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#第五章 アゲハ(後編)追憶

 藤井悠は自分のスタートの日を思い出していた。

すべては、三年前のあの夜から始まった。

 いや、正確には「始めることを選んだ夜」だった。

はっきりとしたきっかけがあったわけではない。誰かに背中を押されたわけでも、劇的な出来事があったわけでもない。ただ、気づいたときにはギターケースを持って家を出ていた。

 札幌の夜は、まだ少し湿っていた。大学一年、夏の始まり。いや、まだ春の終わりだったかもしれない。熱気が最高潮に達しないまま、どこか中途半端な季節。街の空気は、自分の中途半端さを映し出しているようだった。

(何やってるんだろうな、俺)

 自嘲気味に思いながらも、足は止まらなかった。

地下鉄を降り、階段を上がる。地上に出た瞬間、きらびやかな光が視界に広がった。ススキノ。何度も通り過ぎてきた場所だが、その夜は少しだけ違って見えた。ここに立つ理由が、自分の中にあったからだ。

 交差点に向かう。人の流れが途切れない場所。立ち止まるには少し勇気がいる。それでも、悠は足を止めた。

ギターケースを地面に置き、ファスナーに手をかける。少しだけ、ためらった。

(……やるのか?)

 心の中で問いかけるが、答えは簡単には返ってこない。それでも指は止まらなかった。ゆっくりとファスナーを開ける音が、静寂を裂くように大きく響いた。

 ギターを取り出す。まだ手に馴染みきっていない感触。ストラップを肩にかける。周りの視線が気になった。誰も見ていないはずなのに、世界中に見られているような気がする。

深く息を吸い、何度も吐く。もう一度、吸う。

(……いいや)

 小さく、心の中でつぶやいた。うまくやろうとしなくていい。誰かに認められなくてもいい。ただ、音を鳴らしてみようと思った。

 最初のマイナーコードを押さえる。指が少し震えていた。それでも、そのまま弦を弾いた。

 乾いた音が夜に転がる。ほんの一瞬だけ、世界が静かになった気がした。その感覚に驚きながら、悠はもう一度、弦を弾いた。


そこから三年間、よほどのことがない限りは、無我夢中で水曜日と木曜日の夜はススキノに来ていた。そんな遠い昔話を思い出しながら、夜の外でぼんやりしていた。

いろんなことを考えすぎたかなと苦笑いし、その日は、少しだけ早く切り上げた。

 風が冷たくなり始めた、夏の終わりの夜。歌い終えてギターを片付けると、いつもよりも妙に静かな気がした。

(なんか、物足りないな)

 そんなことを思いながら歩き出す。ネオンの明かりを抜けて、少しだけ暗い通りへ。そのときだった。

「……今日は早いんだね」

 聞き慣れた声に振り向くと、アゲハが立っていた。店のドレスではなく、ラフな私服姿。シンプルなシャツに細身のパンツ、髪も無造作にまとめている。一瞬、誰か分からなかった。

