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#第二十四章 風の変わる場所と本の匂いの中で

 昼の大学は、夜の街とはまるで別の惑星のようだった。

 前にも感じていた。同じ時間が流れているはずなのに、耳に届く音も、鼻をくすぐる匂いも、肌に触れる空気の重ささえも違う。

悠は図書館の重い自動ドアをくぐった。

 少し暖かくなった空調の風。あいかわらずの紙とインクが混ざり合った、特有の乾いた匂い。

 誰かがページをめくる小さな音、遠くで響くペンの走り。その静かなざわめきが、今の悠にはやけに心地よく、そして鮮明に響いていた。

いつもと同じ流れで、カウンターで機械的に課題図書を返却し、用件を済ませる。

(……帰るか)

 踵を返そうとした、その時だった。

窓際の閲覧席。午後の柔らかな光が差し込む一角に、見覚えのある横顔があった。

(……あ)

 ページに視線を落とし、静かに座っているその姿。以前にも、まだ彼女の名前すら知らなかった頃にここで見かけたことがあった。あの時も、彼女は本に囲まれ、じっと何かを読み耽っていた。その凛とした静謐さが、なぜか強く印象に残っていたのだ。

(……美咲か)

 自然と足がそちらへ向かった。近づくにつれ、初めて図書館で会った時のように、胸の奥が少しだけ騒ぐ。話しかける特別な理由なんてない。けれど、今はそのまま通り過ぎるのも、何かが違う気がした。

「……あのさ」

 声を潜めて呼びかける。彼女が顔を上げ、一瞬驚いたように目を丸くした。けれどすぐに、その表情は春の雪解けのように柔らかく解ける。

「あ……お疲れ様。体調大丈夫?」

「うん。おかげさまで」

 穏やかな表情でこちらを見つめる彼女。ネオンの下で見るどの顔よりも、ずっと落ち着いていて、どこか確かな「体温」を感じさせる表情だった。

「図書館、来るんだね」

「課題を返しに。そっちは?」

「レポート。全然終わらなくて」

 美咲は手元の本を軽く持ち上げ、少し困ったように笑った。その仕草があまりに自然で、路上で出会う時とは違う、等身大の彼女がそこにいた。

「しっかりしてるんだね」

「普通だよ。前にも言ったでしょ」

 すぐさま返ってきた言葉に、二人で小さく笑い合う。図書館の静寂を壊さない程度の、密やかな共有。無理に言葉を埋める必要のない、穏やかな沈黙が流れた。

「……前もさ、ここで見たことあるんだ」

 ふと、悠は口に出していた。

「え? いつ?」

「まだそんなに名前も知らないとき。自動販売機でお金借りた後かな。ずっと本を読んでた。……ここが、似合ってるなと思って」

 最後の一言は、妙に恥ずかしくて飲み込んだ。けれど美咲は「よくいるから」と納得したように笑った。

「でも、声掛けてくれたらよかったのに」

「この前の……そっちと一緒。恥ずかしかった……」

 声を出さずに二人は笑った。

しばらくの間、二人はそのまま静かな時間を分かち合った。やがて、美咲がそっと本を閉じる。

「今日は? ……木曜日でしょ。この後、歌うの?」

その問いに、悠は一瞬だけ視線を落とした。そして、心の中で一つの決意を確かめるように答えた。

「……まあ、うん。そんな感じ」

「そっか」

彼女は深くは追求してこない。その絶妙な距離感が、今の悠には何よりもありがたかった。

「……たぶんさ。今日は、区切りっていうか。そんな感じの日になると思う」

「区切り?」

「うん。歌う日」

それ以上は言わなかった。けれど、美咲は悠の言葉を、その喉の奥にある決意ごと静かに受け取るように頷いた。

「……そっか。……頑張って」

 その声は、驚くほど柔らかかった。

「邪魔したね」

「全然。邪魔してないよ」

 その一言に救われ、悠は一歩、また一歩と離れていく。振り返ることはしなかった。

 けれど、背中に美咲の視線を感じていた。悠が立ち去った後も、彼女の手元のページはしばらく進まなかった。彼女の瞳は、図書館の出口へと向かう悠の背中を、ずっと静かに追い続けていた。

