#第二十三章 歌えない夜・選ぶ夜(内定と決断)
10月も中盤に差し掛かった。ススキノの路上でギターを鳴らせるのも、今シーズンは残りわずかだ。
凍えるようなといっても大げさではない寒さを押し切り、今日も蒼と二人で遅くまで街角に立った。来週には重要な就職面接を控えている。その前に、木曜日は大学の講義がすべて休講だったため、早い時間から思う存分歌い込めるはずだった。水曜日の街の明かりは、いつもと変わらず眩く、賑やかだった。
なのに、今夜だけは、自分だけが世界から切り離されている気がした。帰る間際、急激な悪寒に襲われ、明らかな風邪を引いてしまったのだ。声は掠れて出ず、ギターの指運びも目も当てられないほど酷かった。
「悠さん、大丈夫ですか?」
蒼の心配そうな視線を背中に受けながら、逃げるように終電に飛び込んだ。
帰り道、コンビニでカップ麺と栄養ドリンク、そして水を買う。カサカサと鳴るレジ袋の音だけが、深夜の住宅街に妙に大きく響いた。
ワンルームに戻り、電気をつける。狭い部屋。脱ぎっぱなしの服。床に転がったピック。昨日飲み干したペットボトル。そこには、目を逸らしたくなるような「生活の匂い」が充満していた。
ギターを壁に立てかける。いつもなら帰宅後も少しだけ弦に触れるのが日課だったが、その夜は触れたくもなかった。視界に入るだけで苛立ちが募る。
(なんで、残りわずかなのに……歌うことすらできないんだ)
カップ麺にお湯を注ぐ。三分。スマホを眺めるが、誰からも連絡は来ていない。静かだった。いや、静かすぎた。
悠は床に座り込んだまま、ぼんやりと時計を見つめていた。気づけば、窓の外が少しずつ青くなっていった。
夜と朝の境目は、いつも曖昧だ。ススキノの明かりが消え切る前に、空だけが先に白み始める。その中途半端な時間が、悠は昔からあまり好きではなかった。
体調の悪さから、カップ麺は半分以上残っていた。伸び切った麺が、ぬるい汁の中で無惨に固まっている。腹は減っているはずなのに、喉を通らない。
床に座ったまま、ぼんやりとギターを見る。黒いケースにもたれかかるように置かれたそれは、まるで部屋の中にいる「もう一人の自分」のように見えた。
「……なんなんだよ」
小さく呟く。返事はない。当然だ。
けれど、そうやって誰かのせいにしたかった。上手く歌えなかったことも。何者にもなれていない自分も。全部、すべてを何かにぶつけたかった。結局、自分は成功できていない自分に苛立っているだけなのだ。こんな調子で来週の面接は、将来はどうなるのか。出口の見えない焦燥感に、右拳で壁を殴りつけようとした。だが、ギターを弾く利き手を痛めるわけにはいかない。その躊躇いさえも、自分が情けなかった。
そのとき、スマホが震えた。美咲からだった。先日、弾き語りを観に来てくれてから連絡先を交換し、何度かやり取りを続けていた。
『起きてる?』
短いメッセージ。少し迷ってから、『起きてる』とだけ返した。すぐに既読がつく。
『昨日も歌ってたの?』
『うん。歌ったよ』
『そっか。おつかれさま』
その「おつかれさま」という言葉が、妙に苦しかった。労われるほど、自分は頑張れていない気がした。夢を追っていると言うには中途半端で、かといって普通に生きる覚悟も決めきれていない。そのくせ、「分かってほしい」という顔だけはしている。
(だせぇな、俺……)
泣きそうになる顔を両手で覆った。
『今日も歌うの?』
美咲からの問いに、一瞬迷って返信する。
『いや、体調悪いから、今日はやめる』
指先には、まだ弦の感触が残っている。痛くもない。むしろ、その程度しか弾いていない自分に腹が立った。昔は、もっと夢中だった。上手くなりたくて、コードを覚えるだけで嬉しくて、朝までギターを抱えていた。なのに今は、「歌う理由」ばかりを頭で考えている。そんなもの、昔は必要なかったのに。
突如、LINEではなく着信音が鳴った。美咲だった。
「体調、大丈夫?」
心配そうな彼女の声が耳元に届く。
「うん。あんまり声は出ないけど、大丈夫」
「なんか、買って持っていこうか?」
「いや、いいよ。うつしたら悪いし」
「そんなこと心配しなくていいよ。本当に大丈夫?」
「うん。本当に大丈夫だから。ごめんね。心配かけて」
