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明るさを失った空の下、地面に横たわっていた少年の身体がゆっくりと起きあがる。確かめるように手足を動かし、時折ままならぬ動作に顔を顰めた。
だが、概ね己の思うようになると知ると、にぃとジェライドの唇があがる。普段の彼なら絶対にしない、粘着質な笑い方だ。
「マダ完全デハナイカラナ。多少ノことハ仕方ガナイ」
時がたてばこの身の内にある力も使いこなせるようになる、と少年の声が暗く笑う。
「サシアタッテ、ここヲ出ルカ……」
器の力を行使するにはこの森は都合がいいが、己にとっては不愉快以外のなにものでもない。
自身を封じていた結界は壊れたが、森にも闇の力を押さえこもうとする力が働いていた。顕現した今、さしたる影響もないといえばなかったが、そんな場所にいつまでも留まっていたいと思うソレではなかった。
ややぎこちない仕草で歩きだした少年は、数歩進んだところで眉を寄せた。
目の前にはジェライドが抜けてきた茨の茂みがある。それに沿うようにして、今度は半円を描いて歩むと再び足を止めた。
目に剣呑な輝きが浮かぶ。
「シャラクサイ」
ついっと視線を上にむければ、紺碧の空が見える。
森の中へ──空の下から抜けだすことができないのだ。
いくら茂みへ踏みこもうとしても、抵抗があってそれ以上前へと進まない。闇が封じられていた場所を中心に、ぐるりと円状に張り巡らされた茨が、ソレが結界の外へでることを拒んでいた。
「今モッテ、我ヲ封ジルカ。ソンナモノ、なにほどデモナイワ!」
かっと深緑の瞳が見開かれる。
同時に身体から黒い霧がたちのぼったかと思うと、一気に目前の森へ躍りかかった。
それに対抗するように、少年の足へとどこからか伸びた葛がからみつき、地面に縫いとめる。
「邪魔ヲスルナッ」
霧とともに進もうとした足をとられ、ソレはいらだたしさを隠さず、葛を力任せにひきちぎった。
摩擦が布地を破き、幼い細い足に痛々しい傷が走る。が、構う様子はない。
ここからだすまいと後から後から縋ってくる蔓に舌打ちをして踏みしだき、力によって抉られた茨を抜けようとしたところで、ふと背後を振り返った。暗闇を見透かすように、ぐっと目を細めた。
土を踏む複数の足音に続いて、交わされる低くおとされた声、近づいてくる人の気配にソレは愉快そうに口元を歪める。
「自分デ近ヅイテクルトハナ」
削られた元の力をとり戻し、この器を完全に己のものとするには、食事が必要だと思っていたところだ。
ちょうどいい、とソレはむき直ると、次第に近くなる気配に目を輝かせた。
「こっちだっ!」
拘束の魔力を失くし、今はただ邪魔になるばかりの茨を、シィシアンは呪文一つで焼き払う。
国の最高峰の魔法使いの手によって送られたシィシアンたちが目にしたものは、不気味なほどに静まり返った、森という名の濃い陰だった。
だが、誰もが――内心はともかく――恐れる様もみせず中へと踏みいった。
そんな彼らを最深部で待っていたのは、幼い少年であった。
腕を組み、大人たちを睥睨する、かがり火に照らしだされた表情は、明らかな愉悦と傲慢さを浮かべていた。
幼い外見に不釣合いな不遜な態度に、居並ぶ者たちの顔が一様に厳しさを増した。身体をのっとられていることは明らかだ。
「──その子から、でていけ」
自然、怒りがシィシアンの口を突いてでた。湧きあがる強い憤りに手が震えた。
確かに自分の弟なのに、絶対にそうではありえないものとして目の前にソレがあるのに嫌悪感が募る。悪意の存在に言っても無駄だとわかっていても、感情を抑えることはできなかった。
剣呑な瞳で見据えるシィシアンへ、少年の視線がついっと動いた。あからさまな嘲笑に唇がつりあがる。
「これガココヘ来タ。自分デナ。貴様ラ同様愚カデ、他愛モナイ」
「黙れッ!」
「これガ我ヲ呼ンダノヨ。不安定デ未熟ナ精神。加エタ深イ絶望ト、自分ノ存在ヲ否定スル心ガナ」
そうでなければこの身体、さすがに手をだしかねる。
くつくつと喉で笑う少年へ、一因を作ったシィシアンは強く奥歯を噛み締めた。怒りに任せてむかっていきそうな彼を、横から別の手がそっと押さえる。
「シィシアン」
低く名を呼ばれ、シィシアンはかろうじて自身を制すると小さく頷いた。
闇の注意がシィシアンにむいているうちに、他の魔法使いたちはすばやく散開していた。各々が合図に備え、油断なくソレをとり囲んでいく。
