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#エピローグ 冬の入口で

 十一月の空は、抜けるように高かった。そして、冷たい風が街を吹き抜けていた。初雪にはまだ早いはずなのに、夜風はすでに冬特有の、研ぎ澄まされた金属のような匂いを含んでいる。悠は一週間ぶりにススキノの交差点へと足を向けていた。

 弾き語りをやめてから、わずか一週間。それだけのことなのに、街の放つ光が以前よりずっと遠い世界の出来事のように感じられる。ススキノの夜は相変わらず騒がしく、明るい。客を引く呼び込みの声も、酔客の無邪気な笑い声も、何一つ変わっていない。変わったのは、自分の方だった。ついこの間までその喧騒の真ん中にいたことが、遠い昔の記憶のように思える。

交差点の近くまで歩くと、寒空を切り裂くような細い歌声が聞こえてきた。蒼だった。

サンバーストのアコースティックギターを抱え、白い息を吐きながら歌う彼の姿があった。以前より少しだけ声が太くなり、真っ直ぐ前に出るようになっている。立ち止まる人はまだ少ない。それでも蒼は、誰に媚びることもなく、しっかりと前を見据えて歌っていた。

少し離れた場所で立ち止まり、そのまま二曲ほど耳を傾けた。サビ前で少しリズムが走る癖も、高音域で喉が硬くなる弱点も、以前のままだ。けれど、不思議と前よりずっと良い音に聞こえた。歌の巧拙というよりも、そこに立ち続けている者の「意志」が音に宿っている。そんな気がした。

曲が終わり、蒼が人影のまばらな歩道を見渡した。ふと、彼は悠の存在に気づく。

「あ……悠さん」

驚きに目を見開いた後、蒼はすぐにいつもの無邪気な笑顔を見せた。

「お疲れ様っす!」

「うん。頑張ってるね」

「まぁ、ぼちぼちです」

蒼は照れくさそうに頭をかいた。以前の悠なら、「もっとこうした方がいい」「コードの押さえが甘い」と、何かしら先輩風を吹かせていたかもしれない。けれど、その夜は何も言う気になれなかった。言うつもりはなかった。

代わりに悠は、コートのポケットに手を入れた。指先に触れたのは、長年使い込んできたクリップチューナーと、黒いカポタスト。路上で歌うときに、いつもあった相棒たちだ。悠はそれを、蒼の前へと差し出した。

「え?」

「使うか?」

蒼が戸惑いの表情を浮かべる。

「いや、でも……これ、悠さんの大事なやつじゃないですか」

「もう、使わなくなるかもしれないから。俺は他にも予備があるし。チューナーも、いつまでもスマホのアプリでやってちゃ格好がつかないだろ」

口にした瞬間、胸の奥を小さな棘で刺されたような痛みが走った。

(かもしれない)

まだ、そんな曖昧な言い方しかできない自分がいた。

蒼は、宝物を扱うような手つきで、ゆっくりとそれを受け取った。

「……ありがとうございます」

チューナーをじっと見つめながら、彼は小さく笑った。

「なんか、悠さんって感じがしますね」

「なんだよ、それ」

「いや、なんとなく。この使い込まれた感じが、歴史を物語ってるっていうか」

二人で声を合わせて笑った。吐き出した白い息が、ネオンの光の下で薄く混ざり合い、消えていく。蒼はギターを持ち直し、真剣な瞳で言った。

「また、機会があったらセッションしてくださいよ」

すぐには答えられなかった。視線の先では、タクシーが凍りかけた水たまりを跳ね飛ばし、アスファルトに淡い光の波紋を広げている。遠くで誰かの笑い声が響いた。

この街で歌い続けた夜たちが、走馬灯のように脳裏をよぎる。

理不尽に説教をしてきた酔っ払い。熱心に耳を傾けてくれた修学旅行生。ぶつかり合ったカップルや、足を止めた親子連れ。

アゲハ。そして、美咲。

どうしようもなく情けなくて、けれど、ほんの少しだけ自分に優しかった夜たち。

胸の奥にある冷たい空気を一度、ゆっくりと吐き出した。

「……そのうちな」

蒼は満足げに笑った。

「約束っすよ」

約束。その言葉に、静かに苦笑する。

「オリジナルが完成したら、聴かせろよ」

「はい、必ず」

かつての自分は、約束を増やすことこそが夢を繋ぎ止める手段だと思っていた。けれど、今は違う。何かを終わらせることも、前へ進むための大切な通過点なのだ。

「じゃあ、俺はもう行くわ」

「はい! お疲れ様です! チューナー、ありがとうございました。大事にします」

悠は軽く手を挙げ、その場を離れた。背中越しに、蒼の歌声が再び響き始める。振り返ることはしなかった。

ただ、鋭い夜風を肺いっぱいに吸い込む。

鮮やかなススキノの光は、今日も滲むように美しかった。

それでももう、この街に置いていくものと、これから自分の手で持っていくものを、少しだけ切り分けられたような気がした。

悠の足取りは、いつの間にか確かなものに変わっていた。

 札幌の朝はもう鋭く冷えていて、吐き出す息が白く形を持っては消えていく。


翌日、陽光が降り注ぐ大学のキャンパスを歩いていた。

 肩にあるのは、あの重いギターケースではない。代わりに、卒論に向けての資料と就職に向けての関係書類の下書きが詰まった、少し角の張ったトートバッグ。

 例年なら十一月まで弾き語りは続けていた。ただ、今年は十月のこの前の演奏で最後だと決めていた。もう弾き語り目的で訪れることはないだろう。

 足元でかさりと乾いた音を立てる落ち葉。雪も降りそうだ。

(現実、だな)