「ううん。そうか……優しいね。分かったよ。でも」
一瞬、間があった。
「優しいのも、罪だよ。お大事にね」
「ああ、ありがとう」
電話を切った後、悠は心臓がどきりと跳ねるのを感じた。以前、アゲハにも同じことを言われた。鮮明に覚えている。自分は優しい男なんかじゃない。ただ、優柔不断なだけなのだ。そろそろ、いろんなことに決断を下さなければならない。
窓の外で、配達トラックのエンジン音が響く。朝が来たのだ。人々が働き始め、誰かの生活が動き出す音。
悠はゆっくりと立ち上がり、洗面台へ向かった。鏡に映った自分は、ひどい顔をしていた。目の下には隈が落ち、髪はぐしゃぐしゃで、無精髭まで伸びている。売れないミュージシャンというより、ただ生活が乱れた大学生の姿だった。
「……何やってんだろ」
蛇口をひねり、冷たい水で顔を洗う。少しだけ呼吸がしやすくなった。
タオルで顔を拭きながら部屋へ戻ると、カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んでいた。夜の闇では見えなかったものが、容赦なく照らし出される。脱ぎっぱなしの靴下。昨日買い物したコンビニのレシート。ビールの空き缶。積み上がった洗濯物。それが「生活」であり、「現実」だった。夢だけでは決して埋めることのできない、リアルな日常。
悠はしばらく立ったまま、それを眺めていた。やがて、ゆっくりとギターケースに歩み寄り、その場にしゃがみ込む。ファスナーに手をかけ、動きを止めた。
昨夜、逃げるように閉じたケース。開けたくなかった。また何も鳴らなかったら。自分の空っぽさを再確認するだけになったら。それが、怖かった。
それでも、悠はケースを開けた。ギターを取り出すと、朝の光を受けた木目が静かに浮かび上がった。
ストラップはつけず、床に座ったまま膝の上に乗せる。そして、ゆっくりと一本の弦を弾いた。
小さな、弱々しい音。誰にも届かない音。拍手も、眩い街の光も、足を止める人もいない。ただ、六畳一間の部屋にだけ響く音。
もう一度、弾く。今度は、さっきよりも丁寧に。
不思議だった。夜にはあんなに忌々しかった音が、朝の光の中では少し違って聞こえた。上手くはない。相変わらず拙い音だ。けれど、昨夜のような嫌悪感は消えていた。
悠は視線を落とす。指先が、わずかに震えていた。
怖いのだ。歌えなくなることが。自分の中に何も残らなくなることが。
夢を諦めることよりも、「自分には最初から何もなかったのだ」と認めてしまうことのほうが、ずっと怖い。
悠は小さく息を吐き出した。それから、誰に聴かせるでもなく、掠れた声で静かに歌い始めた。
朝の部屋に、消え入りそうな歌声が漂う。
来週の面接に向けて、自分にやれるだけのことはやろう。そう心に誓いながら。
数日後。面接の帰り、地下鉄の窓に映る自分の顔は、驚くほど落ち着いていた。
これまでの就活では、音楽への未練や「自分は何者なのか」という迷いが顔に出て、何度も見送られてきた。けれど、今日は違った。
『福祉施設支援員募集』
最初は、偶然見つけた選択肢だった。マスコミも出版も全滅し、消去法で選んだはずの道。
けれど、面接官と向き合い、困難を抱える子供たちの話を聞いているうちに、気づいたことがあった。
自分は「すごいもの」を作って有名になりたかったわけじゃない。
ただ、誰かの時間に、誰かの孤独に、ほんの少しだけ寄り添いたかったのだ。
それは、あのススキノの夜に、足を止めてくれた誰かへ歌を届ける感覚と、驚くほど似ていた。
夕方、スマートフォンに届いた一通のメール。
『インターン内定』の文字。
(これで、決まるんだな……)
実際には年明けの一週間の実習をして、正式内定をもらうが、よほどのことがない限りこの内定で決まりだとゼミの教授にも言われた。
「いつか」という逃げ場が消え、「今」という現実が幕を開ける。その恐怖を上回るほどの、清々しい高揚感があった。
気づけば、足はいつもの場所――ススキノの交差点に向かっていた。
夜の街並みは相変わらず無関心に輝き、人の波は止まることなく流れている。けれど、自分だけが以前とは違う。
ギターを取り出し、弦に触れる。深呼吸。
(……言えるな。今日は、はっきりと言える)
