥に耳を澄ませる。より鮮明になっていく内容に、近づいていることを確認すると、また踏みだす。
そうして耳を頼りに歩を進めてきたジェライドは、唐突に開けた視界に驚き、足を止めた。
見れば、さきほどまで森のむこうにあったはずの塔が目前に迫っていた。
「──え?」
ジェライドは唖然と塔を仰ぎ見た。
遠目には華奢に見えたそれは、大人が両手を広げて囲むのにも二十人は必要そうなほどの大きさがあった。どっしりと大地に立ち、天へとそびえたっている。
一心にたどってきた美しい声は、どうやらその中から聞こえてきているようであった。
おそらく神殿の者以外は立ちいれないであろう場所へきてしまったことに、ジェライドは迷う。
幹に隠れて周囲を窺ってみるが、塔の中以外に人のいる気配はない。そろりと木の陰から忍びでるが、怒声が飛んでくるようなこともなかった。
絶え間なく聞こえてくる歌の誘惑に心が動いた。ジェライドは意を決すると入り口と思しき方へとむかった。
塔に沿ってまわりこみ、外へむかって開かれた扉に身を貼りつけるようにして中を覗く。
それは、息を飲む光景だった。
祭壇の前で、一人の女性が舞を踊っていた。
結いあげた銀色の艶やかな長い髪を揺らし、純白の薄布を重ねた衣装の裾を翻す。その唇は息切れすることもなく歌を紡ぎ、手足につけた金銀の装飾が動くたび涼やかに音をたてる。
舞う姿は蝶のように軽やかで、優美であった。しかし、なにより心奪われるのは透明感のある旋律の美しさだった。
歌自体はジェライドの祖母も時々披露することのある、地神ディレイアスへの祈りを歌ったものだ。
けれど、これまで耳にしたこともない澄んだ声と、天へ吸いこまれていくかのような清らかな響きに、ジェライドは聞き惚れた。
扉から離れ、塔の白い壁に背を預けると、目蓋を閉じた。聴覚だけでなく、皮膚をとおしてまでも沁みいってくる感覚に酔いしれる。
いつしか、ジェライドは聞こえてくる歌に合わせて小さく歌詞を口ずさんでいた。自分がいることを悟られてしまうという思いは、すでに消えていた。自身の内からあふれてくるモノが自然と唇から零れでる。
どれくらいそうしていただろうか。いつしか塔から聞こえてきていた歌声が最後の祈りを捧げて、止む。
あわせてジェライドも口を噤んだ。余韻が空気の中に溶けていったのを果てに、目を開く。
夢のような瞬間が終わり、現実にたち返った時、ジェライドは自らの置かれた状況を思い出して、慌てて首を巡らせた。
幸いにしてきた時と変わらず、人影はない。安堵に息を吐いて、立ち去ろうとした彼の背へ、衣擦れの音とともに玲瓏とした声が届いた。
「どなたかと思ったけれど、可愛らしいお客さまね」
明らかに自分へとむけられた言葉に、ジェライドの足が地面に縫いつけられる。
(見つかった!)
