#第九章 おばさん達の夜は長い
予測というのは当たり前だができないもので、その人たちは、ある日突然やってきた。
水曜日の夜。いつものように藤井悠が弾き語りをしていると、三人組の女性が少し離れたところで足を止めた。年齢は五十代くらいだろうか。派手すぎないけれど、きちんとした服装で、どこか楽しそうな空気をまとっている。
最初は、よくある通りすがりの観客だと思った。一曲終わると、そのうちの一人が大きく手を叩いた。
「いいじゃなーい!」
妙に通る声だった。
「あら本当、いい声してるわねぇ」
「ねえねえ、もう一曲お願いできるかしら?」
距離が一気に縮まった。
「あ、はい……」
少し戸惑いながらも、悠はうなずいた。
「リクエストしてもいい?」
別の一人が身を乗り出す。
「できる範囲でなら」
「じゃあねぇ、昔のフォークとかいける?」
(フォークか……)
少し考える。完全には分からないが、雰囲気だけならいけるかもしれない。
「ちょっとだけなら」
そう言うと、三人は顔を見合わせて嬉しそうに笑った。
「やった!」
イントロを探りながら弾く。正確ではないかもしれないが、なんとか形にする。歌い始めると、三人は小さく口ずさんだ。懐かしそうな、優しい顔だった。
曲が終わると、拍手と一緒に、少しだけ目を潤ませている人もいた。
「いやぁ、いいわねぇ」
「うちの息子もね、昔ギターを弾いていたのよ」
どこかで聞いたような話だと思いながら、悠は小さく笑った。
「そうなんですね」
「でもね、すぐやめちゃって。もったいないわよねぇ」
そう言って、彼女は今度は悠をじっと見た。
「あなたは、続けなさいよ?」
その言い方は、妙に母親の響きに似ていた。
「……はい」
曖昧にうなずくと、別の人が口を挟んだ。
「ちゃんとご飯食べてる?」
唐突に話が飛ぶ。
「え、まあ……」
「細いものねぇ。ちゃんと食べなきゃダメよ!」
三人が一斉に言う。
(圧がすごいな……)
悠は苦笑いするしかなかった。
「ねえねえ、このあと時間ある?」
さらに一人が聞いてくる。
「え?」
「近くでちょっと飲もうと思ってたのよ。一緒にどう?」
完全に想定外の誘いだった。
「あ、いや……」
言葉に詰まった。行けなくはない。けれど、なんとなく違う気がした。
すると、三人は顔を見合わせて笑った。
「困ってるわよ」
「そりゃそうよねぇ」
「いや、可愛いわ。昔の名前忘れたけどアイドルみたい」
「若いんだから、もっと自由でいいのにねぇ」
自由、という言葉に、少しだけ引っかかる。自分は自由なんだろうか。ただ流されているだけではないのか。考えている間に、話は勝手に進んでいく。
「じゃあこれ、気持ちね」
そう言って、一人が封筒を取り出した。
「え、いや……」
制止するよりも早く、それはギターケースの中へ滑り込まされた。
「頑張りなさいよ」
「応援してるからね」
「本当、息子みたいで可愛らしいわ」
三人は口々に言い、悠は照れくさくて居心地が悪かった。けれど、決して嫌ではなかった。むしろ、どこか温かい。
「ありがとうございます」
悠が頭を下げると、三人は満足そうにうなずいた。
「また来るわね!」
「次はもっと歌ってもらうから!」
「逃げちゃダメよ?」
最後の一言にドキリとし、妙に胸に残った。三人はそのまま笑いながら去っていき、賑やかな声の余韻だけがしばらく漂っていた。
悠はしばらくその場に立ち尽くしていた。ギターケースを開くと、さっきの封筒が入っている。中を確認すると、思っていたよりも少し多かった。
(こういうのも、“社会”なのかもしれない)
ふと思う。働くとか、就職するとか、そういう既成の形ではなくても、人と関わることでお金が動く。その事実が、実感を伴って少しだけ重くのしかかる。
悠はギターを持ち直した。次の曲を弾き始めると、さっきまでより少しだけ背筋が伸びるのを感じた。可愛がられることと、甘えることは違う。その境界線が、ぼんやりと見えた気がした。
街の光は変わらず、夜もいつも通り流れていく。それでも、水曜の夜は少しだけ騒がしく、少しだけ温かかった。
ふと、携帯が震えた。母からだった。
「悠、あんた宛ての郵便とか荷物とか結構届いているから一回取りにおいでよ。最近全然帰ってきていないんだから」
「わかった。近いうち取りに行くから」
「いつもそう言って、なかなか帰ってこないんだから」
「いや、大丈夫、帰るから。それじゃあ」
そう言って、電話を切った。こちらの年上の女性もやっぱり手ごわいな、なんて思いながら。実家に帰れば将来のことを聞かれる気がして、最近足が遠のいていた。自分でもこのままではいけないことはよく分かっている。
今はできることを精一杯やろう。悠はそう心に決めて、普段は鳴らさない新しいコードを鳴らした。




