#第十五章 同じ場所、違う音
その変化に気づいたのは、ほんの些細な違和感からだった。
水曜日の夜。いつもの交差点に向かう道すがら、悠はふと足を止めた。
ギターの音が、聞こえる。
(あれ……?)
自分以外の誰かが弾いている。弾いているのは蒼でもない。珍しいことではないが、その響きはやけに近く、そして「あの場所」から聴こえてくる確信があった。
角を曲がると、見慣れた景色の中に、見慣れない背中があった。
若い。おそらく自分より二つか、三つは下だろう。細い体に大きめのパーカーを羽織り、足元は履き古したスニーカー。開かれたギターケースが、持ち主の期待を映すようにアスファルトに口を開けていた。
悠は少し離れたところで立ち止まり、その音に耳を傾けた。
曲はオリジナルらしかった。コードワークはまだ粗く、声も高音でわずかに震えている。けれど、足を止めている人がいた。二人、三人。
(……ああ)
理由はすぐに分かった。自分と同じだ。ここで歌い始めた頃の自分と同じ、拙いけれど「止まらない音」を放っている。
曲が終わると、小さく、けれど温かな拍手が起きた。観客の一人が、吸い込まれるように小銭を落とす。男の子が照れくさそうに、何度も深く頭を下げる。その一連の動作まで、どこか既視感があった。
(ここ、俺の場所だって、勝手に思ってたな)
ふと、自嘲気味な思考がよぎる。誰に決められたわけでも、許可を得たわけでもない。ただ、水曜と木曜、同じ時間、同じ場所に立ち続けてきた。その積み重ねが、いつの間にかこの四角い空間を“聖域”のように錯覚させていたのだ。
けれど、本当はただの交差点だ。誰でも立てるし、誰でも歌える。街は誰の所有物でもない。
悠はゆっくりと歩き出し、いつもの位置から少しだけ距離を取って立った。ケースからギターを取り出す。
パーカーの少年が、ちらりとこちらを盗み見た。一瞬だけ目が合う。少年は、自分の縄張りを侵したかもしれないというような、気まずそうな顔をした。
悠は短く、軽くうなずいてみせた。それだけで十分だった。
少年はまた前を向き、勢いよく弦を鳴らした。悠も、静かにギターを構える。
二つのギター、二つの声が、同じ夜の空気の中で鳴り始める。ネオンの下で、違う旋律が不規則に重なり合った。
(こうやって、増えていくんだな)
ふと思う。自分がこの文化を始めたわけではない。そして、自分で終わらせるものでもない。ただ、川の流れのように、表現者たちが入れ替わり立ち代わり、この場所に音を置いていくだけなのだ。
曲を弾きながら、悠は自らの内側へ意識を向けた。
スマホには就活のメールが溜まっている。書きかけのエントリーシート、志望動機の欄はまだ空白のままだ。「当たり前のように働く」「普通に生きる」。それらはもう、対岸の火事ではなく、すぐそこまで迫っている現実だった。
(やめるのか、弾き語りを)
(それとも、続けるのか)
答えはまだ、霧の中にある。けれど、アゲハの言葉が、耳の奥でリフレインした。
『――最後まで考えて、選びなよ』
そして、かつてかけられた、もう一つの言葉。
『――最後まで歌える人になりなよ』
視線を上げると、隣で歌う少年が、喉を震わせて精一杯の声を張っていた。不安定で、危うくて、けれど真っ直ぐな声。その必死な姿に惹きつけられ、また誰かが足を止める。
(ああ……)
ちょっとだけ、分かった気がした。
ここに立ち続ける理由も、ここから離れる理由も。どちらも嘘ではなく、どちらも自分にとっての真実なのだ。歌うのは決して路上だけではない。
曲の最後のコードを、深く鳴らした。残響が夜の湿り気に溶けていく。
拍手は、さっきよりも少しだけ小さかった。けれど、不思議とそれでいいと思った。満足感とも諦念とも違う、凪のような心地よさがあった。
悠はギターを下ろし、少年の音を聴きながらケースを閉じた。
パチン、と金具が閉まる音が、静かに、けれど明確に響く。
その音は、一つの物語の終わりを告げる弔鐘のようでもあり、新しい何かが始まる合図のようにも聞こえた。
同じ場所。違う音。
それでいいのだ。悠はゆっくりと息を吐き、静まり返った自分のケースを持ち上げた。