自分の中で、すべての回路が繋がった感覚があった。
最初の慣れないセブンスのコードを小指を伸ばしながら鳴らす。
この場所は、もう「逃げ場」ではない。ましてや「終わり」でもない。
ここから始まる人生の、大切な通過点。
これから先、仕事に就いても、立場が変わっても、この歌は形を変えて続いていく。
歌い終えた悠に向けられた、パラパラとした拍手。
その小さな音に包まれながら、悠は確かな手応えを感じていた。
音楽を捨てるんじゃない。仕事に呑まれるんでもない。
両方を抱えて、欲張りに、誠実に生きていく。
その覚悟が、十月の冷たい夜風の中で、ようやく確かな形を結んだ。
夜のススキノという、どこか「非日常」で「刹那的」な場所から、光の射す働く場所という「日常」へ。ギターケースをトートバッグやビジネスバッグに持ち替え、仕事という現実の重みを受け入れながら歩く姿を想像してみた。かつての迷い箸のような危うさはもう何もなかった。
ふと、アゲハではなく、美咲のことを思い出した。美咲との距離感も、言葉を交わすたびに「音」ではなく「体温」として重なっていく描写が自分でも非常に美しかった。踏み出した一歩は、自分が孤独なソロ奏者から、誰かとリズムを合わせるアンサンブルの人生へと踏み出した証のように感じられたのだった。
就職のことをLINEで教えようか迷ったが、それはこの次に会ったときにしよう。
『おかげさまで、風邪治ったよ』
代わりに心配してくれた体調のことを伝えたかった。すぐに既読になり返信が来る。
『良かった。無理しないでね』
『ありがとう。弾き語り行ってくるね』
『はい、いってらっしゃい。また観に行くね』
可愛い動物のスタンプも添えられた。
(観に来るか)
観せられる夜が来るのか。静かな交代を告げるその夜、風は少しだけ冷たかった。
夏が過ぎ、秋の終わりすらも告げるような、乾いた空気。繁華街の光はいつもと変わらないはずなのに、街の色だけがわずかに落ち着いて、どこか遠い場所のことのように見えた。
悠は、いつもの場所に向かう途中で足を止めた。
ギターの音が聞こえる。少し荒削りで、けれど迷いのない真っ直ぐなストローク。
(……蒼か)
角を曲がると、数メートル先に人だかりができていた。自分がいつも立っていた場所の、ほんの手前。その円の中心に、玉木蒼がいた。
背筋を伸ばし、ギターを構える姿は以前よりもずっと自然だ。声にはまだ粗さがある。けれど、その分だけ感情が濾過されずに響いていた。
止まらない音。迷いながらも、必死に前へ進もうとする音。
足を止めて聴き入る人、スマホを向ける人、リズムを取る人。そこには、確かに一つの「場」が生まれていた。
悠はその輪の外側に立ったまま、動かなかった。近づこうとは思わなかった。ただ、後輩が手に入れたその光景を静かに見守っていた。
(……いいな)
不思議と、悔しさは微塵もなかった。それよりも、深い納得が胸の奥に落ちていくのを感じた。
蒼が最後のコードを鳴らし、温かい拍手が起こる。照れくさそうに笑う蒼の顔を見て、悠もわずかに口元を緩めた。
(……ああ、あの顔だ)
初めて自分の歌が「届いた」と確信したときの、誇らしさと戸惑いが混ざったあの表情。悠はそっと視線を外し、声をかけることなくその場を離れた。もう、言葉をかける必要はない気がした。
いつもの場所に立つ。
人の流れはある。けれど、誰もこちらを見ない。
ギターケースを開き、準備をする。いつも通りのルーティン。それなのに、指先に触れる弦の感触が、今までとは決定的に違っていた。
(……もうすぐ最後、か)
ふと、そんな言葉が浮かんだ。まだ決めたわけじゃない。けれど、自分の中ではもう分かっていた。ここでの時間は、終わりに向かっているのだ。
ギターを構え、コードを鳴らす。音が夜に溶ける。
歌い出す。いつもと同じように。けれど、いつもより少しだけ静かに。
通り過ぎる人々。立ち止まらない足。向けられない視線。
音は誰にも届かないまま、冷たいアスファルトの上を滑り、消えていく。
それでも、悠は止めなかった。最後まで歌いきる。それだけを己に課していた。
サビに入り、声を張る。けれど、反応はない。拍手も、投げ銭の音もない。ただ、無関心な夜が続いている。
それでも――。
