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#第五章 アゲハ(前編)

 木曜日の夜は、どこか甘い匂いがする。酒なのか、香水なのか、それともただの思い込みなのか。ススキノのネオンに照らされると、人の輪郭は少し曖昧になる。誰もが少しだけ、別の誰かになっているように見えた。

藤井悠は、いつもの交差点に立っていた。ギターのストラップを肩にかけ、軽くチューニングをする。弦を弾く音が、街のざわめきに溶けていく。

 一曲目を歌い終えたときだった。

「やっぱり、いた」

 少しかすれた声がした。振り向くと、ヒールの音を立てて近づいてくる女性がいた。長い髪をゆるく巻いていて、コートの下から覗く服は少し華やかだ。どこかで見たことがある気がしたが、すぐには思い出せなかった。

「水曜と木曜、だいたいいるよね」

 そう言って、彼女は悠の前に立った。

「あ、はい……」

 曖昧に返すと、彼女は少しだけ笑った。

「やっぱり。何回か見てるよ」

 その笑い方は、からかっているわけでもなく、かといって距離が近すぎるわけでもなかった。悠にとっては、ちょうどいい距離感だった。

「歌、いいじゃん」

 唐突に言われて、悠は少し戸惑った。

「ありがとうございます」

 とりあえずそう返すと、彼女は満足そうにうなずいた。

「ちゃんと聴いてるよ」

 その一言に、少しだけ驚く。「ちゃんと聴いてる」と言われることは、あまりない。拍手や「すごいですね」という言葉はあっても、それらとは違う重さがその一言にはあった。

「ギター似合ってるね」

「……ありがとうございます」

「名前、あるの?」

「え?」

「バンド名とか、アーティスト名とか」

「ああ……いや、特に」

「そっか」

 彼女はそれ以上は追求しなかった。しばらくの間、二人で黙って立っていた。信号が変わるたびに、人の流れが押し寄せては引いていく。

「ね、一曲聴かせてよ」

 促されて、悠はうなずいた。何を弾くか少し迷って、結局いつも歌っている曲を選んだ。自分で作った曲。誰に向けているのか、自分でもよく分からない歌。

 イントロを弾き始めると、彼女はさっきまでとは少し違う顔で佇んでいた。営業用の笑顔でも、気を抜いた表情でもない。ただ、まっすぐに音を見つめているような顔だった。

歌いながら、悠は思う。この人は、何をしている人なんだろう。観光客ではない、地元の人間だ。けれど、普通の会社員とも少し違う気がする。

 曲が終わると、彼女は小さく拍手をした。

「いいね」

 それだけ言った。けれど、その「いいね」は軽くなかった。評価というより、何かを確かめたような響きだった。

「ありがとう」

 悠が言うと、彼女は少しだけ首をかしげた。

「さ、仕事行かなきゃ」

 そう言って、彼女は踵を返す。

「あ、」

 思わず声をかけると、彼女が振り向いた。

「名前……」

 自分でもなぜ聞いたのか分からなかった。少しの間があって、彼女は答えた。

「アゲハ」

 それが本名でないことくらい、すぐに分かった。けれど、それ以上聞く気にはならなかった。

「またね、ミュージシャンくん。続けなよ」

 軽く手を振って、彼女は人混みの中に消えていった。ヒールの音だけが、少しだけ長く残った。

悠はその場に立ち尽くしていた。アゲハ。頭の中でその名前を繰り返す。

 不思議な感覚だった。強く印象に残るわけでもないのに、なぜか心が惹きつけられる。ギターを持ち直して次の曲を弾き始めると、さっきと同じはずの音なのに、少しだけ違って聞こえた。

誰か一人に、しっかりと聴かれていた。ただそれだけのことが、これほど自分に影響するとは思わなかった。その夜、悠はいつもより長く歌った。ギターケースの中身はあまり変わらなかったけれど、何かが少しだけ動いた気がした。

ネオンは相変わらずで、街も変わらない。それでも、水曜と木曜の夜に、ひとつだけ忘れられない名前が増えた。

 アゲハ。

 その名前は、音の余韻のように、しばらくの間消えなかった。


その名前を聞いてからしばらくの間、悠は少しだけ意識していた。

 水曜と木曜。いつもの交差点。あのヒールの音が、また聞こえるのではないかと。けれど、そういうときに限って彼女は現れない。代わりに、酔った客や通り過ぎるだけの人たちが、いつも通り流れていく。何も変わらない夜が続いた。

(別に、待ってるわけじゃない)

