#第二十二章 届かない音の中で
10月も半ば。秋にしては暖かかったその夜、蒼の奏でる音は、目に見えて荒れていた。
コードを押さえる指先が、ほんのわずかに、けれど決定的に遅れる。正確だったはずのリズムも、砂上の楼閣のように不安定に揺らいでいた。
ススキノを往く人々は、ほとんど足を止めない。稀に好奇心で立ち止まる者がいても、音の迷いを感じ取るのか、すぐに背を向けて去っていく。ギターケースに投げ込まれるコインの音も、今夜はひどく乏しい。
それでも、蒼は歌い続けていた。掠れそうな声を振り絞り、愚直なくらい、まっすぐ前だけを見つめて。
(……珍しいな)
悠は少し離れた街灯の影で、その痛々しい背中を見ていた。
普段の蒼は、もっと安定している。音も、表情も。少なくとも、ここまで露骨に演奏が崩れるような男ではない。
一曲が終わった。拍手は、一つも起きなかった。
蒼は小さく、吐き捨てるように息を漏らす。震える手でギターを持ち直し、呪縛を振り払うように次の曲へ入ろうとした。
「蒼」
悠が声をかける。蒼の肩が小さく跳ね、振り向いた。一瞬の驚きのあと、堰を切ったように安心したような、泣き出しそうな笑みがこぼれた。
「……悠さん」
「ちょっと休め」
「え、でも、まだ……」
「いいから、座れ」
少し強めに促すと、さっき自動販売機で買った缶コーヒーを手渡した。蒼は力なくうなずいた。ギターを背負ったまま、二人は歩道の端、冷え始めたアスファルトに腰を下ろし飲み始めた。
「10月になると寒いよな。弾き語りを外でするのも11月がギリギリかな。まあ俺は12月までやったこともあったけど」
悠はおどけて笑って見せた。つられて蒼も笑った。
「悠さん大学一年生からやってるんですか?」
「ああ。一年生の5月くらいからかな蒼のデビューより少し早かったかも。で、最初の年は12月までやって体調崩したというわけさ」
蒼は笑いながらも頷く。
「そりゃ、風邪ひきますよ」
「だな。だからススキノで弾き語りやれて、あと一カ月くらいか」
二人で静かに頷きあった。
喧騒から少しだけ切り離された場所。夜の音が、膜を隔てたように遠くなる。
「どうした」
悠がストレートに切り込むと、蒼は長く沈黙した。心の中にある泥を、言葉に変える作業をしているようだった。
「……うまくいかなくて」
ぽつりと、掠れた声がこぼれる。
「何が?」
「全部です」
蒼は自嘲気味に笑った。
「学校も、バイトも……音楽も。なんか、全部中途半端で。自分がどこに向かってるのか、分からなくなっちゃって」
蒼は足元に視線を落とした。ネオンのけばけばしい光が、履き潰した靴の先に反射している。
「音楽、好きなんですけど。……好きなだけじゃ、ダメなのかなって」
その言葉が、悠の胸を鋭く抉った。
聞き覚えのある悩み。いや、それは今もなお、悠が自分の内側で飼い慣らせずにいる「毒」と同じものだった。
「さっきも、全然人が止まらなくて」
蒼が夜の流れを、どこか遠い目で見つめる。
「前はもうちょっと、聴いてくれてた気がするんですけど。……なんか今夜は、自分の音が、誰にも届いてない感じがして」
重く、冷たい沈黙が二人の間に落ちる。
(届いてない、か……)
それは、痛いほど理解できる感覚だった。いくら声を張っても、すべてが夜の街に吸い込まれ、霧散していくような虚無感。自分だけが、世界の軸から取り残されたような疎外感。
「なあ」
悠はゆっくりと口を開いた。
「お前、今日……なんでここに来た?」
蒼が、不思議そうに顔を上げる。
「え?」
「ここに来る理由だよ。……歌いたいから、だろ?」
蒼は少し考えてから、小さくうなずいた。
「……はい」
「じゃあ、それでいいんじゃないか」
シンプルすぎる言葉に、蒼は戸惑いの色を浮かべた。
「でも、それだけじゃ足りない気がして。将来のこととか、才能のこととか考えたら……」
「足りない、と思うか?」
