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#序章 弦を張る夜

 夜になる前の部屋は、やけに静かだ。

 家賃四万円のアパートは、広くはないが狭すぎるわけでもない。手書きされた『藤井悠』の表札は、心なしか少し汚れてきていた。

ワンルームの床に座ると、生活のすべてが手の届く範囲に収まっていることが分かる。ギターケース、本の山、洗いきれていないマグカップ、壁に立てかけた安い姿見。身長一八〇センチとやや高めな自分を映すには、その鏡は少し小さかった。

 テレビでは血液型占いが流れている。悠の血液型はO型だ。けれど、そういう分類が自分の何かを説明してくれるとは思っていない。

鏡の中の自分は、少し伸びた茶髪のミディアムヘアに、黒のニットを着ている。古着屋で買った安物だ。値札の数字よりも、誰かが一度着ていたという事実のほうが、なぜかしっくりきた。下はいつもデニムジーンズ。靴は履き慣れたアディダスか、古い黒のブーツ。こだわりがあるわけじゃない。ただ、これ以外になる理由も特にないのだ。

床に置いたギターを手に取る。弦を軽く弾くと、まだ少し音が鈍かった。スマホで時間を確認する。あと一時間もすれば、ススキノに人が増え始める。

大学は文学部だ。授業には出たり出なかったりする。村上龍の小説や伊坂幸太郎の短編を読んでいると、講義よりもよっぽど現実に近い気がしてしまう日がある。

「人間って、こんなに面倒くさいのか」

 そう思いながらページをめくると、少し安心した。面倒くさいのは自分だけじゃないらしい。

将来のことは、ちゃんと考えているつもりだ。真面目に働く。普通に就職して、ちゃんとした生活をする。それが間違っているとは思っていない。

 でも、音楽のことを考えると、少しだけ息が浅くなる。ローリング・ストーンズやビートルズの古いライヴ映像を見ているとき。ニルヴァーナの歪んだ音をイヤホンで聴いているとき。尾崎豊の声が夜に滲んでくるときや、スピッツやフジファブリックの歌詞がふいに胸に引っかかるとき。「このままでいいのか」と思ってしまう。

 答えは出ない。出ないまま、日付だけが進んでいく。

生活は、なんとか回っている。短期のバイトを入れ、足りない分は弾き語りで補う。ギターケースに入るお金は安定しない。ゼロの日もあれば、なぜか少し多い日もある。安定していないのに、なぜか続けてしまう。

実家は札幌から車で一時間くらいのところにある。中堅都市、としか言いようのない街だ。親は普通に働いていて、犬が一匹いる。名前はクロ。帰ると無駄にしっぽを振ってくる。

 たまに母親から連絡が来る。「ちゃんと食べてるの?」とか「風邪ひいてない?」とか。就活の話は、まだあまりされない。されないことが、逆に少しだけ怖かった。

ギターの弦を張り替える。新品の弦は、やけに硬くて、やけにまっすぐだ。指先で軽く押さえると、きれいな音が鳴る。少しだけ、世界が整う気がする。

 どうして弾き語りなんてしているのか。考えたことは何度もある。音楽で食べていきたいわけじゃない。でも、音楽から離れる理由も見つからない。誰かに聴いてほしいのかもしれないし、ただ自分が聴きたいだけなのかもしれない。どっちでもいい気もした。

黒のパーカーを羽織り、ポケットにピックを入れ、財布を確認する。中身はあまり入っていない。

 ギターケースを持ち上げると、少しだけ重かった。昨日の小銭と、折れかけたレシートが入っている。

ドアを開けると、冷たい空気が流れ込んできた。階段を降りながら思う。今日はどんな人に会うんだろう。何も起きないかもしれないし、何かが少しだけ変わるかもしれない。

 それでもいい。水曜と木曜の夜だけは、まだ何者でもない自分でいられる気がするから。

交差点へ向かう足音が、今日も夜に溶けていく。


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