とるべき最善を考えるが、名案など浮かばない。すぐさま非礼を詫びるか、一目散に逃げだすか、どちらかしかないと思うのに、身体は動かなかった。
こんな奥まで無断ではいってしまったのだ。いくらこどものしたこととはいえ、ただですむとは思えなかった。最悪、自らの有する色合いのせいで、神域を汚したなどと重い罪を負うことになるかもしれない。
そこまで考えて、ジェライドの背に冷たいものがすべりおちる。
どうしたら、と思考を巡らせるところへ、
「歌がお上手なのね」
責める響きのない声が言葉を重ねた。
ここで逃げても、特徴のある容姿をしている自分ではすぐに見つかってしまうに違いない。ならば──。
ジェライドの喉がゆっくりと上下する。深く息を吸いこんで、
「勝手にこんなところまで入り込んでしまって、ごめんなさいッ」
振りむくと同時に、地面に平伏した。
「まあ……」
ジェライドの言動に意表を衝かれたのか、戸惑うような声音がおちてくる。
「別に責めているわけではないの。わたくしがここで祈りを捧げている間は、近づく人もいないから、誰かしらと思っただけなのよ」
「だったら、余計に僕なんかが近付いてはいけなかったんです。あんまり綺麗な歌声だったから、つい──」
ますます深く頭をさげるジェライドに、いいのよ、と声が言う。
「顔をあげて、ね? わたくしの歌声が貴方に届いたというのなら、嬉しいことだわ」
しゃらりと音がして、視界に白い裾がはいった。かと思うと、折られた膝が地につくのを見える。
「! 汚れますからッ」
ジェライドは慌てて顔をあげた。
まっさきに飛びこんできたのは美しい紫水晶の瞳だった。吸いこまれそうな深さを持った、澄んだ明るい輝きに、息を飲む。
しかし、
「まあ。美しい色の瞳ね。まるで、翡翠のようだわ」
あがった感嘆の声に、ジェライドははっと身をひき、即座に顔を伏せた。暗褐色の髪がかかり、表情を隠す。
「翡翠なんて、とんでもない……黒と見違える、薄気味の悪い、色でしょう」
けれど、小声で綴る言葉が、震えるのはどうしようもない。
同じ輝く容姿でもシィシアンとは違う目の前の相手に、暗く冴えない自身がひどくみすぼらしく感じられた。今すぐにでもこの場を逃げだしてしまいたいほど、居たたまれなかった。
すっと伸びた白い繊手が、ジェライドの頬を捉えた。それに上をむくように促され、逆らうこともできずわずかに顎をあげる。
目線があった瞬間、女性、というよりはまだ幼さを宿した少女の目元に微笑みが刻まれた。
「ほら、こうやって顔をあげていてごらんなさいな。陽の光に透けて見える貴方の瞳は、とても美しいわ」
「──は、放してください」
間近に覗きこまれ、ジェライドの顔が紅潮する。
人に避けられるのが常である彼には、祖母や母親以外の女性と至近距離で接する機会などなかった。女性にこんな風に接しられると、どうしたらいいのかわからない。
狼狽した様子のジェライドをよそに、彼女はまっすぐに瞳を覗きこんでくる。
「ほかの人と違うからといって、下をむくのはおやめなさい。貴方のこの髪もこの瞳も、深い森が湛える慈悲の色だわ。大地の恵みの色よ」
「めぐみの、色?……」
「ええ。わたくしが言うのだから、間違いのないことよ」
「でも……、僕はあなたが誰だか知りません」
添えられた手からそっと身をひいて逃れると、むけられる優しい瞳にジェライドは戸惑ったように視線をはずした。
彼女の服装は神官や魔法使いのそれではない。
だが、この場に居るからには神殿に使えているのだろう少女は、さきほどまでの慈愛の表情とは違う親しみのある笑みを浮かべた。
「わたくし? わたしくしの名前はウィストリア」
「ウィストリア、さん……」
「ええ、そう。人からは『神眼の巫女』と呼ばれていますけれど、」
そちらの方がご存知かしら?
小さく首を傾げた少女に、ジェライドは絶句する。
舞を舞っていた姿から、神殿の巫女だろうとは考えていた。
『神眼の巫女』と呼ばれる女性以外にも、神殿には巫女という神官と同様に神殿に仕え、祭祀の際に舞や歌を奉納する役目持った女性たちが幾人かいた。ジェライドは彼女を『ただの巫女』だと思いこんでいたのだ。
呆然と目の前の相手を見つめる。
「神眼の、巫女さま? …あの、本当に?」
我知らず口からでた言葉に、巫女は小さく声をたてて笑った。
「あら、心外ですわ。疑われてしまうほど、わたくしはそれらしく見えないのかしら。神殿の者は神眼を尊いとするもの。騙ったりなどいたしませんわ」
「いえ、あの! そういうわけでは……」
一瞬、不愉快にさせてしまったのかと慌てたジェライドが言い募るのを、紫色の双眸は楽しそうに見つめていた。
その色に気づいたジェライドは、彼女の気分を害したわけではなかったのだと、息をつく。
「あなたはとても高貴な方で、下々の僕らではお姿を見ることができない、って兄さまに聞いていたんです。だから──」
「わたくしにお与え頂いた神の御力が稀有なのです。わたくし自身が高貴であるということではありませんわ」
ジェライドの言を巫女は遠まわしに肯定する。ジェライドが腑におちない顔をした。
「御力を頂いたことが、高貴なことだと思います。でも、そのあなたが──どうして僕に声を?」
ジェライドは立ち去ろうとしていた。神域に踏みいられたことを憤るならまだしも、わざわざ声をかける必要などなかったはずだ。
声をかけねばならないナニかが、自分にはあったのだろうか……?