畳みかけるように悠が聞くと、蒼は今度は長く黙り込み、それから消え入りそうな声で「……はい」と答えた。
悠は少しだけ笑った。
「分かるよ。……俺も、ずっとそう思ってる」
蒼が、弾かれたように顔を上げた。
「え……悠さんも、ですか?」
「ああ。好きなだけじゃダメなんじゃないか、このまま続けて何になるんだって。今だって、ずっと思ってるよ。大学四年だしな」
夜の冷気の中に、悠の本音が溶け出していく。
「でもさ」
悠は蒼の目を真っ直ぐに見据えた。
「だからって、やめるかって聞かれたら、やめられないだろ? お前も、俺も」
蒼の唇が、わずかに震える。そして、憑き物が落ちたようにふっと笑った。
「……はい。やめられないです」
「じゃあ、続けるしかないんだよ。届かなくても、今はまだ、やるしかない」
あまりに不器用な励まし。けれど、それこそがこの路上で生きる者にとっての、唯一の真実だった。
蒼は、深く、深くうなずいた。その肩から、余計な強張りが消えていくのが分かった。
夜の空気が、少しだけ柔らかくなった気がした。
交わらないはずの孤独が、ほんの一瞬だけ、温度を分け合った夜だった。
二人の間にそれぞれの時間が流れた。
しばらく、二人は何も言わずに座っていた。
タクシーが水を切るような音、遠くの酔客の笑い声、無機質なネオンの明滅。夜のノイズだけが、二人の間の空白を埋めていく。
その沈黙を破ったのは、蒼のぽつりとした、けれど芯のある問いだった。
「……悠さんは、どうするんですか」
まっすぐな問いに、悠は少しだけ視線を彷徨わせた。逃げようと思えば、いくらでも大人の余裕で誤魔化せる質問だ。けれど――。
(……今だな)
ここで自分を偽ることは、蒼の誠実さを裏切ることになる。そう直感した。
「俺、四年の後半なんだよ。もうすぐ卒業になる」
ゆっくりと言葉を置く。
「就職も、ちゃんと決めなきゃいけない時期。モラトリアムの終わり、ってやつだな」
現実をそのままの重さで提示する。蒼が小さくうなずくのを見て、悠は少しだけ自嘲気味に笑った。
「正直、焦ってるよ。めちゃくちゃにな」
「悠さんでも、焦るんですか……?」
「するよ。むしろ、お前よりしてるかもしれない。このまま歌ってていいのか、きちんと社会で働けるのか……頭の中は全部、ぐちゃぐちゃだよ」
夜の先を睨むように視線を上げる。
「でもさ、それって今の俺に与えられた『時間』なんだよな。選ばなきゃいけない、決めなきゃいけない。逃げられない『今』なんだ」
蒼は何も言わずに、ただその言葉を噛み締めるように聞いている。
「でも、蒼。お前はまだ一年だろ」
視線を向けると、蒼は少しだけ困ったように笑った。
「はい。まだ、一年です」
「俺とお前じゃ、時間の使い方が全然違うんだよ。お前にはまだ、いくらでも試せる自由がある。失敗してもいい、派手に遠回りしてもいい。むしろ、今のうちに全力で迷っておいたほうがいいんだ」
「でも、それって……何の結果も出ない、無駄な時間に思えちゃって」
「俺もそう思ってたよ。早く正解を出して、楽になりたいって。でも、今になって思うんだ。あの『どうしようもなく迷っていた時間』が、結局、自分の中に一番深く残ってる。血肉になってるんだよ」
悠の言葉が、蒼の瞳に静かに染み込んでいくのが分かった。
「音楽も同じだ。うまくいかない日も、誰にも届かない夜も、全部無駄じゃない。それは、今の蒼にしかできない経験だから」
蒼の返事は、さっきよりもずっと強く、響いた。
「……はい」
悠は少しだけ息を吐き出し、胸の奥に秘めていた決意を言葉に乗せることにした。
「俺さ……たぶん、就職するよ。音楽『だけ』で生きていくんじゃなくて、でもしっかりと、人と関わる仕事を探そうと思ってる」
蒼が驚いたように顔を上げる。
