#第三章 コーヒーとおにぎり
風が冷たい夜だった。札幌の寒い春と初夏の間の夜は、音まで冷やす。ギターの弦を弾くたびに、いつもより乾いた音が鳴る気がした。
藤井悠は、指先にふうと息を吹きかけながらコードを押さえる。水曜でも木曜でもない日だったが、なぜかその日は無性に弾きたくなって、交差点に立っていた。
人通りはいつもより少ない。立ち止まる人も、ほとんどいない。一曲、二曲と歌っても、拍手はなかった。ギターケースの中には、昼に買った缶コーヒーのレシートが一枚、寂しく転がっているだけだ。
(今日は、そんな日か)
そう思って三曲目のイントロをストロークで力いっぱいDコードを弾こうとしたときだった。
「寒いでしょ」
不意に声をかけられて、悠は顔を上げた。そこにいたのは、年配の男性だった。もうすぐ夏だというのに厚手のジャンパーを羽織り、手にはコンビニの袋を持っている。いかにも北海道らしいと悠は思った。
「あ、まあ……はい」
曖昧に笑うと、その人は袋の中から缶コーヒーを一本取り出し、悠へと差し出した。
「これ、あったかいから」
受け取ると、じんわりとした熱が手のひらに広がる。思っていたより、ずっとありがたい温度だった。
「ありがとうございます」
するともう一本、今度は袋から近くのコンビニで買ってきたであろうおにぎりを差し出された。少し形は潰れているけれど、まだ温かい。
「食べながらでいいよ。倒れたら困るでしょ」
その言い方は、妙に自然だった。心配しているというよりは、ごく当たり前のことを口にしているような。悠はギターを一度置き、おにぎりの包みを開けた。海苔の匂いが、冷たい空気の中でやけに鮮明に広がる。
「こういうの、よくやってるの?」
男性が尋ねた。
「週に二回くらいです。水曜と木曜に」
「へえ」
短い返事だった。けれど、その「へえ」には、しっかりとこちらの言葉を受け止めてくれている響きがあった。
しばらくの間、二人で黙って立っていた。車の走行音と、遠くの笑い声だけが夜を流れていく。
「昔ね」
男性が、ふと口を開いた。
「息子もギターやっててさ」
悠は、少しだけ顔を上げた。
「高校のときかな。家でずっと弾いてたよ。うるさかったけどね」
男性は軽く笑った。その笑みは、どこか懐かしそうだった。
「今はもう、やってないんですか?」
「どうだろうね。仕事が忙しいみたいで」
それ以上、男性は語らなかった。悠も詳しく聞くことではない気がした。
コーヒーを一口飲む。温かさが喉を通って、体の奥へと落ちていく。悠はギターを持ち直した。
「一曲、いいですか」
「うん。お願い」
男性は小さくうなずいた。
今まで何度も弾いてきた曲だった。けれど、その夜は少しだけ丁寧に弾いた。音を置くように、言葉を一つひとつ選ぶように。
歌いながら、悠は思う。この人は、何を聴いているのだろう。メロディなのか、歌詞なのか。それとも、ただ、かつての誰かを思い出しているだけなのか。
曲が終わると、男性はゆっくりと拍手をした。大きくはないが、しっかりとした音だった。
「いいね」
それだけ言って、少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
悠が頭を下げると、男性は軽く手を振った。
「体、気をつけてね」
そう言って、交差点の向こうへと歩いていった。振り返ることはなかった。
しばらく、その場に立ち尽くす。ギターケースの中には、相変わらずレシートが一枚あるきりだ。けれど、なぜかそれでいい気がした。
悠はコーヒーをもう一口飲んだ。さっきより少しだけぬるくなっている。ギターを構えて、次のコードを鳴らす。指先の感覚が、少しだけ戻っていた。
ネオンは変わらず光り、街も人もいつも通りに流れている。それでも、ほんの少しだけ、音がやわらいだ気がした。
その夜、悠のギターは、もらったコーヒーと同じように静かな熱を帯びていた。




