#第十六章 帰る場所と、はじまりの歌
久しぶりの実家は、変わっていないはずなのに、昔住んでいた時より狭く感じた。
札幌から電車で一時間ほど。帰ろうと思ったらいつでも帰れるし、大学に通おうと思ったら通える距離だ。でも、なぜか足は遠のいている。荷物を取りに来たという建前がなければ、帰るのも躊躇うくらいに。見慣れたはずの街並みが、どこかよそよそしい。玄関を開けると、飼い犬が千切れんばかりに尻尾を振って飛びついてきた。
「お、おい……久しぶりだな」
その無邪気な熱量に、張り詰めていた心が少しだけ解ける。
「悠、帰ってきた?遅かったわね」
「……ああ」
「ちょうどご飯できたから、食べなさい」
母との短いやり取り。変わらないはずの家なのに、どこか居心地の悪さがつきまとう。
リビングでは父がテレビを眺めていた。
「元気か」
「まあ」
沈黙。テレビの音だけが虚しく流れる。食卓に座り、母が並べた「いつもの味」を口に運ぶが、どうにも味がしない。
「最近聞かなかったけど、大学、どうなんだ。もう四年も終わりだろ」
父の言葉に、箸が止まる。
「そろそろ考えないとな。就職のこととか」
母も続く。「何か考えてるの?」
逃げ場のない問い。悠は視線を落とし、「……まあ、ぼちぼち」と濁した。
「ぼちぼちって、具体的にだよ」
父の語気がわずかに強まる。その一言が、鉛のように重く響く。
頭の中に浮かぶのは、ススキノのネオン。ギターの硬い感触。けれど、それをこの食卓で言葉にできるはずもなかった。
「……まだ、ちゃんとは」
「お前な。好きなことをやるのはいいが、ちゃんと現実も――」
「わかってるよ」
「父さんたちがアテ探そうか?間違ったことは言ってないだろ?」
「ごちそうさま」
遮るように立ち上がる。椅子の脚が床を叩き、乾いた音が響いた。背中に刺さる両親の視線を振り切るように、悠は自分の部屋へ逃げ込んだ。
部屋の中は、時間が止まったようだった。
古いロックバンドのポスター、読み古した小説と漫画の本棚。ドアを閉めると、ようやく外の世界から切り離された気がして、ベッドに深く腰を下ろした。
(正しいからこそ、苦しいんだよ……)
ため息が、埃っぽい空気に溶ける。
床が、きしむ音を立てた。
それすら、今の悠には懐かしい。
しばらくの間、仰向けになって実家の天井を見上げる。
何の変哲もない、白い天井。高校の頃、進路に悩みながら、あるいは何も考えずに、ここで何時間もギターを弾いていた。ただ、楽しくて。ただ、歌いたくて。
そんな無垢な記憶が、埃の舞う光の中でぼんやりと浮かぶ。
目を逸らすように立ち上がり、壁際の本棚に手を伸ばした。
昔の教科書、流行遅れの雑誌、読みかけで止まった小説。その奥に、少し埃をかぶった透明なプラスチックケースを見つけた。
(……なんだ、これ)
引き出してみると、そこには少し色あせた文字でラベルが貼ってあった。
――『文化祭ライブ』。
「ああ……」
思わず声が漏れた。高校三年の学校祭。軽音楽部のステージ。初めて、人前で「自分」としてマイクの前に立った日だ。
悠は机の上の古いプレーヤーに、少し傷のついたDVDを入れた。電源を入れると、低い駆動音とともに画面がゆっくりと明るくなる。
粗い映像。激しく揺れるカメラ。体育館特有の反響音と、ざわつく観客。
そして――画面の中に、若すぎる自分が映し出された。
(……茶髪、明るすぎだろ)
思わず苦笑する。今より無造作な髪型で、緊張に肩を固くしてマイクスタンドの前に立っている。隣には、今はもう連絡も取らなくなった仲間たちの顔。
カウントが入る。曲が始まる。
最初の一音目。……盛大にコードを外した。
「……うわ、痛い」
思わず顔をしかめる。テンポは走り、リズムも甘い。ピッチも不安定で、高い声はかすれている。客席からは、身内ノリの小さな笑い声さえ聞こえてくる。
下手だ。今の悠からすれば、直視できないほどに。
けれど、目が離せなかった。
映像の中の自分は、一度も下を向かなかった。誰にどう思われるかなんて一ミリも考えていないような顔で、ただ必死に、喉を震わせていた。
(……なんだよ、これ)
上手く歌おうなんてしていない。ただ、歌いたいから歌っている。そのあまりにもシンプルで強力なエネルギーが、画面越しに熱を持って伝わってくる。
サビに入り、声が一段と大きくなる。汗をかきながらも、不安定だけど、真っ直ぐ。客席で誰かが手を叩き、仲間が笑う。その空気が、体育館を支配していた。
映像がノイズに変わり、部屋に静寂が戻る。
悠はしばらく動けなかった。暗くなった画面に、今の自分の顔が映り込む。
(……なんでだろうな)
小さく息を吐く。
今の自分の方が、ずっと上手い。音も安定しているし、テクニックもある。
それなのに、画面の中の「下手くそな自分」の方が、少しだけ強く見えた。
(……ああ、そうか)
ふと、腑に落ちた。
自分はいつの間にか、「どう見られるか」ばかりを気にして歌っていなかったか。
歌う理由なんて、最初から一つしかなかったはずなのに。