 自分に言い聞かせながら、四曲目のイントロを弾いたときだった。

「今日、ちょっと適当じゃない?」

 背後から声がした。振り向くと、アゲハが立っていた。前とは色が違う薄いピンクのコート。服装に合わせてなのか、今日は少しだけ化粧が明るい気がする。

「え、そうですか」

 思わず苦笑いすると、アゲハは肩をすくめた。

「うん。なんか、考えすぎ? 上の空?」

 図星だった。悠は何も言わずにギターを持ち直す。

「もう一曲、いい?」

「もちろん」

 短く答えると、悠は深く息を吸った。今度は、余計なことを考えないようにした。うまくやろうとも、良く聴かれようとも思わない。ただ、音を置く。

 歌い終えると、アゲハは少しだけうなずいた。

「うん、さっきよりいい」

 その言い方が、やけに自然だった。評価されているのに、嫌な感じがしない。むしろ、どこか安心する。

「なんで分かるんですか」

 思わず聞くと、アゲハは少し笑った。

「仕事柄かな」

 そう言って、視線を交差点の向こうに向ける。

「私、人の顔を見る仕事だから」

 それだけで、だいたい察しはついた。深くは聞かなかった。聞かなくてもいい気がした。

 しばらく並んで立つ。ネオンの光が、アゲハの横顔をぼんやりと照らしていた。

「ねえ、悠」

 名前を呼ばれて、少しだけ驚く。いつ教えたのか、思い出せない。

「はい」

「悠は考えてる?」

 その問いは、思っていたよりまっすぐだった。

「何をですか」

 分かっていながら、そう聞く。アゲハは少しだけ間を置いた。

「この先のこと」

 短い言葉だった。けれど、逃げ場のない問いだった。悠はギターのネックに目を落とす。弦は、少しだけ光っている。

「……一応は」

 そう答えると、アゲハは小さく息を吐いた。

「確かに“一応”って顔してる」

 その言葉に、何も返せなかった。図星を突かれるのは、痛い。けれど、それが嫌ではないのは、もっと厄介だった。

「夢がある人ってね」

 アゲハが、静かに言う。前にも聞いたような気がする言葉だった。

「夢を追うのはいいの。でもね」

 一瞬だけ、言葉が途切れる。

「諦めるときも、何かを選ばなきゃいけないの」

 ざわつく街の光が、少しだけ揺れた気がした。悠は何も言えなかった。「諦める」という言葉が、思っていたより重く落ちてきた。

「適当にやめるとね」

 アゲハは続ける。

「ずっと引きずるから」

 その声は、強くも弱くもなかった。ただ、経験の重さだけがあった。

「……アゲハさんは」

 言いかけて、言葉を止める。聞いていいことか分からなかった。けれど、アゲハは少しだけ笑った。

「私?」

 軽く首をかしげる。

「私はね、選んだよ」

 その言葉の意味は、すぐには分からなかった。ただ、軽く言っているようで、決して軽くないことだけは分かった。

 遠くから、店の呼び込みの声が聞こえる。夜が、少しだけ深くなっていた。

「いけない。そろそろ行かなきゃ」

 アゲハは時計を見る。

「今日もありがとう」

 そう言って、悠のギターケースを一瞬だけ見る。けれど、彼女はお金を入れなかった。代わりに、少しだけ近づいて言った。

「そのままでもいいけどさ」

 ほんの少しだけ、声が低くなる。

「自分自身で選びなよ」

それだけ言って、彼女は離れた。ヒールの音が、一定のリズムで遠ざかっていく。途中で一度だけ、彼女は振り返った。

「悠」

「はい」

「最後まで歌える人になりなよ」

 その言葉は、軽く投げられたようで、なぜか胸の奥に深く刺さった。

アゲハはそのまま、ネオンの中に消えていった。姿が見えなくなっても、悠はしばらくその場に立っていた。ギターを持ったまま。

(最後まで歌う)

 その意味を考える。音楽のことなのか、人生のことなのか。たぶん、その両方だ。

 悠はゆっくりと息を吐いた。ギターケースを開く。中には、いつも通りの小銭と、折れたレシート。それでも、少しだけ重く感じた。

ギターを構えて、弦を弾く。音は、いつもと同じはずなのに、どこか違って聞こえた。

 その夜、悠はいつもより長く歌った。誰かに聴かせるためではなく、途中でやめないために。

 ネオンは変わらない。街も、変わらない。それでも、水曜と木曜の夜は、少しだけ変わった。

「自分自身で選ぶ」という言葉が、音の隙間に、ずっと残り続けていた。

アゲハに出会ってから、悠はどうして自分は弾き語りを始めたのかを、ずっと考えていた。アゲハとの再会、そして彼女から投げかけられた「ちゃんと選びなよ」という重い言葉。華やかな夜の世界に身を置く彼女だからこそ言える、現実的でいて慈愛に満ちたアドバイスが、悠の心に深くくさびを打ち込んでいた。



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