10
叫んだ余韻が森の奥へ消えていく。
空気の孕んだ緊張感に、誰しも身動ぎ一つせず、互いの出方を探った。焦燥感といらだちを抱きながらも、声を発する者はない。皆が状況の打開を考えあぐねていた。
じりり、とまわりをとり囲む騎兵のかざす、火の静かに燃える音だけがする。
そんな中で変化に最初に気づいたのは、シィシアンだった。
いくら呼びかけても嘲弄しか返らぬ弟の姿に、シィシアンはきついまなざしをむけていた。
身体がジェライドのものである以上は攻撃に転じることはできない。かといって、これ以上打つべき手立ても見出せない。
どうすればいい? そう唇を噛んだ時、それは起った。
傲然と人間を見下していた少年の顔が、かがり火の下、ふと顰められた。不愉快そうに眉をよせ、こちらを捉えていた視線の焦点がぶれる。目だけはむけられてはいるが、明らかに意識が別へむいていた。
なんだ? と表情にはださず、シィシアンは唐突な変化を訝った。
だが、逃すべくもない好機に後ろ手でそっと合図を出す。うしろにいた魔法使いがシィシアンの意図を拾い、瞬く間にほかへと伝えられていく。
闇の意識がそぞろな今なら、内に眠るジェライドを呼びだせるかもしれない。一縷の望みをかけて、シィシアンは態勢が整うのを待った。
ふいに、少年の瞳が揺れた。
ゆっくりと瞬いたかと思うと、ひとすじの涙が頬を伝う。
再度の機会を逸したか、と胸中でほぞを噛んだシィシアンは、零れたそれに瞠目した。
闇が涙を流すことなどありえない。とすれば……。
「ジェ、イ……?」
警戒を隠し切れず、確かめるように弟の名を口にする。
──に、いさま……
呼びかけに答えるかそけき声は吐息にまぎれ、確かに唇がそう動いたのだけが見てとれる。
だが、それだけで十分だった。
「ジェライド! よかっ──」
ガッ、と安堵に駆けよろうとしたシィシアンの足元を、なにかが鋭く抉った。
反射的に飛び退った彼が顔をあげて見たものは、片手を払ったジェライドの姿だった。二度、三度と続いて走る地面の亀裂に、シィシアンはうしろへとひくしかない。
「逃げ……逃サヌッ」
同じであって、まったく違う響きを持った声がジェライドの口から漏れる。よく見れば、ジェライドの身体から夜よりも濃い闇がうっそりとたちのぼっていた。
「ジェライド……」
グレイルが呆然とジェライドを見入った。
止まることを知らない涙が頬を伝い、ゆるゆると首が横へ振られる。けれどその手は、気配は、容赦なく目の前の人間を排除しようとしていた。
「止まら、ないん、──無駄ダ、アキラ……ねがい、」
逃げて。もしくは、止めて。誰かが傷つく前に──
たどたどしく言葉を継ぐ合間にも、ジェライドの足は自らの意思に反して歩を進めようとする。思考とは別の部分で動かされる手足は、留まろうとするジェライドと先を目ざす闇の間にあって、歩きはじめたばかりのこどものようにおぼつかない。
どうすべきか。
シィシアンの合図に身構えていた魔法使いの誰もが判断に迷った。今の少年の状態で、はたして巫女の言った闇との結びつきが弱まったといえるのか。
少年の精神と身体のつりあいが不均等で、下手に手をだすと、片方もしくは双方を壊してしまいそうだった。前例があまりないだけに決断はつきがたい。
意を決したのは、少年の兄であった。
「──地系結界を! 動きを止めてくださいッ」
張りつめた空気を割って、鋭い声が飛ぶ。迷う間もなく、反射的に魔法使いたちは口々に呪文を唱えた。
「地精召喚、縛!」
行使された地精はジェライドの身体にからみついて歩みを止め、動きを奪う。表情ではそのことに安堵しながらも、地面に縫いつけられた身体は忌々しい拘束を解こうとわずかに身じろいだ。
その様を確認することもなく、シィシアンは突然隣にいた父親から彼が帯刀していた短剣をすばやく奪いとった。
「! シアッ」
息子の思わぬ行動にグレイルが、なにをする気だと叫ぶ。
だが、答えは返さず、シィシアンはさっと鞘から刀身を抜き放った。鞘を捨て、グレイルの方を見返ることなく小さく囁く。
「父さま。あとは、頼む」
「? ──待てっ」
シィシアンの言動を訝ったグレイルが、次の瞬間、ジェライドへと歩みよっていくのを見て声をあげた。
けれど、制止を背中で拒絶して、シィシアンはまっすぐ弟へと近づいていく。
「今、助けてやるからな」
優しい笑みさえ浮かべて自分へとむかってくるシィシアンに、ジェライドは困惑と警戒をないまぜにした瞳を投げた。
動かないと知りながらも、覚えずひこうとした細い身体をシィシアンがその手首をとって押さえた。あまりの力の強さに、少年の顔にさっと怯えが走る。
それはジェライドの感情だったか、闇のものだったのか……。
「に、い……」
「ディレイアス神よ! この子に加護を!」
掴む手は緩めず、むしろよりきつく捉える。吼えるように天上にむかって叫ぶと、シィシアンは手にした短剣を滑らせた。
自らの腕へ、迷いもなく。
刹那、赤い飛沫がジェライドに散った。
熱い鮮血がシィシアンの腕を伝い、少年の腕へと滴りおちる。
ジェライドはその様に声もなく立ち尽くした。
「っ、シィシアン!?」
