#アンコール
悠がざわめく街の外へと歩き出した、その時だった。
視界の端を、細いヒールを鳴らした女性が通り過ぎた。夜に溶けるような、懐かしい香り。一瞬だけ見えた、大人びた横顔。
(……元気かな)
名前は口に出さない。もうあの人ではないかもしれない。けれど、それでよかった。あの人は、あの不透明で、けれど美しかった「あの時間」の中にいるからこそ意味がある。
「最後まで考えて選びなよ」
あの夜の、唇に触れた一瞬の温度。あの言葉があったからこそ、自分は今、この場所に立っている。
ポケットの中でスマホが震えた。
『美咲:仕事終わった?』
『悠:今、ススキノ寄ってた』
『美咲:え、懐かしいね(笑)遅くなる?』
『悠:いや、そろそろ帰るよ』
『美咲:気をつけてね。私も今日は図書館昼までだったから、もう帰ってるよ。伊織と、パパが帰ってくるの待ってる』
短いやり取りが、帰るべき場所を鮮明に映し出す。
ふと、左手の薬指に触れる。そこにあるリングの重みが、今の悠の誇りだった。
もう一通、メッセージが届く。
『伊織、もう眠そう』
「……急ぐね」
小さな掌が映った写真も送られてくる。
自然に指が動き、返信を打つ。
夜の街は変わらず賑やかなのに、自分の時間は確かに、豊かに進んでいる。
ネオンの外へ。誰かが待つ温もりの中へ。
(帰るか)
小さく呟き、最後にもう一度だけ交差点を振り返った。
歌う若者、流れる光、交差する人生。
本音を言えば、少しだけ、後悔はあるかもしれない。「あの夜」をもう少し続けていたら、という甘い感傷が。
けれど、自分は確実に変わった。そして、それ以上に大切なものを手に入れた。
(シングアソング、か)
歌え。あの夜だけじゃない。
仕事の中で、誰かを支える中で、妻や可愛い娘と笑い合う日常の中で。
悠の足取りが速くなる。
背後で響く蒼の歌声は、もう過去の残響ではない。
今を生きる、現実の鼓動だった。
あの夜に置いてきた歌は、今も確かに、この胸の中で鳴り続けている。
最近、仕事が忙しくてなかなかギターは弾けていない。錆びた弦を次の休みに張り替えて家族に聴かせたくなった。最初は童謡から。そしてあの日のオリジナルを。二人はどんな顔するかななんて想像しながら。
「今行く」
もう一度呟いて、悠は眩い光を背に、愛する家族の待つ家へと走り出した。
――歌おう。次は、君のために。
(完)