自動ドアを抜け、外に出る。

 窓から反射する昼の光が、網膜に白く焼き付いた。

 夜の街とは違う。けれど、この静かな場所と今日の夜は、自分の中で確かに繋がっている。

悠の足取りは、昨日よりも少しだけ軽かった。

 夜の向こう側へと踏み出すための勇気を、本の匂いの中で、確かに受け取っていた。


十月の終わり。

 札幌の夜は、もうはっきりと季節の境界線を越えていた。十月といっても終電を迎える頃には日付は十一月。北海道なら冬に限りなく近い。

 吐く息はまだ白く染まるほどではない。けれど、頬を撫でる風は夏のそれとは明らかに違っていた。軽く刺すような冷たさと、乾いた冬の匂い。季節が冬へと急ぎ足で向かっていることを、誰に教えられるでもなく、身体が本能的に察知していた。

藤井悠は、使い込まれたギターケースを肩にかけ、夜の街を歩いていた。

 いつもなら迷わず向かうはずの、あの交差点。水曜と木曜、執念のように立ち続けた「自分の場所」。けれど今日は、磁石が反転したように足が止まった。少し遠回りをするように、意図的に歩く方向を変える。

(……いいだろ、もう)

 誰に言い訳するでもなく、心の中で呟く。

 あの場所には、もう立たない。立てないわけじゃない。けれど、あの場所に「立ち続ける理由」が、自分の中で決定的に変わってしまったのだ。占いの女性のこと、条例のこと……それらは単なるきっかけに過ぎない。たぶん、自分の中の何かが、環境よりも先に変わってしまった。

ポケットに入れた指先が冷たい。

(終わるのか……)

 その言葉は何度も脳裏をよぎった。けれど、それは寂寥感を伴う「終わり」というよりは、「選ばなければいけない時が来た」という、静かな覚悟に近い感覚だった。

やがて、少し人通りの多い通りに出た。観光客が溢れ、ネオンは華やかだが、誰も足を止めなければそのまま流動的な景色の一部として消えていく場所。

(ここでいい)

 立ち止まり、周囲を見渡す。誰も自分など見ていない。それでいい。ここは「自分の場所」ではない。だからこそ、試されるのだ。場所の魔力ではなく、純粋に自分の音だけで、この奔流のような人波を止められるのかを。

ギターケースを足元に置く。アスファルトの感触が、いつもより硬く、冷たく感じられた。

 ファスナーを開ける乾いた音が夜に溶ける。中を覗くと、いくらかの小銭、折れたレシート、使い込まれたピック。何も変わっていないはずのそれらが、なぜか遠い過去の遺物のように見えた。

(ここで終わるのか、それとも――)

 答えはまだ、霧の中だ。けれど、今日は「逃げない夜」になることだけは分かっていた。

 ギターを取り出す。木の冷たさが指に伝わり、身が引き締まる。深呼吸を一つ。冷たい空気が喉を通り、肺を洗う。

そのまま、一曲目のコードを鳴らした。

 ぎこちないマイナーコードのアルペジオから入り、音は少しだけ硬かった。けれど、すぐに夜の空気に馴染んでいく。

 人は流れていく。誰も止まらない。それでもいい。

 二小節、四小節。歌い始める。声が空気に溶け、街のノイズと混ざり合う。

少しして、一人。また一人。

 足を止める人が現れる。その「空気の密度の変化」が、今の悠にははっきりと分かった。

(ああ、これだ……)

 場所じゃない。人でもない。ただ、音で繋がる。それだけでいい。

一曲目を歌い終えると、数人から小さな拍手が贈られた。それで十分だった。

 深く頭を下げた、その時だった。

「……お疲れ様」

 背後から届いた声に、心臓が跳ねた。振り向くと、そこに彼女がいた。

 高橋美咲だった。

 かつてゼミ仲間との飲み会の夜に出会い、少し照れたように「カッコいい」と言ってくれた彼女。そしてそのあとも何度か観に来てくれている彼女。そしてさっきまで図書館にいた彼女。美咲との時間がどんどん濃密になっているのが分かった。

 ベージュのコートに、マフラーを軽く巻いている。手はポケットに入れたまま、寒さに少し肩をすくめていた。

「来てたんだ」

「うん。なんか、気になっちゃって」

 その言葉は軽い響きなのに、真っ直ぐに悠の胸に届いた。

「場所、変えたんだね。一瞬、分からなかったよ」

「まあ……ちょっと、ね」

本当の理由を説明しようとして、やめた。美咲もそれ以上は追及せず、ただゆっくりとうなずいた。

「いいと思う」

 評価でも同情でもない、ただ存在を肯定するような声。彼女は観客の一人として、けれど完全に他人ではない絶妙な距離感でそこに佇んだ。

悠はギターを持ち直し、二曲目に入る。

 さっきよりも、ずっと自然に歌えた。美咲の視線を感じるけれど、それはプレッシャーではなく、背中をそっと支える温かな手のひらのようだった。

(見られてるんじゃない。……聴かれてるんだ)