「……珍しいね、その格好」

 思わず言うと、アゲハは少しだけ笑った。

「たまにはね。仕事じゃないときくらい、普通でいたいでしょ。あとはお客さんにばれないように」

 どこか軽い、けれど本音が混じった言い方だった。

「歌、終わり?」

「うん、今日はなんか……乗らなかった」

 正直に言うと、アゲハは小さくうなずいた。

「まあ、そういう日もあるよ」

 慰めでも否定でもなく、ただ事実として受け流す。

「ちょっと歩く?」

 彼女が先に歩き出し、悠は少し迷ってからその後ろをついていった。

並んで歩く二人の間には、少しだけ距離がある。それがちょうどいい気がした。人通りは少なく、街の明かりも遠い。まるで夜の「裏側」に迷い込んだようだった。

「悠さ、なんで歌ってるの?」

 突然の問いだった。何度も聞かれてきたようで、実は一度もまともに答えたことがない質問。

「……なんでだろ。最初はなんとなく。でも今は……やめられないから、かな」

 アゲハは少しだけ笑った。

「それ、いいね。変に理由をつけるより、よっぽど本音っぽい」

足音だけが静かに響く。

「私もね」

 アゲハがいたずらっぽく、ぽつりと呟いた。

「昔、歌ってたんだよ。高校のとき、軽音部で。ギターも弾いてた。下手だったけど」

 意外だったが、どこか納得もした。

「ライブとか出てたの?」

「うん。でもギターはすぐにクビになって、ボーカルに専念してた。文化祭とか、ちょっとしたイベントとかね」

 その笑い方は、とても懐かしそうだった。

「楽しかった?」

「……楽しかったよ。めちゃくちゃじゃなかったけど、思い出すくらい楽しかった」

 完璧ではないけれど、大事に噛みしめている時間。そんな質感が伝わってくる。

「じゃあ、なんでやめたの」

 聞いてから、踏み込みすぎたかと後悔した。けれどアゲハは優しい目で答えた。

「普通に、流れかな。卒業して、バイトして、なんとなくこっちの仕事して。気づいたら、歌わなくなってた」

 あまりにもあっさりとした言い方。けれど、どこか引っかかる。本当にそれだけなのだろうか。

「後悔してる?」

 アゲハはすぐには答えず、空を見上げた。

「どうだろうね。してないって言ったら、嘘になるかも。でもさ、後悔って後からじゃないと分かんないじゃん。そのときは、それが普通だったし。だから、仕方ないって思うようにしてる」

 「思うようにしてる」という言葉に、悠は何も言えなかった。代わりに、ギターケースの持ち手を強く握る。

自分もいつか、やめる日が来るのだろうか。

「ね、たくさん考えて選びなよ」

 アゲハが立ち止まる。

「なんとなくな流れでいくとさ、あとでめんどくさいから。歌うのも、やめるのも、どっちでもいいと思う。でも、自分で決めな。大人になったら」

 その言葉が、真っ直ぐに胸へ落ちてきた。

それは選ばなかった夜を教えてくれるものだった。

店の裏口近くまで戻ってきたとき、アゲハは足を止めた。ネオンの光が届かない場所で、静かな「間」が落ちる。

アゲハは自動販売機で缶コーヒーを買ってくれた。

「はい、今日の弾き語り分。コイン替わり」

「ありがとう。いただきます」

 悠は受け取る。アゲハは飲み物は飲まずに、壁に背を向け、メンソールの煙草に火を付けだした。

「ねえ、悠。さっきの話の続き、いい?」

 振り向かないまま、彼女は言った。

「なんでやめたのか、って話。流れって言ったけど、半分は本当で、半分は嘘」

アゲハは軽く壁にもたれ、過去をなぞるように言葉を置いていく。

「高校のとき、結構本気だったんだよ。プロになるとまでは言わなかったけど、『続ける前提』ではいた。卒業して、一回だけオーディションを受けたの」

 空気が変わった。

「全然ダメだったけどね。歌も演奏も、なんか全部中途半端で。『上手い人はいっぱいいるからね』って審査員に言われてさ。別に間違ってないじゃん、実際そうだし」

 彼女は静かに笑った。けれど、その笑いは少しだけ遅れてやってきた。

「それでさ、なんか急に分かんなくなっちゃって。続ける理由も、なくなった気がして。『自分じゃなくてもいいんだな』って思ったら……なんか、どうでもよくなっちゃって」

 悠は言葉を失った。その感覚は、少しだけ分かる気がした。

「で、そのままやめた。バイトして、流れて、今に至る。以上」

 それは偶然ではなく、「選ばなかった」結果だった。

「後悔は?」

 もう一度、悠は問いかけた。今度はより慎重に。

「あるよ。普通にある」

 迷いのない、重い返事。

「たまに店で誰かの歌を聴いたりすると、『あのとき諦めないで続けていたらどうなってたかな』って思う。でもさ、もう戻れないじゃん。だから、考えても仕方ないって思うようにしてる」

アゲハは身を起こし、悠を真っ直ぐに見つめた。

「だからさ、悠には最後まで考えて選んでほしい。『なんとなくやめる』のが一番ダサいから。続けるならそれでいい。やめるならそれでもいい。でも、自分で決めな」

悠はゆっくりとうなずいた。

「……うん。わかった」

 アゲハは満足そうに笑い、「よし」と軽く手を叩いた。

「じゃ、事務所に忘れ物を取りに行って帰るわ。また歌ってよ。今度もしっかりと聴いてるからさ」

 彼女は店の裏口へと消えていった。扉が閉まる音のあと、静寂が訪れる。

後悔、選ぶ、やめる、続ける。

 全部まだ決まっていない。けれど。

(なんとなくじゃ、ダメか)

 悠はギターケースを持ち直し、賑やかな街の方へ歩き出した。

(もう少し、やってみよう)

 ススキノの夜は、今日もまだ終わっていなかった。あと一時間弾いて帰ろう。今やれることをがむしゃらに。アゲハには今日は聴いてもらえないかもしれないけど、いつか聴いてもらえる日のために。胸を張れるように。

 アゲハが過去を明かしてくれたことで、彼女がなぜ悠に「選べ」と執拗に問いかけたのか、その理由が鮮烈に腑に落ちた。「自分じゃなくてもいいんだな」という絶望と、そこから流されてしまった後悔。彼女の言葉は、未来の自分への警告であり、過去の自分へのレクイエムのようにも聞こえた。


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