#第十一章 届かない場所
夏の匂いが、少しずつ濃くなってきていた。
大学四年の夏。周りはまだどこか余裕のある空気だったが、その中でほんの一部、違う流れに乗り始めている奴らが増えてきてもいた。
「インターン行くの?」
ゼミの帰り、誰かがそんな話をしていた。
「うん、とりあえず。マスコミ系」
「すげえな、意識高いわ」
軽い会話。けれど、その言葉がやけに耳に残る。
(マスコミか……)
頭の中で反芻する。興味がないわけではない。むしろ、ある。本や言葉、物語。そういうものは、物心ついたときからずっと好きだった。
(ちょっとくらい、受けてみるか)
軽い気持ちだった。本気というよりは「試し」に近い。それでも、どこかで期待している自分がいた。
パソコンを開き、エントリーシートを埋めていく。
自己PR。志望動機。
ふと、指が止まった。
(……なんだこれ)
言葉が出てこない。いや、書こうと思えばいくらでも書ける。けれど、紡ぎ出した言葉はどれも借り物のように白々しかった。
「御社の理念に深く共感し――」
書いては消し、また書いては消す。気づけば、夜は深まっていた。
部屋の隅に置いたギターが視界に入る。
(こっちは、あんなにすぐ弾けるのにな)
自嘲気味に笑い、再び画面に向き直る。なんとか書き上げ、手応えも分からぬまま「送信」ボタンを押した。
数日後、一通のメールが届く。件名を見た瞬間に、結果は察しがついた。
『選考結果のご連絡』
開くと、丁寧な言葉で飾られた短い文章。内容はシンプルだった。不合格。
「……だよな」
小さく呟く。驚きはなかったが、無風でもなかった。胸の奥が、砂を噛んだようにざらついた。
今度は、少しだけ本気で探した。出版、編集、ライター。興味のある単語を並べ、再びエントリーシートを埋める。今度は少しだけ「自分」を混ぜてみた。弾き語りのこと、街で歌っていること、そこで出会う人々のこと。
(これでいいのか……?)
迷いながらも送ったが、結果は同じだった。あっさりと、祈られた。
理由こそ書かれていないが、なんとなく分かっていた。自分が、向こう側の求めている型に嵌まらない「異物」なのだと。
ノートパソコンを閉じると、ワンルームの部屋が妙に広く、静かに感じられた。外の空気が吸いたくて、気づけば足はススキノへと向かっていた。
いつもの場所に近づく。けれど、その手前で足が止まった。
ギターの音が、もう鳴っている。
(あれ……)
近づくと、若い男が一人で歌っていた。自分より少し背が低く、顔にはまだ幼さが残っている。けれど、声は芯が通っていて、しっかりとしていた。
有名なカバー曲。通りがかりの人が何人か足を止め、ケースにコインが落ちる。笑顔が生まれる。
(……すげえな)
素直に思った。自分が初めて立った夜とは、何から何まで違っていた。
歌い終わり、拍手が引いたタイミングで、悠は声をかけた。
「いい声だね」
男が振り向く。一瞬、驚いたような顔をした。
「……ありがとうございます」
「ここ、初めて?」
「はい、今日が二回目です」
男は少し緊張しながらも、初々しく答えた。その姿が、どこか懐かしく映る。
「そっか」
しばらく間が空き、今度は男のほうが問いかけてきた。
「あの……もしかして、ここでよく歌ってらっしゃいますか?」
悠は少しだけ笑った。
「まあ、ちょくちょくね」
「やっぱり!」
ぱっと男の顔が明るくなった。
「見たことあります。オリジナル、やってますよね」
その一言が、予想以上に嬉しかった。
「……一応ね」
「すごいなって思ってました」
真っ直ぐな、飾り気のない感想。それが、今の悠には何よりも深く刺さった。
「俺も、いつかオリジナルをやりたいんです」
男の目は真剣だった。未完成だけれど、確かにどこか遠くを見据えている目だ。
「やればいいじゃん」
自然と、言葉が溢れた。
「難しくないですか?」
「難しいよ」
即答し、少しだけ笑う。
「でも、やったほうがいい。絶対に」
自分でも驚くほど、迷いのない肯定だった。
男は力強くうなずいた。
「やってみます。俺、玉木蒼って言います」
玉木が少し場所を空けてくれた。その礼儀正しい仕草に甘え、悠もギターを取り出した。並んで立つ、夜の路上。
片方はカバー、片方はオリジナル。違う道を歩きながら、同じ場所に立っている。
(……悪くないな)
胸のざらつきが、夜風にさらわれて消えていく。弦に指を置き、最初の音を鳴らす。
歌い出す直前、ふと思った。
(社会のどこか、届かない場所もあるけれど)
深く、息を吸い込む。
(ここには、俺の歌が届くかもしれない)
その確信だけを抱いて、新しいメロディを夜に解き放った。
違う場所で、同じ夜を分かち合うために。そして、自分の居場所を確認するために。




