#第十九章 届かない距離
場所を変えるということは、単に立ち位置をずらすことではない。
それは言葉にならないほどの「距離」を生み、二度と埋められない空白を作ることなのだ。この場所を卒業するリミットはとっくに来ている。そう感じながらも、悠はまだ迷っていた。慣れ親しんだアスファルトを離れ、別の地平へ移ることを。
そんな時に限って、その夜のススキノは、珍しく熱を帯びていた。
祝日前でもないのに通りはざわつき、ネオンの色もいつもより毒々しく、強く発光している。ギターを構え、最初の一音を弾いた瞬間、すでに数人の足が止まった。
(……なんだ、今日。どうしたんだ)
内心の動揺を隠し、歌い始める。いつもなら九割以上の人間が無関心に通り過ぎていく。立ち止まるのは、せいぜい数人。それがこの場所の「日常」だった。
けれど、今日は違った。
二曲目に入る頃には、人の輪は目に見えて膨らんでいた。五人、七人、それ以上。誰かがスマートフォンを向け、小さな拍手が起きる。その乾いた音が呼び水となり、さらに次の人を呼び寄せる。連鎖反応のように、少しずつ、けれど確実に輪が広がっていく。
(……すげえな)
高揚感が指先に伝わる。声が自然と乗り、無理に張り上げなくても夜の闇に吸い込まれていく。流れに乗るように歌える、奇跡のような夜。
だからこそ――意識が、わずかに浮ついた。
歌いながら、ふと視線を外したときだった。
黒山の人だかりの隙間。その向こう側に、見覚えのある細いシルエットが立っていた。
夜の闇に溶け込むような深い色の服。肩にかかる、しなやかな髪。
(……アゲハ)
心臓が跳ねた。彼女は少し離れた場所から、こちらをじっと見つめていた。いつもの、少しだけ悪戯っぽく笑ったような表情。
目が合った。ほんの一瞬。
アゲハが、軽く手を上げた。何かを伝えようとするかのような、微かな仕草。
けれど。
その瞬間に、人の波が二人の間を割って入った。
最前列の客がリズムに合わせて動き、誰かがギターケースにコインを投げ入れる。
「いいですね、お兄さん!」
投げかけられた称賛の言葉。意識をそっちに引き戻される。
歌を止めるわけにはいかない。
リズムを崩すわけにもいかない。
その、プロ意識とも臆病ともつかない一瞬の迷いの間に、距離は絶望的なほど開いてしまった。
もう一度、必死に視線を泳がせる。
アゲハは、少しだけ困ったように、寂しそうに笑っていた。それから、小さく肩をすくめてみせる。「仕方ないよね」と、無声の言葉を投げかけるように。
一言、悠の方を見ながら、口の動きが「いいね」と言っているように見えた。
そのまま彼女は踵を返し、人混みの中へと紛れていった。ゆっくりと、けれど確実な足取りで。
(……あ)
今すぐ歌を捨てて、彼女を追いかけたい。
けれど、声は出ない。歌い続けているから。
今ここで止まってしまったら、自分が積み上げてきたすべてが嘘になってしまう気がした。
一曲が終わる。
今までで一番大きな拍手が沸き起こった。けれど、その音は分厚いガラス越しに聞いているように、やけに遠く、虚しく響いた。アゲハの姿は、もうどこにもなかった。
三曲目に入る。
観客は減るどころか、むしろ増えていた。いつもなら、これ以上ない成功に酔いしれていたはずだ。
けれど、集中できない。歌いながら、さっきの光景が何度も脳裏にフラッシュバックする。
目が合った瞬間。上げた手の小ささ。そして、あの、諦めたような微笑。
(……なんで今なんだよ)
毒づくような思いが胸を突く。
こんなに人がいる夜に限って。こんなに、歌がうまくいっている夜に限って。
会えそうで、会えない。手を伸ばせば届きそうで、指先さえ触れられない。
その物理的な距離が、今、自分たちが立っている世界の「断絶」を残酷なまでに物語っていた。
歌い終わる。また拍手が起き、コインが乾いた音を立てて積み重なる。
「よかったです」「頑張ってください」
心ない、けれど温かい善意の声。それらすべてをちゃんと聞きながら、悠はギターのネックを強く握りしめた。
次の曲に入るために、深く息を吸う。
