#第十二章 独り、八月の風に吹かれて
八月も後半に入ると、夜の空気が少しだけ変わった。大学もそろそろ四年生の後期になる。
湿った熱気が引き、代わりに乾いた風が街に混じり始める。季節が確実に歩みを進めているのが、肌を通してはっきりと伝わってきた。
けれど――自分の中だけは、どこかぬかるみに足を取られたまま、一歩も動けずにいた。
「悠さん、ここってこうですか?」
蒼がギターを抱えたまま、左手の指板を見せてくる。コードの押さえ方が、わずかにズレている。
「そこ、もうちょい指を寝かせたほうがいい」
悠は蒼の手に自分の手を添えて、指の角度を微調整した。
「……こんな感じ」
「あ、なるほど……」
蒼が何度か試すと、さっきまで濁っていた音が、すっと澄んだ響きに変わった。
「うわ、全然違う。やっぱり悠さんはすごいな」
蒼は素直に驚き、何度も頭を下げる。その真っ直ぐな反応は、どこか以前の自分を見ているようで、悠にとっても悪い気分ではなかった。
出会ってから数週間、蒼は目に見えて「化けて」いった。
コードチェンジは淀みなく滑らかになり、リズムには太い芯が通り、歌声に迷いがなくなった。そして何より――。
蒼の歌に足を止める人が、明らかに増え始めていた。
(……すげえな)
最初は、純粋にそう思っていた。自分が教えたことが形になり、他者に届く。それは表現者としての喜びとはまた別の、誇らしい充足感だった。
けれど、ある夜。
ふとした瞬間に、逃れようのない違和感が悠を襲った。
蒼の周りには、すでに五、六人の輪ができている。彼らは笑顔で、あるいは真剣な眼差しで蒼の歌を聴き、スマホを向け、曲が終わるたびに温かな拍手を送っていた。チャリン、というコインの音も絶え間なく響いている。
その少し離れた場所で、悠は歌っていた。
いつもと同じ場所で。いつもと同じ曲を。いつもと同じように。
けれど――人が、止まらない。
一瞬だけ足を緩める者はいても、視線を向けることなくそのまま夜の闇へ消えていく。
歌いながら、視界の端で蒼を見る。拍手が起きる。
(……あれ?)
一瞬、リズムが狂った。すぐに立て直したが、一度切れた集中は二度と戻らなかった。
歌い終わっても、拍手はない。コインの音もしない。ただ、無機質な人の流れが足元を通り過ぎていくだけだ。その群衆の足音が、心臓の鼓動よりも大きく耳に響いた。
「お疲れ様です!」
蒼が近づいてくる。いつもの屈託のない笑顔。けれど、今の悠にはその輝きが眩しすぎて、直視できなかった。
「さっきの曲、めっちゃよかったです。やっぱりオリジナルは深みが違いますね」
本気で、一点の曇りもなく言っているのが分かる。だからこそ、喉の奥が焼けるように熱かった。
「……ありがと」
短く返し、逃げるように視線を逸らす。蒼は気づかない。
「最近、少しずつ人を止められるようになってきて。……あ、でもまだ全然ですけど!」
その「全然」が、もう「全然」ではないことを、悠は誰よりも理解していた。
「いいじゃん」
それ以上、言葉が出てこなかった。
その夜の帰り道、ギターケースがやけに肩に食い込んだ。
いつもと同じ重さのはずなのに、足取りは泥の中を歩くように重い。
(なんだこれ……)
自分に問いかける。分かっている。本当は、痛いほど分かっているのだ。
(別に、いいだろ。聴いてくれる人の数なんて、本質じゃない)
心の中で精一杯の言い訳を並べる。けれど、瞼を閉じればあの光景が残酷に焼き付いている。
蒼の前の熱気と、自分の前の冷え切った、何もない空間。
アパートに戻り、ギターをスタンドに立てかける。ソファに座り込んだまま、しばらく動けなかった。
時計の針が刻む音だけが、静かな部屋に無情に響き渡る。
(……歌うか)
苛立ちを振り払うようにギターを手に取る。弦を弾く。
けれど、音が濁った。もう一度弾く。マシにはなったが、どうしても「これだ」という響きにならない。歌い出しても、声が上滑りして、心に落ちてこない。
(……なんだよ、これ!)
激情に近い苛立ちが湧き上がる。何度も、何度も繰り返す。けれど、歌えば歌うほど、音は正解から遠ざかり、バラバラに崩れていく。
途中で手を止め、深く、長く息を吐いた。
(こんなはずじゃなかった)
何がズレてしまったのか、分からない。技術の限界か、気持ちの枯渇か、あるいはその両方か。
ふと、壁に立てかけてある最初の一本に目が留まった。路上に立ち始めた頃の自分。
(……いつからだ)
こんなふうに、音が自分を裏切るようになったのは。
思い出そうとしても、霧がかかったようにぼんやりとしている。ただ、少しずつ、少しずつ、気づかないうちに歯車が狂い始めていたことだけは確かだった。
外では、秋の入り口を告げる風が吹いている。
世界は変わり続けている。蒼も、街も、季節も。
けれど、自分だけが取り残され、出口のない迷路を彷徨っている。
悠はギターを、そっと横に置いた。
乾いた音が、やけに虚しく、いつまでも部屋の隅で鳴り響いていた。