「なんでか分かんないけど、こうやってお前と話してる時間とか、歌ってて誰かの心がほんの少し軽くなる瞬間とか……そういうのが、嫌いじゃないんだ。というか、救われてるのは俺の方だったりするから。だから、案外向いてるかもしれないって、最近思うんだよ」
照れ隠しに肩をすくめる悠に、蒼は少し考えてから、ゆっくりと言葉を返した。
「……いいと思います。悠さん、そういうの、すごく合ってる気がします」
その真っ直ぐな肯定が、何よりも悠の背中を押した。
「ありがとな。……でも、音楽はやめないよ。形は変わるかもしれないし、回数は減るかもしれない。でも、この場所で学んだことは、ずっと持っていく。好きなままでいたいからな」
「はい。僕も、やめないです」
「焦んなよ、蒼。お前にはまだ、たっぷり時間がある。その分、十分に、贅沢に迷え」
蒼は、今度は迷いなくしっかりと頷いた。
「はい!」
悠が先に立ち上がり、ジーンズの砂を払う。蒼もそれに続いて立ち上がった。
「じゃあ、やるか」
「はい」
蒼がギターを持ち直す。その手つきは、先ほどまでの震えが嘘のように安定していた。
再び、蒼の指が弦を弾く。
夜の街に響いたのは、さっきよりもほんの少しだけ、芯の通った強い音。
立ち止まる人は、まだ少ない。けれど、そこには間違いなく「自分の足で立って鳴らしている音」があった。
悠は少し離れた場所で、蒼の背中を見守った。
(……大丈夫だな、あいつは)
この先、どんな嵐が来ても、彼は自分の時間の中で答えを見つけ出せるだろう。
それぞれの場所で、それぞれの時間を刻みながら。
夜はまだ続いている。そしてその暗闇の中で、悠もまた、新しい場所へと繋がる一歩を踏み出そうとしていた。
再び路上に二つの声が交わり始めた。
蒼の音は、さっきまでとは明らかに別物に変貌していた。
コードを押さえる指先には迷いがなく、リズムは確かな意思を持ってアスファルトを刻んでいる。何より、声が違った。内側から溢れ出すような強さが宿り、通り過ぎる人々の足を無意識に止めさせる引力を放ち始めている。
拍手はまだ小さい。けれど、それは間違いなく「届き始めている音」の証だった。
(……いいな)
悠は少し離れた場所から、眩しそうにそれを見つめていた。さっきまで隣で座り込んでいた後輩が、今はもう自分の足で立ち、自分の夜を鳴らしている。その変化が、自分のことのように誇らしく、嬉しかった。
一曲が終わり、蒼と視線が合う。軽く交わした会釈。それだけで、言葉以上のやり取りは十分だった。
(大丈夫だな、あいつは)
悠はゆっくりとギターを持ち上げた。蒼のことを考えて心に余裕があったからか、理由は分からないが、今日は声もギターも確かに届いていた。人通りも多く、手ごたえは確かにあった。今日は少し早く切り上げよう。理由は定かではないが、なんとなく「ここまでで、最高にいい夜だ」という直感があった。
数人の人の輪が解け、夜の街に消えていったのと同時に、ケースを閉じるファスナーの音が、静かな区切りを告げる。
その時だった。
「……良かったよ」
聞いたことのある、けれど少しだけ意外な場所で聞く声。振り向くと、街灯の淡い光の下に美咲が立っていた。小さな買い物袋を手に、少しだけ息を弾ませている。
「道に迷って……探しちゃった」
少しだけ安心したように笑う彼女に、悠は驚きを隠せなかった。
「こんな時間に? どうしたんだよ」
「帰り道だから。ちょっと寄ってみただけ。何曲か聞いていたよ」
その自然な響きが心地よかった。無理をしたわけでも、単なる偶然でもない。互いの生活がふっと重なったような、ちょうどいい距離感。
「でも、慣れない道で迷っちゃった」
無邪気に笑う。
蒼がこちらに気づき、慌てて会釈する。美咲も柔らかく微笑み返し会釈をした。
「すごいですね。さっき、聴かせてもらいました。いい音でしたよ」
その真っ直ぐな称賛に、蒼は顔を赤らめて照れ笑いを浮かべた。さっきまでの不安はもう微塵も感じられない。
「蒼、もうちょいやるか?」
