#第一章 説教と一万円
水曜日の夜は、いつも風が強い気がする。春は特にそうだ。
理由は分からない。ただ、ススキノの交差点に立ってギターを構えると、ネオンの隙間を縫うように冷たい風が吹いて、指先の感覚を少しずつ奪っていく。
アンプは使わない。声とギターだけでは雑踏に負けてしまうが、それでもいい。すべての人に届かなくていい。誰か一人に、引っかかればいいのだ。
三曲目を終えたあたりで、目の前に影が落ちた。
「今の、オリジナル?」
声がしたのは、すぐ近くだった。
驚いて顔を上げると、スーツ姿の男が立っていた。歓迎会か飲み会の帰りなのか、ネクタイを少し緩めたその顔は赤く、酒が入っているのが一目で分かる。年齢は三十代後半くらいだろうか。
「あ……はい」
悠が戸惑いながら答えると、男は腕を組み、じっとこちらを見据えた。
「下手だな」
はっきりと言い放たれた。一瞬、言葉が詰まる。予想していなかったわけではないが、実際にぶつけられると、やはり心に刺さる。
男の肩は少し前に落ちていたが、足取りは意外なほどしっかりしていた。
「大学生?」
唐突な質問だった。
「まあ、そんな感じです」
曖昧に答えると、男は「うんうんと」大きくうなずいた。正直、早くいなくなってくれないかなと思っていた。
「大学生がいい身分だな。まあ、若いっていいなあ」
「何年生?」
「四年です」
「ふーん。就職は?」
「いや、まだ特には」
なんでこんな初めてあった男に面接のようなことを聞かれなきゃいけないのか少し腹立たしかった。悠は視線をギターに落とした。
「ひとつ言わせてもらってよいかな」
その一言で、だいたい話の行き先が見えた。説教したいだけなのだろう。
「俺さ、昔はギターやりたかったんだよ」
男は笑った。その笑い方は、少しだけ苦い。
夢、現実、責任、社会。聞き慣れた単語が、ネオンよりも安っぽく並んでいく。悠は適当に相槌を打ちながら、頭の中で次のコード進行をなぞっていた。
「音楽で食っていくってのはな、甘くないぞ。今のうちにちゃんと考えとけ」
本当にうるさいなと思った。けれど、さっきまでと違い、不思議と腹は立たなかった。この人は俺を否定したいわけじゃない。ただ、自分の話をしたいだけなのだ。
「……すみません」
反射的にそう口にすると、男はふっと表情を和らげた。
「簡単に謝るなよ。でもさ、やめないんだな」
その言葉に、少しだけ心が引っかかる。
「え?」
「いや、普通さ、今みたいな感じだったら、すぐやめるだろ」
その通りだった。誰にも聴かれない。反応もない。意味があるかも分からない。やめる理由はいくらでもある。
「……まあ、やめてもいいんですけど」
自分でもよく分からない答えが口をついて出た。
「なんか……とりあえず、もう一曲くらいは」
それを聞いて、男は少しだけ笑った。
「いいじゃん」
短くそう言うと、男は急に黙り込んだ。財布を取り出してしばらく中を見つめたあと、何も言わずに何かをギターケースの中へ落とした。
「頑張れよ。説教料だと思え」
ぱさり、と軽い音がした。一枚の紙幣。それも――一万円札だった。
「えっ、いやいや、そんな……」
悠が慌てて声を上げるが、男はひらひらと手を振った。
「いいから。さっきの『下手』ってやつのな」
軽口のような言い方だったが、どこか本気だった。
「……ありがとうございます」
悠は深く頭を下げた。男はもう興味を失ったように視線を外し、振り返らずに言った。
「で? 次、やるんだろ」
その一言が、妙に背中を押した。
「……はい」
小さく答える。男はそれ以上何も言わず、人混みの中に消えていった。
悠はしばらくその場に立ち尽くしていた。ギターケースの中の一万円札。現実感がない。けれど、確かにそこにある。
(なんだこれ……)
そう思いながら、ふと気づく。さっきよりも、手の震えが少しだけ収まっていることに。
ゆっくりとギターを構え、さっきよりも少しだけ深く息を吸う。
(もう一曲)
自分で言った言葉が、今は少し違う意味に響いていた。ただの続きじゃない。ちゃんと「やる理由」ができた気がした。
弦に触れる指は、まだぎこちない。それでも、さっきよりも迷いはなかった。音を鳴らす。今度は、ちゃんと夜に届く気がした。
ケースの中で、一万円札が他の小銭とは違う「音」を立てた気がした。それは、物理的な音というより、何かもっと重たい響きだった。
男が語った説教の内容は、もうほとんど思い出せない。けれど、その一万円の重さだけは、指先に残っていた。
弾き語りを続けながら、考える。夢を諦めた人は、夢を追う人に説教をする。けれど、もし彼の中に何も残っていなかったら、一万円なんて出てこないはずだ。
歌い終えたあと、交差点の信号が青に変わった。人の流れが一気に動き出す。悠はギターを抱え直し、次の曲を始めた。
少しだけ、声を大きくして。




