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プロローグ

# プロローグ

ススキノの夜の風は、思っていたよりも静かだった。

 送別会シーズンの騒がしいはずの街の真ん中で、ふと音が引いていく瞬間がある。ネオンは相変わらず瞬いているのに、人のざわめきだけが遠のいて、自分の呼吸だけがやけに近くなる。

藤井悠ふじい・ゆうは、歩道の縁に腰を下ろしていた。

 コンクリートの冷たさが、じわりと身体に伝わる。昔は気にも留めなかった感触なのに、今はそれがやけに現実を引き戻す。

 ここは、よく知っている場所だ。何度も立って、何度も歌って、何度も通り過ぎてきた場所。

 ――だったはずの場所。

視線を上げると、ビルの並びが少しだけ変わっているのが分かる。見慣れていたはずの看板は消え、代わりに新しい光がそこにある。知らない店、知らない名前。それでも、夜の匂いだけは変わらない。湿った空気と、ほんの少しの冷たさ。あの頃と同じだ。

目の前を人が通り過ぎていく。誰も立ち止まらない。誰も、こちらを見ない。

 当然だ、と思う。今ここには、ギターもないし、歌もない。ただのスーツ姿の男が、道端に座っているだけだ。

 それでも――。

 通り過ぎるカップルが会話をしている。

 「さっきの弾き語りの人うまかったね」

 「ああ、本格的だったなぁ。プロになるかもね」

 そんな会話を聞きながら、耳の奥で、音が鳴る。弦を弾く、乾いた響き。少し遅れて、声が重なる。上手くはなかった。声も細くて、すぐに枯れた。それでも、あの頃は確かに、歌っていた。

(ここで、歌ってたんだよな)

小さく息を吐き、ポケットに手を入れる。指先が触れるのは、スマートフォンと鍵だけだ。昔はそこに、ピックが入っていた。何枚も、無造作に。

 昼間、この場所を歩いた。人の流れに紛れて、何でもない顔をして。あの頃は気づかなかったけれど、昼の街はひどく普通だった。ただの歩道で、ただの交差点で、誰にとってもただの通り道だ。

 けれど夜になると、ここは変わる。光が集まり、人が足を止め、音が生まれる。そのとき、不意に風が抜けた。

やわらかい夜風。視界の端で、何かが揺れる。ひらり、と。

 淡い色の羽が、街灯の光をかすめた。小さな蝶。夜には似つかわしくないほど、静かに舞っている。ゆっくりと、弧を描くように。

 そして――何事もなかったかのように、ネオンの向こうへ消えていく。

悠はほんの一瞬だけ、その軌跡を目で追う。

(……アゲハ、か)

 名前が、ふと浮かぶ。理由は分からない。ただ、そう思った。

 もう、そこに姿はない。けれど――不思議と、寂しさはなかった。過去が消えたわけじゃない。ちゃんと、通り過ぎていっただけだ。そしてそれは、どこかでまた、別の形で続いていく。

悠はゆっくりと前を向く。あの頃の自分は、その中にいた。ギター一本で、何者でもないまま、それでも何かになれると信じて。

 夕暮れの色も思い出す。空がゆっくりと沈んでいく時間。街が夜へと切り替わる、ほんのわずかな境目。あの時間にギターを構えると、不思議と怖さが消えた。まだ誰もいない場所に、自分の音だけが先に立ち上がる。始まりは、いつもそこだった。

そして今――。

 悠は静かに立ち上がる。夜の中に視線を投げる。

 あの頃の自分は、もうここにはいない。それでも、確かにここにいた。その事実だけが、消えずに残っている。

あの夜に置いてきたはずの歌は、形を変えて、まだどこかで鳴っている。

 たとえば、この街のどこかで。あるいは、誰かの声で。

 ――あるいは、これから始まる物語の中で。

「その頃の俺は、まだ“ここで歌い続ける”ことに、何の疑いも持っていなかった」

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