驚愕に目を見開いた周囲をよそに、シィシアンは短剣から手を放すと、すばやく懐から金の鎖をとりだし、弟の腕へととおした。並行して唇が呪文を紡いでいく。
「清らかなる水よ、我が熱き水を持ってして媒介となし、この者の内から悪しき闇を払い清めたまえ!」
それは自身の存在をかけた危険な呪文だった。
自らの血をより強力な水精の行使の手立てとして用いただけでなく、闇へと供したのだ。
闇の気が別へとそれれば、その分ジェライドとの解離がたやすくなる。一方で、血に釣られた闇にシィシアンがのっとられる恐れを孕んでいた。
全身の血を失って自分が倒れるのが先か。水精がジェライドから闇を払うのが先か。もしくは、自分こそが器とされるか。
ある意味、賭けだったと言ってもいい。
目前にあふれた緋色に、ジェライドは瞠目した。
なにが起ったのか、見えてはいても理解が及ばない。ただ、自身を捉えた腕を見つめるだけだ。
そんなジェライドの心にできた隙を衝き、飢えた獣に似た表情へと面がとって代わった。欲に濡れた輝きがぎらりと瞳によぎり、唇が歓喜に歪む。身体から滲みだす闇が濃度を増し、今にもシィシアンに襲いかからんばかりだ。
ゆっくりと口元に飛んだ血を舐めとろうとした少年の顔が、唐突に苦痛に歪んだ。
びくりと小さな身体が大きく揺れ、抵抗するように胸元をきつく握り締める。とともに、とられた手を離そうと自由にならぬ身でもがく。
おびただしい流血にも構わず、シィシアンは暴れる弟の腕を放そうとはしなかった。呪文の効力が途切れぬよう、闇の器となった身体を逃がさぬよう、持てる力を最後の一瞬まで己の腕へと注ぎこむ。
瞬く間のようで、気が遠くなるような長さにも似た時が過ぎた時、
「──兄さ、ま……も、ぅ」
少年の目に理性の光が戻った。
一言、擦れる声で呟くと瞼がすっと閉ざされる。時を同じくして、彼の身の内からさきほどまでとは比にならない濃密な闇が勢いよくたちのぼった。
力をなくしたジェライドの身体が、糸が切れたように地面へと崩れおちる。
それを目にしたシィシアンもまた、表情に安堵を浮かべるとゆっくりと倒れた。顔からは完全に血の気がひき、一刻も早い手当てが必要なのは誰の目にも明らかだった。
「ジェライド! シィシアン!」
相次いで地面に伏した息子たちに、グレイルが慌てて駆けよろうとする。が、怒りに猛り狂った影にいく手を遮られた。
「小賢シイ、人間ドモメ! コノこども共々喰ラッテクレヨウヨッ」
シィシアンの魔法によりジェライドの中から払われ、元の姿を晒した闇が、目と思しきどす黒い血の色をした赫きであたりを見据えた。波打つように大きく蠢けば、恐ろしいほどの圧迫感がのしかかる。
魔力の維持に神経を注いでいた魔法使いたちが額に汗を浮かべ、歯を食いしばった。
ここで結界を切れさせるわけにはいかないのだ。切れたら最後、闇は襲いかかってくる。器を持たない影だけの存在であってもこれだけ強大ならば、人を狂わせ呑みこむくらいの力はある。
また、十全に己の悪しき力を揮うのに必要な器ならば目の前に転がっているのだ。自分のものにすることなど、造作もない。
グレイルも宝刀を構え、じりじりと間を詰めていた。
柄を握る手にじっとりと汗が滲んだ。下手に影に触れれば無事にはすまない。かといってこのまま時をすごしていてはシィシアンの命が危なかった。魔法使いたちも限界が近づいている。
どこだ、と逸る気持ちを押さえて目が探る。
闇にあるという、核たる部分を。
そこを確実に貫かなければ、自分たちに明日という日は訪れない。
息もつけないほど逼迫した空気が、わずかに動いた。闇へと意識を集中させていたグレイルの視界の端を、なにかが掠める。
それは、小さな手であった。
震える細い指が、ある一点を指差していた。
闇に悟られぬよう用心深く目線を下げたグレイルの目に、気を失っていたはずのジェライドがわずかに身を起こしているのが映る。こちらをまっすぐに見つめ、懸命に腕をあげている。グレイルは驚きに揺れた感情をかろうじて胸の内に留め、指差す先へと視線を流した。
あったのは、影の中にあって赤く濁った二対の赫きであった。
「…………」
無言で頷いたグレイルは、ぐっとその腕に力を込めた。深く息を吸い込む。
一拍後、
「はぁッ!」
裂帛の気合とともに、切りこんだ。躊躇なく闇へと身を躍らせ、確実に狙った場所へと最初の一撃を繰りだす。
「グアァッ! ……オノ、レェェ──ッ」
過たず貫かれた片方の赫きに、闇の咆哮がほとばしる。
けれども、グレイルは怯むことなく剣をすばやく返すと、のたうつように激しく蠢くソレの、残りの赫きにむかって突き立てた。
「ギャァ────ッッ」
空気を裂き、鼓膜をつんざく絶叫が森に響き渡った。
闇が収縮したかと思うと、次の瞬間弾けるように霧散する。
「──やった、か……?」
消えた闇の気配に、グレイルががっくりと地面に膝をつく。肩で大きく息をして確かめるようにあたりを見回せば、魔法使いたちも一様にぐったりと座りこんでいる。
半ば呆然とその様子を見ていた彼は、はっと我に返った。
「ジェライド、シィシアン!」
手にした宝刀を投げだし、倒れる二人の息子へとグレイルは腕を伸ばした。