(……いいか、これで)
不思議と焦りはなかった。虚しさもなかった。ただ、耳の奥で鳴る自分の音だけが、やけに澄んで聞こえた。
歌い終え、最後の残響が消える。何も起きない。ただ、風が吹いただけ。
悠はギターを下ろし、ゆっくりと息を吐き出した。見上げたネオンの隙間に、わずかな夜空が見える。
(……これでいい)
届く夜もあれば、届かない夜もある。人が集まる夜もあれば、誰もいない夜もある。
そのどっちもが、自分の積み重ねてきた本当の時間だ。その全部があったから、今の自分がある。
父の不器用な背中。
母の変わらない声。
アゲハの、どこか遠くを見ていた瞳。
そして、今も遠くで響いている蒼の歌声。
(……ありがとう、か)
言葉にすると照れくさいけれど、確かにそう思った。自分は多くのものに支えられ、ようやく「自分で選ぶ」というスタートラインに立ったのだ。
最後のコードは、思っていたよりもずっと、あっけなく空気に溶けて消えた。
拍手はなかった。
足を止める人も、結局、最後の一人まで現れなかった。
ただ、深夜のススキノを急ぐ無関心な靴音だけが、いつも通りに流れていくだけ。
「……終わり、か」
誰に言うでもなく、胸の内でだけ呟く。
悠はギターをケースにしまった。いつもより丁寧に、愛おしむようにゆっくりと。急ぐ理由は、もうどこにもなかった。
ビルの壁際に背を預け、ずるずると腰を下ろす。
冷えた身体を温めようと自販機で買った缶コーヒーは、まだ少しだけ熱を持っていた。プルタブを開ける音が、無人の路地でやけに大きく響く。
一口。……苦いというより、ひどく薄い味がした。
顔を上げると、相変わらずネオンがわがままに光り輝いている。
何も変わらない夜。何も変わらない街。
変わったのは、自分の方だけだった。
頭の中は、意外なほど静かだった。もっと悔しさや焦りが込み上げてくるかと思ったのに、今の心は驚くほど軽い。その軽さが、少しだけ怖くなるくらいに。
(これで、いいのか……)
問いかけても、答えは出ない。ただ、膝の上のギターケースにある確かな重さだけが、自分の存在を証明していた。
ふと、思い出してみる。
まだ、本当に想像でしか知らない、あの人の世界。
ネオン輝く夜と対照的な、薄暗い照明の店。そこから現れ、男性客にエスコートされながら、煙草の匂いに混じる甘い香水を漂わせて笑うアゲハの姿を。
結局、彼女の本名も知らない。名前を呼んだことも、一度もなかった気がする。
それでも、思い出すときはいつも、あの「アゲハ」という記号のような、けれど鮮やかな名前だった。
『似合ってるよ、そういうの』
いつ、何に対して言われたのかさえ、もう曖昧だ。
それでも、あの声の温度だけは、今も鼓膜の奥に残っている。
届きそうで、決して届かない距離。最初から、あの人は「そこ」にいた。
手を伸ばすべき場所ではなかったのに、いつの間にか、自分は彼女の影を追うようにして歌っていたのかもしれない。
缶コーヒーをもう一口。いつの間にか冷めていた。
視線を上げると、ネオンの端を、何かがふっと横切った気がした。
瞬きをする間の、見間違い。
それでも、ほんの一瞬だけ、あの羽の色を思い出した。黒に近い、深い紫。
「……もう、いいか」
小さく息を吐く。
それは「諦め」というより、「手放した」「やりきった」という感覚に近かった。
誰かに届かせようとして、外へ、外へと放っていた歌を、ようやく自分の手に戻すような。
ギターケースを軽く叩く。音はしない。けれど、この箱の中に、まだ鳴り止まない音が詰まっていることは分かっていた。
立ち上がると、足元が驚くほど軽い。
ネオンは相変わらず眩しいけれど、さっきより少しだけ遠くに見えた。
それでも――。
コートのポケットの中で、指が無意識に、見えない弦をなぞるように動いた。
音は出ない。けれど、その指先の感覚だけが、確かに残っていた。
それで、十分な気がした。
夜の冷気の中で、悠は自分でも不思議なほど、静かに笑っていた。
(……明日、か)
小さく呟く。明日は、最後の一夜。
自分のために、誰かのために。これまでのすべてを込めて歌おう。
悠は歩き出す。ネオンの中へ。次の場所へ向かうために。
その足取りは、いつになく軽やかだった。




