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#第二十一章 自分の歌

 黒い擦り切れたブーツが、今日もアスファルト舗装を蹴ってリズムを作る。

その夜は、風が強かった。

 ススキノの交差点。吹き抜ける突風にネオンが揺れ、頭上の看板が小さく悲鳴のような音を立てる。寒いからか運よく場所には誰もいなく、藤井悠は、いつもの定位置に立っていた。

 ギターを構え、弦を弾く。指先から放たれる音は、以前よりもずっと輪郭がはっきりとしていた。歌声も、客観的に見て少しはマシになった自覚がある。

それでも――隣から響いてくる圧倒的な「音」が、すべてを無効化しようとしていた。

少し離れた場所で歌う、蒼とも違う、もう一人の弾き語り。以前もいた男だ。

 その男は、残酷なまでに上手かった。流麗な速弾き、複雑なテンションコード。耳馴染みのある最新のヒット曲を、次から次へと鮮やかに料理していく。

 当然のように人が集まり、歓声が上がる。

「すげえ」「うまっ、プロじゃないの?」

 そんな称賛の声が風に乗って流れてくる。一方で、悠の前には足を止める者もいない。

(……分かりやすいな、本当に)

 悠は自嘲気味に口角を上げた。

 技術、知名度、聴きやすさ。すべてにおいてあちらが上だ。それに引き換え、自分は何をやっているんだろう。虚しさが指先を鈍らせ、ふと演奏を止めてしまいそうになる。

(もう、やめるか……)

一瞬だけよぎった逃避。けれど、その刹那、脳裏に一つの景色が浮かんだ。

 あの狭いアパートの部屋。古いギター。自分の内側から言葉が、濁流のように溢れ出してきたあの夜。

 そして――アゲハの、静かな声。

『――最後まで考えて悩みなよ。逃げてる人はね、悩まないから』

悠は、深く、長く息を吐き出した。

(……違うだろ。俺がやりたいのは)

 あの男のように器用に弾けるようになりたいわけじゃない。ヒット曲でその場を盛り上げたいわけでもない。自分がこの場所に立ち、声を絞り出している理由は――もっと、別の場所にある。

ギターを抱え直す。

 隣の派手な演奏は、もう耳に入らなかった。静かに、けれど確かな意志を込めてイントロを刻む。派手さはない。けれど、地中の奥深くまで届くような、芯のある音。

「……夕立ちに染みるアスファルト。焼けた匂い、懐かしい香りが」

 声は、まだ完成には遠い。けれど、一音たりとも逃げていない。

「なんとなく胸の深くで、忘れたくないと――」

 言葉が、血を通った血肉となって溢れ出す。目を閉じれば、ススキノのネオン、無機質な人の流れ、そしていつか見た誰かの孤独な横顔が浮かぶ。

「暮れてゆく街の片隅で、ギター片手に歌う毎日は。流れ行く人混みの中――何かを投げかけてあげられるかな」

 そのフレーズに、自分自身が呼応する。

「さっきまで疲れたビジネスマンも、綺麗なお姉さんも、少し心晴れるかな。帰る足も、軽くなるのかな」

ほんの少しの、ささやかな変化。それでいい。それこそが、自分の音楽の役目だと思えた。

 ふと気づくと、数人の男女が立ち止まっていた。大きな歓声はない。けれど、彼らは吸い込まれるように、悠の歌を「聴いて」いた。

 隣の狂騒とは違う、静かな共鳴。

サビに向けて、声をさらに前に出す。

「一粒、ビタミンカプセルを。飲み込んで、元気が出るイメージ」

 歌いながら、不器用な比喩に少しだけ笑いそうになる。けれど、それでいい。完璧じゃなくていい。格好悪くても、届きさえすれば。

「気休めでも、そう思ってりゃ。雨降る空の下、誇れるでしょう。風吹く街にも、向かえるでしょ」

 強風にジャケットが激しく煽られる。けれど、もう足元は見ない。

「擦り切れたブーツで、走りましょう」

最後のフレーズを歌い切り、音を止めた。

 一瞬の静寂。

 それから、ぱちぱちと、硬く誠実な拍手が起きた。派手な歓声ではない。けれど、そこにいる人たちの体温が伝わってくるような拍手だった。

悠はゆっくりと顔を上げた。

 目の前にいる人たちの顔は、どこか穏やかだった。隣の派手な音に惹かれたわけではなく、自分の「拙いけれど本当の言葉」を受け取ってくれた顔。

(……これでいいんだ)

 隣と比べる必要なんて、最初からなかったのだ。自分の場所は、この「不器用な一角」にある。

 上手くやることよりも、選び取ること。そして、最後まで歌い抜くこと。

夜は変わらず、冷たく流れている。

 けれど悠の中で、重いいかりが下りたような確信が芽生えていた。

(オリジナルでいく)

 それは音楽のスタイルのことだけではない。自分の人生を、自分の足で、他人の物差しではなく歩んでいくという決意。

ギターを握る手に、熱い力が宿る。

 もう、迷わなかった。

胸が熱くなった。隣の「上手い弾き語り」という、路上における残酷なまでの「格差」を突きつけられながら、自分だけの価値を見出すプロセスは自分にとって鮮明だった。

派手なヒット曲で群衆を沸かせる技術ではなく、誰かの「生活」に寄り添い、一粒のビタミンのように静かに効いていく音楽。作り上げる歌詞の一節一節が、これまでの歩みそのものを肯定しているようで、自分で歌っていても込み上げるものがあった。

自分の奏でる「芯のある音」と、内面で固まった「オリジナルでいく」という決意が強調された夜だった。そうそして、それはススキノだけではなく、いずれ社会人になり、自分が人生を通して作り上げていくものかもしれないとも思えた夜だった。


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