#第十四章 第二の夜、揺れるネオン
その夜のススキノは、少しだけ湿っていた。
日中に降った雨のせいで、アスファルトが鏡のように黒く光っている。藤井悠は、いつもの場所に立っていた。
水曜日。人通りは多いが、足を止める者はまばらだ。ギターを構え、コードを鳴らす。音の粒は以前より安定してきたが、それでもまだ、夜の喧騒に抗うにはどこか頼りなかった。
(まあ、こんなもんか……)
自分に言い聞かせるように歌い出す。雨に濡れた路面の匂い、夕立のあとに残る独特の熱気と湿り気。言葉になりかけて、まだ形にならない「何か」が胸の内でうごめいていた。
そのときだった。
「……まだ、いたんだ」
聞き覚えのある、少しハスキーな声。振り向くと、そこにアゲハが立っていた。
黒いワンピースに、薄いコートを羽織っている。ヒールの音が少しだけ不規則で、歩き方がいつもより揺れていた。
「……久しぶり」
悠が声をかけると、アゲハはふっと、いたずらっぽく笑った。
「久しぶり、だね」
言葉のあと、彼女はそのまま悠のすぐ横に、重力に身を任せるようにしゃがみ込んだ。
「……ちょっと、酔ってる?」
「うん。ちょっとだけね」
膝に肘をつき、両手で頬を包む。いつもの凛とした余裕とは違う、どこか毒気の抜けた、無防備な姿だった。
「歌ってよ」
小さな、甘えるような響き。悠は戸惑いながらも、吸い込まれるようにギターを構え直した。
「何がいい?」
「さっきの、続き」
曖昧なリクエストだった。けれど、不思議と正解が分かった。
さっきまで頭の中で鳴っていた、形にならない歌の断片。悠はゆっくりと弦を爪弾き、静かなイントロを紡ぐ。そして、夜の湿り気に声を乗せた。
「……夕立ちに染みるアスファルト。焼けた匂い、懐かしい香りが――」
言葉が、自分でも驚くほど自然に溢れ出す。アゲハは静かに目を閉じ、ただ聴いていた。
「なんとなく胸の深くで、忘れたくないと――」
歌いながら、自分の中の霧が晴れていくのを感じる。暮れていく街、人の流れ、ここで積み重ねてきた孤独な時間。すべてが血の通った言葉に変わっていく。
歌い終えると、アゲハはゆっくりと目を開けた。
「……いいじゃん」
短いが、その声には以前とは違う確かな重みがあった。
「本当?」
「うん。前より、いろんなものを“見てる”感じがする」
「見てる?」
「そう。街も、人も。……自分も」
アゲハは立ち上がろうとして、少しだけふらついた。悠が思わず手を伸ばすと、彼女はその腕に軽く寄りかかった。
「……ありがと」
心臓の音が聞こえそうなほど、距離が近い。ほんの一瞬、世界から音が消えた。けれど、彼女はすぐに身体を離した。
「ふふ、悠はいい男になるねぇ」
「茶化さないでよ」
「真面目に言ってるんだよ」
「そっか……ありがと」
「モテるんだろうね」
「モテないよ。本当に」
「えーもったいない。かっこいいのにね」
「そんなことないよ」
「優しいしね」
「そうでもないよ」
「まぁ、優しすぎるのも罪だよ」
アゲハはにやにやしながらも、二人の間でしばらく沈黙が流れた。
「ねえ」
アゲハの声は少しだけ真面目なトーンに変わった。
「悠は、このまま続けるの?」
逃げ場のない、真っ直ぐな問い。
「……分かんない。就活もあるし」
「だよね。……で、真剣に将来を考えてる?」
言葉が詰まった。向き合っているつもりで、その実、答えが出るのを先延ばしにしているだけではないか。自信のなさが沈黙に変わる。
アゲハは小さくため息をつき、ネオンが揺れる街並みを見渡した。
「あのさ、悠。この街って優しいようで、全然優しくないから。立ってるだけじゃ誰も拾ってくれないし、ちょっといい感じでも、すぐに埋もれて消えちゃう」
彼女の横顔を、赤や青の光が冷たく照らし出す。
「選ばないと、流されるよ。続けるのか、やめるのか。中途半端が一番しんどいから」
悠は何も言い返せなかった。その通りだと思った。
アゲハはふっと肩の力を抜いて笑った。
「……ごめん、説教っぽいね」
「いや……」
「でもさ」
彼女はもう一度、顔を近づけてきた。柔らかい香りと、温かい声。
「いいと思うよ、その歌。きっとそのまま続けたら、いつか何かの形になる気がする」
それは厳しさの裏にある、不器用な慈愛だった。
「だから。最後まで考えて、選びなよ」
アゲハは背を向け、去っていった。ヒールの音が夜の喧騒に溶け、少しずつ遠ざかる。悠はただ、その背中を見送ることしかできなかった。
けれど――。
胸の奥には、確かな熱が残っていた。
(最後まで考えて、選ぶか)
その言葉を、何度も自分の中で繰り返す。
ギターを持ち直し、弦に触れる。
さっきよりも、少しだけ強く、深く。
街は変わらず流れ、ネオンは無関心に揺れている。
けれど、悠の中の時計の針は、この夜、確実に新しい一秒を刻み始めていた。




