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#第二十章 生活の中の音

 後期の授業がスタートし、ゼミの教室は、いつもより少しだけざわついていた。

 発表が終わったあとの、緊張がほどけた緩い空気。椅子のきしむ音と、とりとめもない誰かの笑い声が混ざり合っている。

 藤井悠は、ノートを閉じながら小さく息を吐いた。

(早く終わんないかな……)

 ぼんやりと窓の外を眺めていた、その時だった。

「なあ、藤井ってさ」

 前の席の男子が、椅子を鳴らして振り返る。

「ススキノで歌ってるんだろ?」

 その一言で、周囲の空気がわずかに変質した。何人かの視線が、一斉に悠へ向けられる。

「ああ、まあ」

 曖昧に答える。

「マジで? すげえじゃん」

 その「すげえ」は、どこか軽薄で、珍しいペットを眺めるような響きを含んでいた。

「それってさ、プロ目指してるってこと? 紅白とか出たいの?」

 矢継ぎ早に質問が飛ぶ。

「いや、別にそういうわけじゃ……」

「え、じゃあ何? 趣味?」

誰かがクスクスと笑う。悪意はないのだろう。ただ、彼らにとってススキノという路上で歌うことは「大きな夢」か「暇つぶし」のどちらかでしかなく、その中間にあるグラデーションは見えていないようだった。

「テレビとか出たら教えてよ、サインもらうからさ」

「レコード大賞とか?絶対観るからな」

 そんな軽口が積み重なっていく。悠は視線を落とした。

(違うんだよ……)

 心の中で呟く。けれど、何が違うのかを言葉にしようとすると、指の間から砂がこぼれるように消えてしまう。プロになりたいわけじゃない。でも、単なる趣味と呼ぶには、あの夜の震えや、誰かと視線が合った瞬間の熱量はあまりに重すぎる。

「なんかさ、夢あるよな」

 男子が言ったその言葉が、喉元に刺さる。

 夢。確かにそうかもしれない。けれどそれは、もっと曖昧で、もっと現実的で、切実な「逃げ場」のようなものでもあるはずだ。

「……まあ」

 結局、また曖昧な笑みを浮かべてしまう。自分の言葉が、自分のものではない空虚な音に聞こえた。

 その時だった。

「ちょっとさ、それ、ちょっと違くない?」

 柔らかいけれど、芯の通った声が差し込まれた。

 高橋美咲だった。彼女は少し呆れたように笑いながら、男子たちを制した。

「何がだよ」

「プロとかテレビとかってさ、分かりやすいけど、それだけじゃないでしょ」

 美咲は少しだけ視線を泳がせ、言葉を探すように続けた。

「藤井くんのやってるのって、もっとこう……『生活の中にある』感じじゃない?」

「生活?」

「うん。その場で人と関わって、何かがちょっと変わるみたいな。一瞬でもさ、聴いてる人の気持ちが軽くなったりするじゃん。そういうのって、別にプロとか関係ないと思う」

教室が、不自然なほど静かになった。

 悠の中で、何かが音を立てて繋がった気がした。

 あの背中の丸いサラリーマン、足を止めてくれた高校生、名前も知らない聴衆たち。彼らとの間に流れたあの時間は、まさに美咲が言う通り、生活の延長線上にあった「救い」のようなものだった。

「まあ、確かに……そういうのもあるか」

 男子が少し決まり悪そうに言い、話題は別の方向へと流れていった。

次の講義の時間となり、人が次々と教室を出ていく。悠もゆっくりと荷物をまとめた。

「藤井くん」

 背後から声をかけられ、振り向くと美咲が立っていた。

「さっき、ごめんね。なんか、勝手に話しちゃって」

 少しだけ申し訳なさそうに笑う彼女に、悠は真っ直ぐ向き直った。

「いや……助かった。ありがとう」

 素直にそう言えた。美咲は少し驚いたように瞬きをし、それから花が綻ぶように笑った。

「よかった」

「なんかさ……自分じゃうまく説明できなかったから」

「うん、分かるよ」

 美咲の短い肯定が、何よりも深く心に染みた。

 沈黙。けれど、それはススキノの喧騒とも、先ほどまでの教室のノイズとも違う、心地よい静けさだった。

「今度さ」

 美咲が少しだけ遠慮がちに、けれど真っ直ぐな瞳で言った。

「また聴きに行っていい?」

「……うん。もちろん。来てよ。水曜日と木曜日は大体やっているから」

 迷いはなかった。

「じゃあ、またね」

 美咲が軽く手を振って去っていく。その背中を見送りながら、悠は窓の外の秋空を見上げた。

 全部を分かってもらえるわけじゃない。それでも、たった一人でも、自分の音を「生活の一部」として受け取ってくれる人がいる。

 それだけで、ギターを持つ理由としては十分すぎる気がした。

廊下を歩く悠の足取りは、先ほどよりも少しだけ地面を強く踏みしめていた。

 季節が変わり始めている。

 それはきっと、自分の中の「音楽」の在り方が、新しく形を成し始めた合図だった。

これまで、悠の音楽はススキノという「夜の街」の文脈で考え、歌い続けてきたが、この日から初めて「日常」という光の中に、その活動が引きずり出された気がした。

周囲の男子たちの「夢」や「プロ」といった、分かりやすく、それゆえに浅いラベリングに対し、美咲が「生活の中にある感じ」という言葉を添えてくれたことが何よりも嬉しかった。

それはこれまで一人で抱えてきた、名前のない情熱に初めて「正しい名前」が与えられた瞬間のように感じた。

悠にとっては、教室の浮ついた空気と、美咲との間に流れる静かで誠実な時間の対比を強調する出来事だった。

もう一度、美咲が去った教室に目をやった。今度会うときはどんな曲を聴かせよう。そんなことを考えながら。


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