彼らの意図に気づいた少年が面白そうに左右に目をやった。
「最高ノ器ヲ手ニイレタ我ヲ、人間ゴトキガどうこうデキルトデモ?」
挑発を仕掛けるソレの背後に、行動を別にしていた最後の一人がそっとまわりこんだのを認める。彼が腕をあげたのを合図として、シィシアンは声を張りあげた。
「目を覚ませっ、ジェライド!」
と同時に、魔法使いたちが呪文を唱和する。
「風精召喚、縛!」
風がゴォッ、と唸りをあげて少年の身体に襲いかかった。激しく空気が渦巻いて、ソレを目に見えない縄で拘束する。
だが、締めあげられたソレは哄笑と共に吼えた。
「無駄ダッ!」
細い腕で払う仕草に、二人の魔法使いがうしろへ弾かれる。残った者たちも必死の形相で術を保つが、長くはもたないのは明白だった。
「俺の声が聞こえないのかッ」
重ねて発したシィシアンの声にも、少年の表情は動かない。ただ薄く笑う姿に、背筋を冷たいものが滑りおちる。
「ジェライドっ!!」
横合いから、一際大きな叫びが森に響いた。続く鞘を払う音に、少年の瞳が兄からそれ、隣に立っていた父親の姿を捉える。
「私たちはおまえのことを、愛してる。ほかの誰も代わりにならない、おまえ自身を。だから、」
戻っておいで、と宝刀を構えた。
薄闇の中、わずかな光にすらりと輝く刀身に、さすがに少年は自由にならない身体をわずかにひかせたようだった。
だが、この身体にいるかぎり、剣がどれほどの威力をもっていようと攻撃することはできないとソレは知っていた。
「コノこどもハ目覚メナイ。目覚メサセテナルモノカ。スデニこれハ我ノ物ダ!」
「っ、ぅぐっ」
ぎらりと瞳を輝かせ、振るわれた力に少年を縛っていた魔力が霧散する。返された衝撃が魔法使いたちを襲った。
顔を腕で庇ってやりすごしたシィシアンは、闇の想像以上の手強さに鋭く舌打ちした。
けれど、それ以上にいっこうに目覚める様子のない弟に焦りが募っていく。ジェライドの面影をまったくうかがうことのできない少年へ、シィシアンはいらだちのままに口を開いた。
「誰がおまえをいらないだなんて言った、ジェライド!」
勢いのままに言葉を継ぐ。
「一言だってそんなことを口にした覚えはない。家族はおまえを大切に思ってる。父さまに、おばあさまやおじいさまに愛されてきただろう? 兄さんだって同じだ。兄さんは……俺は十年間、そんなことも教えてこなかったっていうのか、ジェイ!」
――──……ォ!
わずかに届いた、よく知っているような気がする声が、ジェライドの意識に触れる。
だが、彼がそうと感じる前に圧倒的な闇によって、自我は漆黒に塗りつぶされていく。
『ナニモ考エナクテモイイ』
優しく囁かれ、小さく頷いたような気がした。身体を持たない今、感覚はひどく曖昧でなんの意味も持たない。
ただ、なにを意識することもなく、ジェライドは目覚めることを放棄する。
とり囲む闇の中、痛みも悲しみもなく、深く堕ちていく。
時は一瞬のようであり、永遠に近いようでもある。『自分』という個の存在が薄すれ、果てのないナニカの一部へとゆるゆるととりこまれていくようだった。
――――……子よ……
聞き覚えのない声が、あるはずのない聴覚を刺激した。
さきほどよりも強引に意識に割りこんでくるそれは、けれどどこか懐かしさに満ちていて、なくなりかけていたジェライドという存在を揺さぶった。
――――……さい、吾子よ。
一層はっきりとした呼びかけに、ジェライドの意識が否応なしに覚醒に導かれていく。
しかしまた、別の力が彼を眠りの淵へと押し返した。
『目覚メテ、ドウスル? おまえハイラナイト言ワレタジャナイカ。居場所ナンテ、ドコニモナイ。ここデ眠ッテイレバイイ。苦シイコトナドなにもナイ』
ああ、そうだった、とジェライドは眠りにつく前に抱いた深い絶望を思いだした。
自分のあるべき所は、もうないのだと。
つけこむように、甘い誘惑が吹きこまれる。
『ソウ。我ニ身体モ心モ、委ネレバイイ。ソウスレバ、寂シクナドナイダロウ?』
促されるがままに再び閉じようとしたその心を、
――――聞きなさい、この声を。思いだしなさい、胸のうちにある言葉を。
力強い男性の穏やかだが厳しい声音が遮った。
「──こ、ぇ?」
ぽつりと零れたそれは、肉体がないゆえに音にはならない。
けれど、呟きという自らの意思による行為に、ジェライドは徐々に『自分』をとり戻していく。
なぜ、自分はここにいるのだろう?