 その決定的な違いが、歌声に深みを与える。

曲が終わり、拍手が増える。美咲も小さく手を叩いていた。

「やっぱり、いいね」

「ありがとう」

 短いやり取りのあと、風が二人の間を吹き抜ける。

「今日も、長くやるの?」

 美咲の問いに、悠は少しだけ間を置いて、決然と答えた。

「……たぶん、本当に区切りかな」

 言葉にした瞬間、それが現実になった。終わりを、自分自身で認めた瞬間だった。

 美咲は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに微笑んだ。

「そっか。じゃあ、最後まで聴くね」

三曲目、四曲目。音は重なり、深くなっていく。

 歌いながら、悠の脳裏にはこれまでの夜が走馬灯のように浮かんでは消えた。笑われた夜、無視された夜、誰かが立ち止まってくれた夜。その断片が、すべて今の音に宿っている。

ふと、視線が人混みの向こうへ流れた。ネオンの光の残像の中に、一瞬だけ、見えた気がした。

 長い髪。ヒールの音。夜そのものを纏ったような立ち姿。

(……アゲハ?)

 胸が騒ぐ。けれど次の瞬間には、そこには誰もいなかった。幻かもしれない。けれど、それでよかった。彼女がくれた「最後まで歌える人になりなよ」という言葉が、今の悠の芯を作っているのだから。

「……次、最後の曲です」

まだ弾いていないのに、その言葉が自然と口をついて出た。

 風が強く吹く。季節がまた一歩進み、悠の物語もまた、決定的な終焉へと向かい始めた。

その言葉を口にした瞬間、世界から音が消えたような錯覚に陥った。

 まだ鳴らしていないはずの「終わりの音」が、すでに指先に宿っている。

 視線を上げれば、そこには多くの人がいた。観光客、足を止めた誰か、遠巻きに見守る人。そして、目の前で静かに佇む高橋美咲。その後ろには、かつて競い合った若い弾き語りの男も、腕を組んでこちらを凝視している。気づけば蒼も近くで見守っていた。

 もう、誰かと競う必要はない。

 蒼と美咲の目が合い、軽く会釈をする。

「悠さん、今日で終わる気ですかね」

 蒼がおもむろに美咲に尋ねる。

「うん、区切りっていってました……だから、見届けようかなって」

 美咲の答えに蒼も静かに頷いた。

(最後の曲)

 浮かんできたのは、たった一つのフレーズだった。

(シングアソング)

 ただ、歌え。それだけの言葉。けれど、そこにはすべてが詰まっている。

 上手く歌うことでも、賞賛されることでもない。ただ、逃げずに最後まで歌い切ること。

イントロを弾く。静かで、無駄のない入り。

 声は少しかすれている。けれど、それが今の自分だ。これまでのすべての夜が混ざり合った、本当の声。

「夕立ちに染みるアスファルト――」

 一万円をくれた男。

 おにぎりをくれた老婆。

 笑いながら写真を撮っていった高校生たち。

 泣きながら笑っていた酔っ払い。

 あの時、「最後まで考えて、選びなよ」と囁いたアゲハの唇の温度。

無駄じゃなかった。

 何も決まらないまま、ただ彷徨うように続けてきたこの時間は、決して空白ではなかった。

(選ぶって、こういうことか……)

 今なら分かる。何かを捨てることでも、大きな夢を掲げることでもない。

 自分の足で、自分の意志で、「今、ここにいる」と決めること。

サビに向けて、声を前に出す。

 美咲が、揺るぎない瞳でこちらを見ている。評価も期待も超えた、「聴く」という純粋な行為そのもので、悠の音を受け止めている。

 後ろの方で、小さな手拍子が始まった。一人が始め、それが波紋のように広がっていく。

(ひとりじゃない)

 そう思えた。

 最後のサビ。声が震える。涙が込み上げそうになる。けれど、それもすべて音に乗せる。

(シングアソング)