「あら、わたくしは貴方だから声をおかけしたの。ほかの誰でもない、ね」
「え……?」
意味深な言い方に、ジェライドの肩が跳ねた。巫女を映す深緑の瞳が不安げに揺れる。
ジェライドの怯えを読みとった巫女は、再度彼の頬へと手を伸ばした。退こうとするところを微笑みで制して、輪郭沿って指を滑らす。
「最初に言いましたでしょう? 歌がお上手だと。わたくしの声にまぎれるほどのかすかなものでしたけれど、その声の主を確かめたいと思ったのです。貴方がわたくしの歌に惹かれたように、わたくしも貴方に惹かれたのですよ」
信じられない、とジェライドは大きく目を見開いた。食いいるような視線をむけられても、巫女は身じろぎ一つせず受け止めた。
「ほん、とうに?」
「また、お疑いですのね。わたくしは御神のお言葉を伝える者。その言葉に常日頃嘘偽りがあるとすれば、一体誰がわたくしを『神眼の巫女』などと呼ぶでしょう。貴方も魔法使いならば、口からでる言葉にはお気をつけなさい。真摯な思いにこそ、言霊は宿るのですから」
責める口調ではない。優しく諭す声だからこそ、厳しさがあった。
注がれる双眸に宿る奥深さをジェライドの方こそが受け止めきれず、視線をおとす。
「──は、い。あなたを疑ったわけじゃ、なかったんです。僕は、弱い人間だから。信じることができなかっただけで……でも、巫女さまの言うとおりですよね、ごめんなさい」
「いいのですよ。それに謝っていただきたかったわけではありませんわ。疑う心はなにをも生まない。それをわかっていただきたかっただけ。貴方は人の話に素直に傾ける耳も心もお持ちですもの、きっとよい魔法使いになります」
「そうだと、嬉しいです」
ジェライドは恥ずかしげに顔を綻ばせた。
「でも、僕が魔法使いの修行中だって、どうしてわかるんですか?」
「簡単ですわ。ほら、」
すっと腕が伸ばされ、細い指先がジェライドの奥の森を指し示した。巫女の動きにあわせて、ジェライドも背後を振り返る。
しかし、視界にはただ森が広がるばかりで、なにがあるわけでもない。
「?」
「この森の周辺には、結界が張られていますの。正規の入り口以外で入ってこられるのは、あの方のように魔法使いだけです」
「えっ、結界があったんですか? ……あ、れ──兄さまッ?」
はじめて知った事実に驚いたジェライドは森のむこうへと目を凝らし、さらに暗がりに浮かんだ姿に声をあげた。
「──ジェライド!」
まだ遠くはあったが、届いた声は間違いなく兄のシィシアンであった。長衣の裾を翻してこちらへと駆けてくる。
「貴方はジェライドとおっしゃるのね」
背後から聞こえた巫女の声に、自分が名乗っていなかったことにいまさらながらに気づく。その無礼さに慌ててむき直ろうとしたジェライドは、突然右腕を巫女にとられた。
「え? あの……」
ちゃら、という音と手首に触れた感触に、ジェライドは戸惑いとともに己の腕と巫女の顔を交互に見比べる。
「これ、は?」
「貴方は強い力をお持ちのようですけれど、まだまだ不安定の様子。持っておいきなさい」
彼の腕にはめられたのは、三つの翠玉を金の鎖で繋いだ腕輪だった。
ついさきほどまで、巫女の腕に納まっていたものの一つだ。装飾品に詳しくないジェライドにでも、その価値の高さがわかる、精巧で美しい細工の品であった。
「こ、こんな高価なものをもらえません!」
微笑む巫女に驚愕したジェライドがはずそうと伸ばした手を、彼女のそれによって押さえられる。