ふと疑問がわいた時、悪意を持った舌打ちが漆黒の闇に響いた。同時に強引で恐ろしい力が、自分を無理矢理ねじ伏せにかかるのを感じる。
「ぃや、だ……」
わけもわからぬまま、降って湧いた身に迫る危機感と思いだされた突き刺す悲しみに、ジェライドは恐怖した。
感じるのは闇ばかりで、ここがどこなのか、どこへむかうべきなのかもわからない。
『ドコヘイッテモ同ジダ! おまえノ前ニアルノハ絶望ト恐怖ダケ。救ワレルコトナドナイ!』
だから大人しく呑まれればよかったものを。
絶対的な悪意が闇から浸透してくる。
じわじわと己がとりこまれていくのを、ジェライドはただ受けいれるしかなかった。逃げようにも方法がわからない。
また、ソレに対する本能的な怖れよりも、胸を満たした絶望感がすべてを諦めさせた。
逃げたところでいく場所などない。
ならば、どうなろうと構わないではないか……。
ジェライドの感情を感じとったのか、闇は嬉々として彼を侵食していく。
なにもかもを投げだして、増した圧迫感に任せようとした瞬間、
──誰がおまえをいらないだなんて言った、ジェライド!
叫号が闇を震わせた。
「──にい、さま?」
――――そうだ。呼ぶ声が聞こえるだろう? 戻らなくてはならない。あそこへ。あの声を信じなさい。ここで、屈してはならない。
ジェライドの確認のような問いに答えたのは兄とは違う、さきほどと同じ、知らない男の声だった。と同時に違う二つの声音が、ジェライドの内にふいにおちてきた。
「自ら闇を呼び込んだとすれば、『疑う心はなにをも生まない』己に負ける弱い心がそうするのだ。『……真摯な思いにこそ、言霊は宿るのですから』人には誰しもそういう瞬間もあるだろう……」
重なりあうように、添うように、高く低くこだまする。
やがて響きが薄れゆき消えていくのに、ジェライドは縋るように震える声を発した。
「……導師さ、ま。巫女さま…っ」
なぜ、忘れていたのだろう、と。
とても大切な教えだったのに……。
そう思うと己の愚かさが情けなく悲しくて、熱いなにかがあふれだす。
それにジェライドをひきずりこもうとする闇の触手が、触れてはいけないものにでも触れたかのように、わずかにたじろいだ。
瞬間的にかかっていた圧迫感が薄れる。
その一瞬をジェライドは見逃さなかった。
──ジェイ!
シィシアンの声が一際高く己の名を呼んだのを導に、そちらへとむかって心が駆けだしていく。
不思議ともう迷わなかった。あの声へむかっていけばいいのだと、一心に信じられた。
あと少し。
そう思った時、強くうしろへひかれる力に、ジェライドは反射的に振り返ってしまった。
『──逃スモノカ……』
ぎらりと欲望と悪意に濡れる凝った血の色をした双眸が、彼を射る。予想外に近くにあったそれと、まともに見合ったジェライドを戦慄が貫いた。
それは耐え難い恐怖だった。
自分の中にある、悲哀、寂寥、憎悪、絶望、などといった思いだしたくもない負の感情が増幅され、一気に噴出して自身をからめとり、闇へと追いおとそうとする。
「────っっ!」
声にならない絶叫を発して、ジェライドはあとわずかの先へ、あるはずのない腕を伸ばした。




