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♯アンコール1 ネオンの向こう側

 冬の終わり。春の訪れの三月。

 雪解け水が、アスファルトの裂け目に細い銀の線を引いていた。

藤井悠は、久しぶりにススキノの交差点に立っていた。

 出張の帰り道、ほんの少しだけの寄り道。黒のビジネスコートのポケットに手を入れ、雑踏を見渡す。かつてと決定的に違うのは、その肩にギターケースがないことだった。

(変わったな……)

 自嘲気味に、静かに笑う。

 目の前の景色は、ほとんど変わっていない。無関心に明滅するネオン。欲望と孤独を飲み込んで流れる人の波。どこか軽薄で、けれど刺すように冷たい夜の空気。

 けれど、自分の立ち位置が違う。かつてはこの濁流の中に「立つ側」だった。今はただ、「通り過ぎる側」の一人に過ぎない。それだけの違いが、宇宙の距離ほども遠く感じられた。

ふと、足が止まる。

 あの場所――自分が魂を削るようにして歌った、あの角。

 今は別の誰かが立っていた。若い男が、必死にギターを抱えている。コードを押さえる手つきはまだぎこちなく、声も細い。けれど、その響きは真っ直ぐに夜を貫こうとしていた。

悠は少し離れた場所で腕を組み、静かに耳を傾ける。

(懐かしいな……)

 うまくいかない夜の焦燥。誰にも届かない虚しさ。それでも、ここに立ち続けることでしか自分を証明できなかった、あの切実な時間。

 歌が終わり、パラパラと小さな拍手が起きる。照れたように頭を下げる青年の仕草に、かつての自分を重ねて鼻の奥が少しだけツンとした。

夜の街を彩る色は、少しだけ変わっていた。新しい看板、新しい店。けれど、湿った空気の匂いだけは変わらない。

 悠はゆっくりと歩き出した。スーツの袖を整える仕草は、もう完全に大人のそれだ。

 すれ違うカップルの会話が聞こえる。

「今の人上手だったね」

「ああ。プロみたいだったな」

 交差点の手前。人だかりができていた。

 そこから聞こえてきたのは、明らかに「場」を支配する力強い音と歌声。

(……まさか)

 人の隙間から覗き込んだ悠は、目を見開いた。

「……蒼」

そこにいたのは、玉木蒼だった。

 数年前よりも声に太い芯があり、リズムは岩のように安定している。何より、その瞳には一点の曇りもない。ギターのヘッドには、あの時手渡したクリップチューナーが付いている。

「今の曲、オリジナルですか?」

「はい、自分で書いてます」

 観客の問いに、蒼は誇らしげに答えた。

「……久しぶり」

 悠が声をかけると、蒼は一瞬、誰だか分からないという顔をした。そして、数秒。

「……悠さん!? え、マジで……」

 次の瞬間、あの頃と変わらない無邪気な笑顔が弾けた。

「うわ、久しぶりっす! 元気だったんすか!確か……悠さん大学卒業前の三月に頼んでセッションさせてもらった以来ですよね」

「蒼……お前、すごいな。あの頃言っていた通り、やってるじゃん、オリジナルも」

「はい。悠さんに言われた通り、やってます。『やったほうがいい』ってあの夜に言われたこと、ずっと守ってるんすよ」

 蒼の言葉に、悠の胸が熱くなる。自分の投げた小さな石が、まだこうして誰かの波紋として続いている。

「悠さんは……今も歌ってるんですか?」

「たまに、かな。仕事もしながらね。職場の施設で弾くこともあるし」

「いいですね。続けてるってことですよね」

 迷いのない蒼の肯定に、救われる思いがした。完全にやめたわけじゃない。形を変えて、自分の中に在り続けているのだと。

蒼は一度仕舞いかけたケースから、再びギターを取り出した。ヘッドに装着されたクリップチューナーを、指先で軽く弾く。小さな液晶が、夜の闇に青く浮かび上がった。ネックの先には、あの傷だらけの黒いカポタストが、今も誇らしげに引っ掛けられている。どちらも、悠がかつて手放し、蒼が引き継いだ「記憶」そのものだった。

「それ、まだ使ってるんだな」

 悠が笑うと、蒼は弦を軽く鳴らして頷いた。

「もちろんです。これ、めちゃくちゃ縁起がいいんですよ」

「ただ古いだけだろ」

「いやいや、悠さんがこれで数え切れないほど歌ってたじゃないですか」

 蒼の無邪気な笑い声に、悠は目を細めた。それは単に街灯が眩しいからだけではなかった。溢れかえる人混み、雨上がりのアスファルトの匂い、凍てつく冬の歩道、掌で温めた缶コーヒー、深い紫色の面影、そして情けなく歌えなかった夜。そんな断片的な記憶が、一瞬だけ胸を通り抜けていった。

ふと、コートのポケットに手を入れる。指先に触れたのは、くしゃくしゃに丸まった一枚のレシートだった。ポケットに紙屑を突っ込む癖は、昔から変わっていない。昨日、近所のスーパーで買い物をした時のものだ。牛乳、ヨーグルト、食パン、カレールウ。そして――『紙おむつ Mサイズ』。

 悠はそれを眺め、思わずクスッと笑った。かつて、このポケットを占領していたのは、コンビニのコーヒーや、安いハイボール、あるいは予備のギター弦のレシートばかりだった。今はもう、ギターに触れることさえなく一日が終わる夜が数え切れないほどある。けれど、不思議なことに、あの頃のように「何者かにならなければ」と自分を追い立てる焦燥感は、もうどこにもなかった。

「じゃあ、久々にやりますか?」

「えっ?」

 蒼が誘うようにコードを鳴らす。悠はレシートをポケットの奥に戻し、静かに息を吐き出した。

「……そういえば、お前のギター、一度も触ったことがなかったな」

 自分の声が、昔よりずっと穏やかで、深く響くことに驚く。蒼からギターを手渡され、使い込まれた革のストラップを肩にかけた。ゆっくりと、C - G - Am - Em。基本的なコードをなぞり、その響きを耳の奥に刻んでから、丁寧に蒼へと返した。

「……今度、自分のギターを持ってくるよ」

「はい! 楽しみにしてます。約束ですよ」

街の風は冷たかったが、今の悠にはそれが心地よかった。

「蒼。……ここは、いい場所だからさ。このまま続けてくれ。任せたわ」

 軽く、けれど確かな重みを込めて言う。蒼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに深く、強くうなずいた。

「はい。任せてください。しっかり守りますから」

背中越しに、再び蒼の歌声が響き始める。さっきよりも少しだけ、強くなった音。

(大丈夫だな……)

 自分がいなくても、この場所の火は絶えない。


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