「はい、もう少しだけ!」
「そうか。じゃあ、またな」
迷いのない返事を聞き、悠は美咲に向き直った。
「まだ終電まで時間あるし……少し、歩くか」
「うん」
背後で再び、蒼のギターが鳴り始める。さっきよりもさらに力強く、夜を切り裂くような音が、二人の背中を見送っていた。
喧騒から少し外れると、ススキノのざわめきが膜を隔てたように遠ざかった。
ネオンの光はまだ届くけれど、そこには静かなプライベートな時間が流れている。
「今日はすごかったね。人も多かったし」
「たまたまだよ。そんな日もある」
悠は照れ隠しに答えたが、胸の奥には確かな手応えが残っていた。自分は音楽で売れたいのではなく、誰かに届けたい、伝えたいのだと実感がわいていた。
「でも、きっと色んな人に届いていたと思う。遠くからでも分かったよ」
美咲の真っ直ぐな言葉に、悠は言葉を詰まらせた。自分も考えていた「届いている」と言われる言葉に、まだ免疫がない。
夜風が吹き抜ける中、美咲がふと足を止めた。
「ねえ。一曲、聴かせてよ」
「さっきまで聴いてただろ」
「でも全部じゃないし。……一人で、ちゃんと聴きたいな」
その真剣な眼差しに、悠の心拍がわずかに早まる。
「……ここで?」
「うん」
悠は苦笑しながら、再びギターケースを開いた。誰に見せるためでもない、たった一人の観客のためのステージ。
「じゃあ……一曲だけ」
奏でたのは、未完成のオリジナル曲『シングアソング』。
夕立ちに染みるアスファルト。焼けた匂い。疲れたビジネスマン。綺麗なお姉さん。
不器用な歌詞と、飾らない声。けれど、今の自分を一番正直に映し出す鏡のような歌。
歌い終えたあと、一瞬だけ時間が止まったような静寂が訪れた。美咲は少しだけ俯いたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「……すごいね。悠君の歌って、心に届くよ」
その小さな、けれど確信に満ちた一言に、悠の胸の奥が熱くなった。上手くいったとか失敗したとか、そんな次元ではない「肯定」が、そこにはあった。
二人は小さな公園のベンチに並んで座った。木のベンチは冷たかったが、触れそうな距離にある互いの体温がそれを忘れさせた。
「私さ、図書館で働きたいんだ。司書になりたくて、今、資格の勉強してる」
美咲が語り始めた未来は、彼女らしく穏やかで、けれど強い芯が通っていた。
「不安だよ。なれるか分かんないし、向いてるかも分かんない。でも、やってみたいって思うんだ」
悠は、そんな彼女を眩しく思った。自分のやりたいことを言葉にできる強さ。
「いいじゃん。やればいい。やりたいって思ってる時点で、もう半分くらい進んでるだろ」
悠の不器用な励ましに、美咲の横顔が柔らかく綻ぶ。
「私、ボランティアサークルに入っているんだ。絵本の読み聞かせとか……ああ言うのも好きなんだよね」
美咲が悠を覗き込む。
「悠君は? どうするの」
「働くよ。アルバイトとかではなく。……でも、音楽はやめない。好きなままでいたいから」
「うん、そうだと思った。悠君には、歌ってるのが一番似合ってるもん」
きっぱりと言い切る美咲に、悠は思わず吹き出した。
「それ、褒めてるのか?」
「褒めてるに決まってんじゃん」
二人で顔を見合わせて笑う。
「実は昨日も何曲か聴きに来てたんだよ」
「えっ!声掛けてくれよ」
「ちょっと恥ずかしくて……でも、今日は声掛けたいなって」
「寒くない?」
「うん。大丈夫。ありがとう」
肩と肩が、ほんの少しだけ触れる。けれど、どちらも離れようとはしなかった。
これから先のことはまだ誰にも分からない。けれど、少なくとも今、この冷たい夜風の中で、隣にいるこの人と同じ方向を見ているという確信があった。
ススキノの夜は、静かに、けれど力強く続いていく。
そしてその中で、二人の歩幅も、確かに未来へと進み始めていた。