 誰のためでもなく、けれど誰かに届くように。そして何より、自分自身が明日を生きるために。

 音が、夜に広がる。

 ネオンの光が揺れ、風が激しく吹き荒れる中で、悠は人生で最も鮮やかな、最後のフレーズを歌い上げた。

Aメジャーの白玉コードに合わせて、響く最後のフレーズが、ススキノの夜に溶けていく。

 声は少しかすれていた。けれど、そのかすれ具合さえもが、今の自分にしか出せない「真実の音」として真っ直ぐに響いていた。

最後のコードを鳴らし終え、余韻が夜の闇に吸い込まれる。音は消えたはずなのに、胸の奥にはかすかな振動が、心地よい痺れとなって残り続けていた。

 誰かに届いたのか、何かを変えられたのか、そんなことは分からない。それでも――。

(……歌った。それだけで、いい)

 悠はゆっくりと息を吐き出し、天を仰いだ。ネオンの洪水に塗り潰されそうな夜空に、わずかな星が見えた気がした。

大きなステージじゃなくていい。名前が売れなくてもいい。

 ただ、生きていることを確かめるために。誰かの心を一瞬だけ軽くするために。

 歌うことは、誰かと繋がること。そして、自分自身を見失わないこと。そのすべてを包み込んだ言葉こそが、この歌――『シングアソング』の意味なのだと、今ならはっきりと確信できた。

そのとき、不意にやわらかな風が通り抜けた。

 街灯の光を掠めるように、ひらりと、淡い色の羽が舞う。夜には似つかわしくない、一羽の小さな蝶。それは静かに弧を描き、導くようにネオンの向こうへ消えていった。

(……アゲハ、か)

 理由はなかった。ただ、直感的にそう思った。

 もう、そこに彼女の姿はない。けれど不思議と寂しくはなかった。過去が消えたわけではない。それは確かにそこにあり、今の自分を形作り、そして別の形で続いていくのだ。

 悠はゆっくりと前を向いた。もう、振り返る必要はなかった。

拍手は、すぐには起きなかった。

 聴き手たちもまた、消えた音の残像を惜しむように沈黙していた。

 やがて、ぱち、と一つの音が鳴り、それが波紋のように広がっていく。大きくはないけれど、確かな熱を帯びた拍手。

 その輪の中に、高橋美咲がいた。瞳を少し潤ませながら、けれど誰よりも力強く、彼女は笑っていた。

悠は深く頭を下げた。顔を上げたとき、憑き物が落ちたように心が軽くなっていることに気づく。

(終わった……いや、残ったんだな)

 失ったものは何もない。すべてが自分の中に蓄積されたのだ。

ギターをケースにしまう。ファスナーを閉じる「ジッ」という音が、これまでの章を締めくくる句読点のように響く。次を開くための、決別の音。

 人々は再び、何事もなかったかのように雑踏へと戻っていく。それがこの街の、冷たくも正しいルールだ。

「悠さん。さすがです。痺れました」

 蒼が目を輝かせている。心から尊敬してくれているのが伝わる。

「蒼、ありがとうな」

「……よかったよ、悠くん」

 すぐ隣に、美咲が立っていた。近すぎず、遠すぎない。互いの領域を尊重し合える、ちょうどいい距離。

「ありがとう」

 悠は、心の底からそう言えた。

「なんか……最後って感じ、したね」

「うん。たぶん、そうなんだと思う」

「でもさ」

 美咲が夜空を見上げて微笑む。

「終わりっていうより……始まりっぽかったよ」

「……そうかもな」

風がさっきより冷たさを増している。

 これからどうするのか、美咲に問われるまでもなく、悠の答えは決まっていた。

 ポケットの中のスマホには、現実からの呼び声が詰まっている。就職、進路、責任。

「ちゃんと考えるよ。……音楽も、ちゃんと好きでいたまま」

捨てる必要なんてなかったのだ。

 どちらか一つを選ぶのではなく、自分という人間の中にどう同居させていくか。それを選ぶことこそが、アゲハの言っていた「選択」の正体だったのかもしれない。

ふと、人混みの向こう、ネオンの光の奥に。

 長い髪と、ヒールの影が見えた気がした。立ち止まって、こちらをじっと見守っているような気配。

(アゲハ……)