夜の冷気が喉を焼く。
その中で、一つだけ確信していた。
さっきの距離は、偶然のいたずらなんかじゃない。
自分が「歌」という道を選び、一歩踏み出した代償として、失われゆくものの象徴だったのだ。悠は唇をかみしめながら循環コードのエイトビートを延々とかき鳴らし、切ないメロディーを奏でていた。
彼女と交わらないまま、時間は過ぎていった。
最後の曲に入るころには、風はさらに尖り、肌を刺す冷たさを帯びていた。
人の流れは、まだ途切れない。むしろ入れ替わりながら、夜の深まりとともに熱を増していく気さえする。路上に立つ者にとって、これ以上の「いい夜」はないはずだった。
それなのに――どこか、心が追いつかない。
ギターの弦を弾く指先は、以前よりずっと正確で、迷いがない。けれど、魂だけが少し遅れて、さっきの光景に足を取られていた。
(……もう、いないよな)
分かっている。けれど、無意識のうちに視線は人混みの隙間を、あの細いシルエットを探してしまう。歌いながら、ほんのわずかに顔を上げた。
ネオンの毒々しい光の下。交差点の向こう側。
そして――。
(……いた)
心臓が音を立てる。街灯の白っぽい明かりに照らされて、アゲハが立っていた。
けれど、さっきとは違った。
彼女の隣には、仕立てのいい茶色いスーツを着た男がいた。客だと、一目で分かった。適度な距離感と、洗練されたエスコート。アゲハは笑っていた。それはあの店で見せるのと同じ、完璧に整えられた「仕事の顔」だった。
男の話に相槌を打ち、うなずきながら歩く。その途中で、彼女はふと顔を上げた。
視線が、真っ直ぐにこちらへ向く。
一瞬、止まる。
目が合う。
ほんのわずかな、刹那の時間。
けれど、それで十分だった。アゲハの瞳の奥が、ほんの少しだけ柔らかく揺れる。氷が溶けるような、一瞬の素顔。
でも――。
彼女はすぐに前を向いた。隣の男に向き直り、何かを囁いて軽く笑う。そのまま、夜の奔流の中へ。ネオンの色彩が渦巻く向こう側へ。
人の波に紛れて、静かに、そして鮮やかに消えていった。
(……そっか)
その瞬間、妙にすんなりと腑に落ちた。
追いかけようとは思わなかった。呼び止めようとも思わなかった。ただ、見送った。
歌いながら。最後のフレーズを、一音たりとも疎かにせず、きちんと歌い切りながら。
曲が終わる。
拍手が起きた。今日一番の、地鳴りのような大きな音。
「よかったです」「また聴きたいです」
重なり合う声。ギターケースの中でジャラリと鳴るコインの音。間違いなく、最高の夜だった。
ゆっくりと、肺の底にある空気をすべて吐き出した。
ギターを下ろす。観客たちが少しずつ散っていき、さっきまでの熱気が夜の冷気に吸い込まれていく。その静寂の中で、一つの確信が胸に落ちた。
(……交わらないんだな)
自分はここで歌い、現実と格闘し始めた人間。
アゲハは、あの夜の世界で戦い、生き抜いている人間。
同じ夜の空気を吸っていても、同じ場所ですれ違っても、二人の引く線は、決して簡単には重ならない。
さっきの距離は、偶然ではなかった。それは、最初から決まっていた「階層」の距離だったのだ。
けれど――不思議と、寂しさだけではなかった。
あの人は、あの場所でちゃんと生きている。
自分も、ここでちゃんと立っている。
それぞれの場所で、それぞれのやり方で。
ほんの少しだけ交わって、また離れていく。それがこの街――ススキノという場所が持つ、潔い関係性なのだ。
ギターケースを閉じる。ジッパーの乾いた音が、夜の終わりに響いた。
遠くで誰かの笑い声がし、タクシーが排気音を残して走り去る。ネオンは相変わらず、無関心に明滅を繰り返している。
悠は立ち上がった。
ギターの重みを感じながら、少しだけ背筋を伸ばす。
(……悔いのないように、やろう)
自分の場所で。自分のやり方で。
誰かと溶け合わなくてもいい。それでも、あの視線が交わった一瞬に、確かに繋がったものがあった。
そう思えただけで、十分だった。
重い足取りは、一歩、夜の向こう側へと踏み出した。




