#第十一章 スーツの裏側、ギターの表
「自己PRを、もう一度お願いします」
面接官の声は、終始穏やかだった。その穏やかさが、逆に埋めようのない距離を感じさせる。
「はい」
悠は震えるようにうなずき、頭の中で用意してきた言葉の羅列をなぞった。
「私は、継続力があり――」
言いかけて、ほんの少しだけ喉が詰まる。
(違うな)
直感的にそう思った。けれど、もう止まれなかった。
「大学では、継続して弾き語りの活動をしており、街中での活動を通じて、多様な人と関わり――」
面接官の一人がわずかに眉を動かす。それが興味なのか、それとも場違いな話への違和感なのかは分からない。
「……それで、その経験を御社でどのように活かせると考えていますか?」
予習していたはずの質問。それなのに、一瞬、思考が停止した。
(どう活かすんだ……?)
本気で分からなかった。弾き語りと、目の前のデスクワーク。無理やり理屈をつなげることはできる。けれど、それはこの場所で求められている「正しい答え」ではない気がした。
「……」
沈黙が落ちる。ほんの数秒。けれど、永遠のように長く感じられた。
「すみません、うまく言語化できていなくて」
絞り出すように正直に言うと、面接官は小さくうなずいた。
「いえ、大丈夫ですよ」
優しい声。けれどその響きに、結果はもう決まったのだと悟った。
オフィスビルを出ると、ガラスに自分の姿が映った。グレイのリクルートスーツ。見慣れない、窮屈な格好。
(似合ってねえな……)
ネクタイを緩め、大きく息を吐く。見上げた空はやけに広く、その広さが今の自分には空虚に感じられた。
(俺、ここにいる人間じゃない気がする)
それが甘えなのか、逃げなのか、あるいは残酷な真実なのか。答えは出ないまま、その感覚だけが澱のように胸に沈んでいた。
その足で、悠はススキノへ向かった。半分は無意識だった。
見慣れた紫色の光が見えてくるいつもの場所で、誰かがもう歌っていた。近づくと、それは玉木蒼だった。
弾き語りの合間で会話をしたとき、学部は違うが蒼も同じ大学だと知った。一年生と四年生だから、実際キャンパスで会うことは少ない。
共通点は他にもあった。悠は大学に入って軽音楽部に仮入部したが、独特の雰囲気に馴染めず、早々と一人弾き語りに切り変えた。蒼も全く同じで、軽音楽部が肌に合わず、今に至っているという。ススキノの弾き語りの苦労話を蒼にはエピソードを交えながら、それとなく伝えた。そんな話をしているうちに蒼は悠のことを慕ってくれていた。
蒼は前に会ったときよりも明らかに声が安定し、リズムも太くなっている。そして、少しだけ観客が増えていた。曲が終わると拍手が起こり、ケースにコインが落ちる。蒼は照れながらも、堂々と頭を下げた。その姿は、前よりもずっと「板について」いた。
(……早いな)
その成長スピードに、素直に舌を巻く。悠が少し離れた場所で見ていると、蒼がこちらに気づいて顔を輝かせた。
「あ、悠さん!」
ギターを抱えたまま駆け寄ってくる。
「お疲れ様です!」
「お疲れ。さっきの、よかったよ。リズムの取り方、いい音が出てた」
「ほんとですか! 悠さんに言われたこと、めっちゃ意識してて」
素直に喜ぶ蒼の目には、迷いがない。
「オリジナルは?」
「……書いてます。まだ全然ですけど」
「いいじゃん。その“全然”のうちに、いっぱい作っといたほうがいい」
それは自分自身へ言い聞かせる言葉でもあった。
馴染んでいるはずの街の光が揺れる。一度は「今日は帰ろうか」と考えた悠に、蒼が問いかけた。
「……悠さん、今日歌わないんですか?」
その言葉に、一瞬だけ詰まる。脳裏にさっきの面接がよぎる。言葉に詰まった自分。何も言えなかった惨めな時間。それと、今、確実に前へ進んでいる目の前の青年。
(俺は……)
一瞬の迷いのあと、悠ははっきりと言った。
「歌うよ」
「ほんとですか!」
「隣、いい?」
「もちろんです!」
ギターを取り出し、弦に触れる。指先はほんの少し冷えていたが、ここは面接会場ではない。正解を求められる場所でも、自分を偽る場所でもない。ただ、音を出すだけの場所だ。
最初のCのコードを鳴らす。音が夜に溶け、蒼が少し離れた場所で見守っている。
(見られてるほうが、いいかもな)
不思議とそう思えた。歌い出す。声はまだ少し荒い。けれど、止まらなかった。
途中で蒼のギターが重なる。違う音が同じ夜に混ざり、人が集まってくる。拍手、笑い声、そしてコインの音。そのすべてが、紛れもない現実だった。
(ここには、自分の居場所がある)
オフィスビルで感じた「届かなさ」とは違う。小さくても、確かにここには自分の歌が届いている。
曲を終え、大きく息を吐いた悠に、蒼が駆け寄る。
「やっぱり、悠さんの歌いいですね」
飾り気のない言葉が、深く刺さる。
「……ありがと」
交差した光が揺れ、夜は続いていく。
社会のどこかには、どうしても届かない場所がある。
けれど、この路上の片隅には、確かに何かが存在していた。
それだけは、もう疑いようのない事実だった。