 名前を呼びかけて、唇を閉じる。次の瞬間には、影は夜の深淵に溶けて消えていた。最初からいなかったように。

『最後まで考えて、選びなよ』

あの夜の声が、耳の奥で微かに反響した。

 悠は、少しだけ笑った。

「……帰るか」

「うん」

 美咲が短く答え、二人は歩き出す。

進む方向が同じかどうかは分からない。けれど今は、一歩一歩の足取りが心地よい。

 肩にかかるギターケースは、昨日よりも少しだけ軽く感じられた。

大学四年生もあと少しになる。卒業まであと少しだ。

 終わるものがあり、変わるものがある。

 けれど、心の中ではずっと鳴り続けている。

(シングアソング)

 どんな場所でも、どんな形でも。

 あの夜の熱を、あの瞬間の震えを、忘れることはない。

悠は、眩いネオンの中を歩いていく。

 振り返らない。けれど分かっている。

 あの場所も、あの夜も、あの人も――。

 すべてが歌のように自分の中に溶け込み、これからも静かに、けれど確かに、続いていくのだということを。

「今日はありがとうね」

 悠は優しく美咲に囁いた。

「うん。来てよかった」

 美咲は少し照れたように頬を赤らめ下を向いた。

「今度、ご飯でも食べに行こう」

「いいね。約束」

 今度は顔を上げて、美咲は嬉しそうに笑った。

 美咲と地下鉄の駅は二つ違いだった。

「あっ俺、次の駅で降りる。美咲はもう少しだね」

「私はあと二つかな」

「じゃあまた」

「ご飯の約束。絶対ね。また連絡するね」

地下鉄の中から手を振る美咲と別れ、一人になった帰り道。街灯の下で足を止め、ポケットの中で体温を帯びたスマートフォンに触れる。

 取り出した画面には、何の通知も来ていない。ただ、暗い鏡のように自分の顔を映し出している。

(……今だな)

 ここで指を止めれば、またいつものように曖昧な場所へ逃げてしまう。

 意を決して、通話ボタンを押した。耳元で鳴り響く呼び出し音が、心臓の鼓動よりも遅く、やけに長く感じられる。

一回、二回、三回。

「……もしもし」

 聞き慣れた、少し低くて落ち着いた声。父親だった。

「……ああ、俺」

 自分の声が、夜の冷気に触れて少しだけ掠れる。

「悠か。どうした、こんな時間に」

 いつも通りの、飾り気のない口調。それが今は、何よりも救いだった。

「うん、ちょっと……」

 言葉を探す。脳内で何度もリハーサルしたはずの台詞が、喉の奥で渋滞を起こしていた。

 数秒の沈黙。けれど、父は何も言わずに待ってくれた。その静かな時間が、悠に勇気を与える。

「俺さ……インターン内定した。福祉施設の支援員。だから、四月から就職するよ」

 まず、一番重い現実を口にした。逃げ場を断つための、決別の言葉。

「……そうか」

 短い返事だった。けれど、その一言にどれほどの安堵と期待が含まれているか、息子である悠には痛いほど伝わってきた。

「うん。大学卒業したら働く。……でもさ」

 悠は少しだけ、夜の空に向かって笑った。

「歌も、やめない。それだけは、決めたんだ」

 言い切った。自分でも驚くほど、淀みのない真っ直ぐな宣言だった。

 電話の向こうが、一瞬だけなぎになる。何かを吟味しているような気配のあと、父の声が届いた。

「……そうか。好きにやれ。ただ、やるからにはちゃんとやれよ」

 否定も、ため息もなかった。ただ、一人の男の決断として受け取った声。

「うん。ちゃんとやるよ」

「わかった。母さんには父さんから言っとくからな」

電話を切り、画面が暗転する。

 風が吹き抜ける。冷たいはずなのに、今の悠にはどこか軽やかで、心地よい。

(……言えたな)

 それは父親に対してだけでなく、自分自身への誓いでもあった。父親への電話、そして「教育」という道への決心。これまで自分が路上で、老若男女さまざまな人々の「孤独」や「一瞬の救い」に向き合ってきた経験が、この職業選択に繋がっていることに深い納得感があった。

音楽関係の仕事ではなく、あえて「福祉」という、より直接的に「誰かの時間に関わる」仕事を選んだことが、ススキノで得た最大の収穫だったのだ。

父親との短いけれど重みのある対話と、内定を得た後の「新しい夜」の空気感を大切にできた夜だと噛みしめた。

「ちょっと、なに電話切ってるのよ!」

その数分後に母親も話したかったのか、すぐにかけ直してきた。苦笑しながらも父親に話したことと同じ内容を母親にも伝えた。心の中は不思議と穏やかだった。


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