悠は吸い寄せられるようにノートを引き寄せた。ペンを取る。
『夕立ちに染みるアスファルト――』
書く。言葉が、せきを切ったように溢れ出す。
『焼けた匂い、懐かしい香りが――』
『なんとなく胸の深くで 忘れたくないと――』
あの頃の自分と、今の自分が、ススキノの夜と実家の静寂の中で重なっていく。
『暮れてゆく街の片隅で、ギター片手に歌う毎日が――』
『流れ行く人混みの中、何かを投げかけてあげられるかな――』
書きながら、気づく。
これは新しい曲じゃない。ずっと自分の中にあった、形にならない叫びだったのだ。
誰のためか、自分のためか。そんな境界線はどうでもいい。
ただ、歌いたいから歌う。それが全部だった。
ペンを止め、ページを見つめる。
確かに、繋がった。あの頃の衝動と、今の覚悟が。
悠はゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。
都会とは違う、土と草の匂いが混じった夜の空気が入り込む。
ギターを手に取り、軽くコードを鳴らす。
さっき書いたばかりの言葉を、メロディに乗せて呟いてみる。
(……いけるな)
迷いは、もう霧散していた。
誰かに聴かせるために。そして、自分自身に確かめるために。
悠はもう一度、弦を弾いた。
その音は、体育館で鳴らしたあの音よりも深く、そして確かに、未来へと繋がっていた。
ふと、部屋の隅に目が留まった。ケースに入ったままの、高校時代のギター。近所のギターショップで買った入門用の安いアコースティックギター。大学に入ってからはバイトでためたお金で中古で10万円くらいの黒のエレアコを購入したが、思えばススキノデビューはこのギターだった。
吸い寄せられるように立ち上がり、ケースを開ける。錆びた弦の匂い。指先で弾くと、鈍く、けれど懐かしい音が鳴った。
自然とコードが繋がっていく。頭の中に、あの雨上がりの夜が蘇る。
「……夕立ちに染みるアスファルト」
小さく、独り言のような歌が漏れる。
「焼けた匂い、懐かしい香りが――」
止まらなかった。言葉が、濁流のように溢れ出す。アゲハの冷たくも優しい声、サラリーマンの疲れた背中、カップルたちが行きかう、あの交差点の喧騒。バラバラだったピースが、一本の旋律に吸い込まれていく。
「ギター片手に歌う毎日は、流れ行く人混みの中――何かを投げかけてあげられるかな」
それは、ただの逃避ではなかった。自分があの場所に立ち続けていた意味。誰かに、そして自分自身に投げかけたかった「何か」が、今、ようやく指先から音になって零れ落ちていた。
「……シングアソング」
タイトルを呟いてみる。しっくりきた。ただ「歌え」という、それだけの、けれど絶対的な肯定。
実家という「過去の自分」が詰まった場所で、父の正論に傷つきながらも、古いギターを通じて「今の自分」の言葉を掬い上げた。そして札幌の四畳半で、壁を叩かれるほどの熱量を持って一曲を書き上げようと思った。
泊っていけばいいのにという母の言葉を背に、荷物取りにきただけだからと言って家を出た。終電で札幌に戻る電車の中でも、そのメロディは胸の奥で鳴り止まなかった。
アパートのドアを開け、四万円の狭い空間に滑り込む。靴も玄関に脱ぎ散らかしたまま、ストラップを肩にかけた。
「忘れる前に、全部……」
ノートを広げ、ペンを走らせる。書いちゃ消し、弾いちゃ止め。時間の感覚が消え失せ、意識はただ「一曲の完成」へと研ぎ澄まされていく。
コン、コン、と壁を叩く音がした。深夜の騒音への警告。
「……すみません!」
慌てて謝るが、手は止められない。今、この糸を切ったら、二度と手繰り寄せられない気がした。ボリュームを絞り、囁くように、けれど魂を削るように言葉を紡ぐ。
「さっきまで疲れたビジネスマンも、綺麗なお姉さんも、少し心晴れるかな」
「一粒ビタミンカプセルを、飲み込んで元気が出るイメージ」
完璧じゃなくていい。正しい日本語じゃなくてもいい。ただ、届くイメージがあればいい。
再び、壁を強く叩く音。
「すみません……!」
もう、後には引けない。最後の一行が、喉の奥まで来ている。
「気休めでもそう思ってりゃ、雨降る空の下、誇れるでしょう」
「風吹く街にも迎えるでしょ。擦り切れたブーツで走りましょう」
歌い切った瞬間、部屋を支配したのは、満たされた静寂だった。
心臓の鼓動だけが、熱く耳元で跳ねている。
(……できた)
ノートのタイトル欄に『シングアソング』と書き込む。その文字が、自分という人間をこの世界に繋ぎ止める楔のように見えた。藤井悠という人間の証明を。誰のものでもない自分自身のオリジナルを示したかったのかもしれない。
将来はまだ見えない。両親との溝も埋まっていない。
けれど、逃げずに向き合った結果が、この一曲の中に確かに息づいている。
悠はベッドに倒れ込み、天井を見上げた。耳の奥で、世界でたった一つの自分の歌が、何度も、何度も、優しくリフレインし続けていた。