 ふと思って、少しだけ口角を上げた。逃げていたわけじゃない。けれど、こうして真正面から「日常」と向き合うのは、生まれて初めてのような気がしていた。

教室へ向かう途中、ポケットのスマホが震える。画面に躍ったのは、見慣れた名前。

『美咲:今日、空きコマある?』

『悠:あるよ。どうした?』

『美咲:ちょっと話したいことあるんだけど』

『悠:じゃあ、図書館の前でいい?』

『美咲:うん、行く』

そっけないほど短いやり取り。それなのに、指先から伝わる振動がどこか特別で、気恥ずかしく、心地よい。この前のご飯の約束かなと考えていた。

図書館前のベンチ。

 冬の気配を避けるように、白いニットにチェックのマフラーを巻いた美咲が座っていた。

「寒いね」

「もう冬だもん」

 当たり前の会話。けれど、ススキノの喧騒の中で交わした言葉よりも、ずっと深く胸に染み込んでくる。

少しの沈黙。気まずさは、もうどこにもない。

「この前さ。……ほんとに、よかったよ」

 美咲がぽつりと呟く。あの「最後の日」の歌のことだと、すぐに分かった。

「ありがとう。なんか……すっきりと終わったって感じ、したんだ」

「でも、終わりじゃなかったよね」

 その言葉に、悠は深くうなずいた。

「ねえ。また、歌う?」

 不意の問い。あの夜にも聞いた言葉。けれど、今の彼女の瞳にあるのは、未来を覗き込むような好奇心だった。

「うん。たぶん」

 曖昧だけど、確かな答え。

「たぶんって何それ」

 美咲が屈託なく笑う。

「でも、前よりずっといい『たぶん』だね」

沈黙の中に、言葉にならない確かな熱が宿る。

 悠は、薄い青色に染まった冬の手前の空を見上げた。

「俺さ……人と関わる仕事がしたいってずっと思っていた。教育とか、福祉とか、音楽とか。まだはっきりとは言えないけど」

 口にしながら、自分の言葉が輪郭を持っていくのを感じる。

「いろんな人が来て、笑ったり泣いたりしてさ。一瞬でも誰かの中に何かが届く。あの場所で感じた手応えを、今度は仕事にしたいんだ。なんとなくじゃなくて、自分で選びたい」

黙って聞いてくれている美咲の目を見ながら、悠は続けた。

「だから福祉施設の指導員になろうかなって。インターン内定したんだ」

美咲は口を挟まず、ただ真っ直ぐに悠の言葉を受け止めていた。

「いいね。似合ってると思うよ」

「そうか?」

「うん。だって悠くんは、最後まで人の声を『聴ける』人だから」

その一言に、悠は一瞬だけ言葉を失った。

 マフラーが風に揺れる。触れそうで触れない、けれどこれまでで一番近い距離。

「……ありがと」

これもまた、ひとつの「続き」なのだと悠は思う。

 夜じゃない場所。ギターを持っていない時間。それでも、あの路上の熱は、今の自分の中に血として流れている。

(シングアソング)

 心の中で、あの歌がリフレインする。

 歌え。これからも。どんな形になっても。そう言われているような気がした。

 悠は少し緊張しながら、美咲の顔を見ながら続けた。

「あのさ……もし良かったら」

「うん……」

「ススキノの弾き語りとかはないけど、ギターを弾くことあったら聴いてくれる?」

「もちろん」

 美咲は優しく笑った。

「あの、それで……理由はなくても、会ってくれるかな」

 照れたように下を向きながら

「……もちろんだよ」

 嚙みしめるように呟いた。

 お互い恥ずかしさを隠しながら、窓の乱反射する光のほうを眺めた。

「行くか」

 悠が立ち上がると、美咲も弾むように立ち上がった。

「前にも聞いたな、そのセリフ」

「そうだっけ?」

 可笑しそうに笑う彼女の手を、悠は自然に握った。どちらからともなく、指が絡まる。

恋人として、同じ方向へ。

「そういえば?話って?」

「……この流れなら、絶対分かるじゃん……」

 美咲はまた照れながら手を握り返して呟く。

 冬はもう、すぐそこまで来ている。けれど、繋いだ手のひらから伝わる体温は、驚くほど柔らかく、温かかった。

物語は、ここで幕を下ろす。

 けれど、その先にある彼らの「歌の続き」は、今、始まったばかりだ。

静かに。

 確かに。

 一歩ずつ、明日へと響いていく。


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