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#第四章 うっとりと嫉妬

 水曜日の夜は、人の感情が表に出やすい。

 酔いが回っているからなのか、月曜日・火曜日を経て、平日も中盤に差し掛かり、週末が近づいてくるからなのか。理由は分からないが、週の前半よりも笑い声や怒鳴り声が少しだけ大きく響く。

藤井悠は、いつもの交差点でギターを構えていた。ネオンの光がデニムの膝に反射して、妙に明るく見える。三曲目を歌い終えたあと、ふと視線を感じた。

 信号の向こう側。若いカップルが、こちらを見ている。

彼女のほうが先に歩き出した。彼氏は少しだけ遅れて、その後ろをついてくる。二人はちょうど悠の前で足を止めた。

「ね、ちょっと聴こうよ」

 彼女がそう言う。声は小さいのに、なぜかはっきり聞こえた。彼氏は何も言わない。ただ、腕を組んで少しだけ顎を上げている。

悠は軽く会釈をして、ギターを鳴らした。イントロは静かな曲を選んだ。雑踏の中でも、少しだけ空気を変えられるような曲だ。

 歌い始めると、彼女はすぐに目を閉じた。さっきまでの表情が、ふっとほどけていく。

(ああ、この人は自分の歌を真剣に聴いてくれる人だ)

 そう思った。

一方で、彼氏のほうは視線を外さない。悠を見るのではなく、隣にいる彼女の横顔を凝視している。腕を組む力が、少しだけ強くなった気がした。この子は俺の彼女だと主張しているかのように。

 歌いながら、悠は考える。誰かに届くというのは、こういうことなのかもしれない。届いたその人だけでなく、その隣にいる誰かにまで影響を及ぼしてしまう。音楽は、決してきれいな側面だけではないのだ。

曲がサビに入る。少しだけ声を張る。

 彼女の肩が、わずかに揺れた。呼吸が、音の波に合わせて動いている。対照的に、彼氏は視線を逸らした。ネオンを見るでもなく、ただどこか遠くを空虚に見つめている。

曲が終わった。一瞬の静寂のあと、彼女が大きく拍手をした。

「すごい……」

 小さく、でも確かにそう漏らした。彼氏は、少し遅れて手を叩いた。音は出しているが、気持ちが追いついていないのは明白だった。

「ありがとうございます」

 悠が告げると、彼女は少し照れたように笑った。

「もう一曲聴きたいです」

 その言葉に、彼氏の表情がほんの一瞬だけ強張った。すぐに元に戻ったが、その一変ははっきりと見て取れた。「ちっ」と舌打ちをし、悠に対して明らかに敵意の表情も見せていた。

「行こう」

 彼氏が促すように歩き出す。彼女はもう一度だけ悠のほうを振り返ってから、その後を追った。二人の距離は、さっきよりも少しだけ離れていた。

信号が変わり、人の流れが交差する。カップルの姿は、すぐに見えなくなった。

 悠はギターを持ち直した。胸の奥に、少しだけざらついた感覚が残っている。それは単なる「嬉しい」という感情ではなかった。誰かに届いたという手応えと、そのせいで何かが揺らいでしまったかもしれないという微かな危うさ。

(めんどくさいな)

 小さく呟いて、少しだけ笑う。でも、それでもいいのだと思う。何も届かないよりは、ずっといい。

 悠は次の曲のコードを鳴らした。さっきよりも、ほんの少しだけ優しい音だった。それでも、彼女の拍手よりも、彼氏の沈黙と舌打ちのほうが、なぜかいつまでも耳に残っていた。


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