「貴方に必要だと思えばこそですよ。安定しない力は貴方自身にとっても、危険なものです。それは貴方と相性がいいようですから、力の制御を助けるとともに、貴方を守ってくださいますわ」
「でも!」
なおも断ろうとするジェライドを、巫女が優しい力でその背を押した。
「ほら、お帰りなさい。黙ってこちらまでいらしたのでしょう? あまりお兄さまに心配をかけてはいけませんよ」
腰を屈めて、ジェライドの耳元に囁く。むけられた視線の先では、慌てた形相で駆けつけたシィシアンが、息も粗く地に片膝をつくところだった。
「巫女! ご無礼をお許しください。見れば私の弟が迷いこんでいる様子。ご祈祷を妨げるなど、本来ならば許されぬこと。ですが、まだ道理のわからぬこどもゆえ、なにとぞご容赦を」
深く頭を下げ、謝罪を述べる。
その姿にジェライドは衝撃を受けた。自分のおこなったことの不敬さと、兄に頭までさげさせた軽率さを改めて思い知る。
「兄さま……」
小さく呟いたジェライドの背を、温かな手が今度は強く押しだした。驚いて仰ぎ見れば、姿勢を正した巫女が『お行きなさい』と目顔で告げていた。
「み、」
「良いのです、魔法使い。わたくしが声をかけただけのこと、この子に非などあろうはずもありません」
あげかけた声を、巫女に遮られる。
「はっ。ご温情、誠に感謝いたします。それにはよく言ってきませますので」
一際頭を低くした後、身をわずかに起こしたシィシアンが、『ジェライド』と低い声で弟を呼ぶ。それにジェライドは弾かれたようにシィシアンの元へむかった。
シィシアンは弟の腕を強くひいて自分の脇へよせると、その頭を無理矢理押さえつける。
「痛いよっ、兄さま!」
「黙れ! まったくおまえは……勝手にはいりこむなって俺は言っただろうっ」
小声で交わされる兄弟の会話に、巫女がくすりと笑いを漏らした。はっと黙ったジェライドとシィシアンに柔らかな声が降る。
「仲がよろしいんですのね。羨ましいわ」
「は、いえ、お見苦しいところを……」
「さあ、もういった方がいいでしょう。そろそろわたくしの祈りも終わったころだと、神官たちが訝って様子を見にくるやもしれません。その前においきなさい。わたくしも、神殿へ戻ります」
恐縮する二人に起立を促し、巫女は踵を返した。
巫女が神殿への道を戻りはじめたのを待って、シィシアンは身を起こすと彼女の背に黙礼し、見送る。
「ほら、帰るぞ。ったく、どうやってここまではいりこんだんだ」
「わからないよ。歌声にひかれて歩いてたら、いつの間にか、ここに……」
兄の低い声に、肩をおとしながらも言い訳を試みたジェライドだったが、シィシアンの厳しい視線を受けて語尾が萎んだ。
「──ごめんなさい」
悄然と頭をさげれば、シィシアンが大きく息を吐きだした。身を縮めた弟の背を軽く叩いて、森へと大きく歩きだす。
「話は家に帰ってからだ、いくぞ」
「兄さま!」
普段とは違い、ちらりと視線を投げただけで立ち止まることなく先をいく兄を、ジェライドは慌てて小走りで追いかけていく。
遠くなっていく二人の背を、石畳から見送る二対の紫石の瞳があった。
「あの方は、知りませんのね……」
呟く声が地におちる。
「良い御子ですけれど、力に対してまだ幼い心体がとても不安定で──危ないかも知れませんわ」
顰められた柳眉に、森がざわりと震えたようであった。




