#第六章 速弾きの夜
その男は、突然現れた。
木曜日の夜。藤井悠が三曲目を終えたあと、少し離れた場所で別のギターの音が鳴り始めた。
最初は気にしていなかった。路上には、たまに同じような弾き語りが現れることがある。けれど、その音はすぐに耳に引っかかった。
速い。無駄に速い。ペンタとは違うスケールをなぞるようなフレーズが、ネオンの中でやけに目立つ。指が滑るように動いて、観客の視線を一気に集めていた。
(うまいな)
正直にそう思った。テクニックだけなら、自分よりずっと上かもしれない。コード進行も展開も、派手で分かりやすい。男の周りには、少しずつ人だかりができていった。
誰かがスマホを構え、「すごい」と声を上げる。悠は少しだけ視線を外した。ギターを構え直して、次の曲を始める。いつもの、自分の曲。けれどその音は、さっきより少し小さく感じられた。
(比べる必要なんてない)
そう思いながらも、耳はどうしても隣の音を拾ってしまう。速弾き。アレンジされたヒット曲。分かりやすい盛り上がり。対して、自分の音は静かで、地味だ。
(これでいいのか……)
指が、ほんの少しだけ迷う。曲が終わると拍手はあったが、さっきより少ない気がした。
隣の男は、観客に向かって軽く手を振っている。余裕のある笑顔だった。ふと、視線が合った。男はにやっと笑って、こちらへ近づいてきた。
「兄ちゃん、いいギター使ってるね」
軽い口調だった。
「ありがとうございます」
「オリジナル?」
「はい」
「へえ。良いね、自分のスタイルがあって」
興味があるのかないのか分からない返事だった。男は自分のギターを軽く鳴らした。
「俺、なんでも弾けるよ。最近のヒット曲も、昔のロックも」
そう言って、いくつかのフレーズを流れるように弾いてみせる。確かにうまい。観客がまた少し集まってくる。
「こういう曲のほうが、絶対ウケるでしょ?君ももう少しフレーズやリフを意識して弾いたらどうかな」
悪気はなさそうだった。ただの事実として言っている。悠は少しだけ考えた。
正しい。たぶん、それは正しいのだ。分かりやすいほうが、人は足を止める。知っている曲のほうが、場は盛り上がる。それでも。悠は考える。
「……そうかもしれないです」
一度、肯定した。男は満足そうにうなずく。
「でしょ?」
「でも」
悠は続けた。
「俺、自分の曲でやりたいんで」
口にした瞬間、少しだけ鼓動が速くなった。男は一瞬だけ黙り、それからふっと笑った。
「いいね、そういうの」
からかっている感じではなかった。むしろ、少しだけ面白がっているようだった。
「じゃあ、頑張りなよ。オリジナル」
軽く手を上げて、男は元の場所に戻っていく。ヒールとは違う、スニーカーの足音が遠ざかる。悠はその場に立ったまま、自分のギターを見下ろした。
(オリジナルでやる)
言葉にしたことで、何かが少しだけ重くなる。逃げ道が、ひとつ減った気がした。
隣ではまた、派手なフレーズが鳴り始める。観客の歓声も混ざる。悠はゆっくりと息を吸った。ギターを構える。次の曲は、まだ書きかけの未完成な曲にした。途中でつまずくかもしれないし、うまくいかないかもしれない。それでも、弾く。
最初のコードを鳴らす。音は小さい。けれど、さっきより迷いはなかった。
ネオンの中で、二つの音が重なる。派手な音と、静かな音。どちらが正しいかは分からない。たぶん、どちらも間違ってはいないのだ。
それでも。
悠は、この三年間で書き留めた自分の音を選んだ。きっとそれは、ありのままの自分を映し出したいという切実な願いからなのかもしれない。




