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#第十三章 それでも残る音

 次の週の弾き語り、最初から何もうまくいかなかった。

 弦を弾いた瞬間に、指先から伝わる感覚で分かる。

(あ、ダメだな……)

 二小節ごとにコードチェンジを繰り返すフレーズを弾いてみたが、指がコンマ数ミリずつズレる。声も、感情の波に乗ってこない。無理やりピッチを合わせようとするほど、歌は生気を失い、ちぐはぐなまま進んでいく。

人は止まらない。視線すら向かない。ただの背景音として、自分の音が夜の流れに埋もれていく。歌い終わっても拍手はなく、コインの音もしない。ただ、無機質なネオンだけがいつも通りに街を照らしていた。

(……もう、いいか)

 ふいに、投げやりな言葉が浮かぶ。けれど、すぐには動けなかった。ギターを抱えたまま、舞台から降りられない役者のように立ち尽くす。

 足元のアスファルトを見つめていると、視界の端で一足の靴が止まった。手入れの行き届いた、黒い革靴。

「……悠?」

 名前を呼ばれ、顔を上げる。そこにいたのは、見覚えのある顔だった。

「……坂本?」

 高校の同級生だ。進学クラスで、机を並べて受験勉強をしていた奴。いつも模試で上位に名を連ねていた、スマートな男。

「やっぱり」

 坂本は少し驚いたように、けれど余裕のある笑みを浮かべた。

「こんなところで何してんの?」

 悪気はない、純粋な疑問。それが逆に、今の悠には鋭く刺さった。

「……見ての通り」

 ギターを軽く持ち上げてみせる。坂本はわずかな沈黙のあと、「へえ……すごいな」と言った。本気で感心しているのか、それとも単なる社交辞令なのか、判別がつかない響きだった。

「まだ、音楽やってんだ」

「まあね」

 短く答える。気まずくはないが、決定的な距離があった。

「俺、今さ。商社のインターンに受かって」

 坂本が近況を語り出す。

「忙しいけど、結構楽しいよ。世界が広がる感じがしてさ」

 そう言って笑う彼の顔は、高校の頃と変わらない。ただ、立っている場所が決定的に違っていた。

「そっか。よかったな」

 悠はうなずく。それ以上、言葉が続かない。

「悠は、このまま音楽やる感じ?」

 不意に、真っ直ぐな問いが飛んできた。逃げ場のない質問。

「……いや。まだ、分かんない」

 それが精一杯の正直な答えだった。坂本は「そっか」とだけ言い、それ以上は踏み込んでこなかった。

「まあ、お互い頑張ろうな。じゃあ」

 軽く手を上げ、坂本は去っていった。人混みの中へ、迷いのない足取りで。

(……俺、何やってんだろ)

 取り残された路上の隅で、さっきの会話が何度も頭の中でリフレイドする。

 商社。インターン。将来。自分には縁のない言葉たち。

(このままで、いいのか?)

 自問しても、答えは返ってこない。代わりに蘇るのはアゲハのあの声だ。

『最後まで考えて選びな』

 選ぶ、とは何なのか。続けるのか、辞めるのか。どちらの道も、今の悠には等しく恐ろしかった。

 その場にしゃがみ込み、ギターを膝に置く。夜の喧騒が遠くに聞こえる中、しばらく動けずにいた。

ふと、別の音が鼓膜を揺らした。ギターの音。

 顔を上げると、少し離れた場所で蒼が歌っていた。

 以前よりも格段に良くなっている。声は通り、リズムは確かな重みを持ち、何より人を惹きつける熱がある。

 拍手。笑顔。コインの音。悠が欲してやまなかった光景が、そこには当たり前のように存在していた。

(……本当にすげえな)

 もう、純粋にそう認めるしかなかった。同時に、一つの考えが静かに、滑り込むように浮かぶ。

(……もう、俺じゃなくてもいいのかな)

 悔しさよりも先に、凪のような諦念が訪れた。

(あいつがいれば、この場所は続いていく。俺がいなくても、何も困らない)

 そんなふうにさえ思えてしまった。

立ち上がり、ギターを背負う。足は自然と逆方向――スポットライトのような街の光が届かない、暗い路地の方へと向いた。一歩、踏み出す。

 その時だった。

蒼の声が、風に乗って届いた。

 それはまだ未完成の、拙いオリジナル曲。けれど、そこには間違いなく「あいつ自身の音」が宿っていた。

 その音が、悠の胸の奥深くに引っかかる。

(……なんだよ)

 小さく舌打ちをして、もう一歩進もうとした。けれど、足が動かない。

 振り返ると、蒼が真剣な面持ちで歌っている。その姿が、眩しくてたまらなかった。

(俺も、ああだったよな)

 初めてこの場所に立った夜。何も持っていなかったけれど、ただ歌うことだけで世界と繋がれると信じていた。それだけで充足していたはずの夜。

辞める理由は、いくらでも見つかる。坂本の成功、自分の才能の限界、将来への不安。

(でも――続ける理由は?)

 初めて自分に問いかけた。今までは「やめられない」から続けていただけだった。けれど今は、自らの意志で「選ぶ」ための理由が必要だった。

答えはまだ、出ていない。

 けれど、胸の奥で燻る小さな熱は、まだ完全には消え去っていなかった。

 それだけは、痛いほどはっきりしていた。

悠はゆっくりと息を吐き出した。

 八月の夜風は、いつの間にか少しだけ冷たくなっていた。


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