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#第二章 シャッター音の夜

 木曜日の夜は、水曜日よりも人が多い。理由はよく分からない。週末が近いからか、それともただの気のせいか。ススキノの交差点に立つと、ネオンの光がアスファルトに滲んで、街全体が少し酔っているように見えた。

 この場所で弾き語りをしていると、人の流れの種類がだんだん分かるようになる。急いでいる人、酔っている人、誰かを待っている人。そして、観光客。その夜、遠くから聞こえてきたのは、明らかに地元ではないテンションの笑い声だった。

「ねえ、あれ見て!」

 制服姿の高校生が、五、六人。修学旅行生だろう。冬の札幌は、その季節になると本州の学生で少しだけ賑やかになる。悠が歌っているのを見つけると、彼らは信号を渡ってそのまま近づいてきた。

「すごーい! 路上ライブじゃん!」

「えっYouTuber?」

 スマホが一斉に向けられる。まだ何も言っていないのに、もう撮影が始まっていた。

「写真いいですか?」

 一応は断りを入れられたが、すでにシャッター音は何回も鳴っている。悠は苦笑いして、ギターを軽く鳴らした。

「君たち修学旅行?」

「はい。埼玉から来ました。一曲聞かせてもらっていいですか?」

「じゃあ、一曲だけ」

「えー、やった!」

 誰かが流行りの曲のタイトルを叫んだ。正直、あまり弾きたくない曲だったが、この場の空気にはちょうどいい気もした。

イントロを弾き始めると、さっきまで騒いでいた声が少しだけ静かになった。ネオンの光の中で、スマホの画面だけが白く浮かんでいる。歌いながら、悠はふと思った。この子たちにとって、この夜はきっと特別な思い出になるのだろう。札幌のネオン、冷たい空気、そして、たまたまそこにいた弾き語りの青年。

 自分も高校の修学旅行で、似たような夜を歩いた気がする。ただ歩いているだけで、世界が少し広くなったような気がした夜。

曲が終わると、拍手と歓声が一斉に上がった。

「すごい!」

「もう一曲!」

 誰かがそう言ったが、先生らしき人の声が遠くから響いた。

「おーい! 集合だぞ!」

「あ、やばい!」

 彼女らは慌ててスマホをしまいながら、最後にまた数枚の写真を撮った。一人の女子生徒が、小さく会釈をする。

「ありがとうございました。がんばってください」

 それだけ言って、みんな走っていった。

交差点の信号が変わり、人の流れがまた動き出す。さっきまでの賑やかな空気は、もうどこにもなかった。ネオンは相変わらず光っていて、呼び込みの声も変わらない。ススキノの夜は、誰かの思い出なんて気にしないのだ。

 ギターを抱え直し、悠は次のコードを鳴らした。さっきのシャッター音が、まだ少しだけ耳に残っている。あの子たちが、いつか大人になってこの街に来ることがあるのだろうか。もしそのとき、同じ交差点に誰かが立っていたら、その人はどんな歌を歌っているのだろう。

 悠は小さく息を吐いて、次の曲を始めた。名前も知らない誰かの「がんばってください!」という声だけが、夜の底に微かに残っていた。


「がんばってください!」

 その言葉を不意に思い出しながら、悠は翌日、大学の中庭にいた。昼下がりのキャンパスは、どこか気だるい空気に包まれている。

 講義と講義の合間の時間。中庭のベンチには、まばらに学生が座っていた。悠は自動販売機の前で小銭を探していた。

(……あと十円)

 ポケットをひっくり返したが、出てきたのはレシートとくしゃくしゃの紙切れだけ。肝心の十円玉は見当たらない。

「どうぞ」

 横から声がした。振り向くと、見たことはあるけど、名前も知らない女子学生が一人、手のひらを差し出していた。そこには十円玉が一枚。一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「足りなさそうだったから」

 当たり前のように彼女は言う。

「あ……ありがとう」

 十円玉を受け取るとき、指先が少しだけ触れた。それだけで、妙に現実へと引き戻される。ボタンを押すと、ガコンと音がして缶コーヒーが落ちた。それを取り出し、もう一度彼女を見る。

「後で返すよ」

 そう言うと、彼女は小さく首を振った。

「いいよ、別に。その代わり――」

 彼女は少しだけ笑った。

「今度、歌ってるとこ見せてよ」

 一瞬、言葉の意味が繋がらなかった。

「え?」

「ススキノで歌ってるんでしょ? 噂になってるよ」

 あっさりとした言葉に、悠は驚いた。

「なんで知ってるの」

「この前、見かけた友達がいるって言ってたから」

 特別なことではないように彼女は答える。悠は少しだけ言葉に詰まった。

「……あんまり、上手くないけど」

 つい、そんな言葉が口をついて出る。彼女は少しだけ首をかしげた。

「歌やギターが上手いかどうかは、よく分かんないけど。でも、実際に歌っているところ、見てみたいな」

その一言が、妙に胸に引っかかった。「ちゃんと」。上手いとか、すごいとかではない。ただ、それだけ。彼女の軽い口調とは裏腹に、その言葉は思っていたよりも深く残った。

 悠は何も言えずに、缶コーヒーを開けた。プシュ、と小気味よい音がする。少しだけ苦い匂いが鼻をくすぐった。

「じゃあね」

 彼女は手をひらひらと振って、そのまま歩き出す。

「あ……」

 呼び止めようとして、やめた。名前を聞こうと思ったが、タイミングを逃してしまった。確かゼミは一緒だったはずだ。そのまま、彼女の背中が遠ざかっていく。

(……まあ、いいか)

 小さく呟く。けれど、嫌な感じはしなかった。むしろ、身体が少しだけ軽くなるような感覚。缶コーヒーを一口飲む。苦い。でも、悪くない。

「ちゃんと歌ってた、か」

 その言葉を、頭の中で繰り返す。評価ではない。けれど否定でもない。ただ、事実として受け取ってくれた。それが今の悠には、妙にしっくりきた。

遠くで、さっきの彼女が友達と合流しているのが見える。彼女たちは笑い合い、もうこちらを見てはいない。それでも、不思議と今日は無性に歌いたくなった。理由は分からない。けれど、その気持ちだけは確かだった。

 悠は缶コーヒーを飲み干し、空になった缶をゴミ箱に放り込んだ。カラン、と軽い音が響く。それが、なぜか少しだけ心地よかった。


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