#第八章 泣き笑いのアンコール
初夏の大学は、自分には似つかわしくないさわやかな風を身にまとっているようだった。
夜の街と違い、同じ時間が流れているはずなのに、耳に届く音も、鼻をくすぐる匂いも、肌に触れる空気の重ささえも違う。
足取りも重たく、悠は図書館の自動ドアにぶつかりそうになりながら、交わして中に入った。
生ぬるい空調の風。紙とインクが混ざり合った、特有の乾いた匂い。
誰かが本を棚に戻す音。レポート提出に追われ、響くペンの音。その静かなざわめきが、今の悠には心を締め付けて、憂鬱にさせるものだった。
「返却です」
「はい」
カウンターで不愛想な図書館司書に課題図書を返却し、用件を済ませる。
(……さて)
家に帰ろうとした、その時だった。
窓際の閲覧席。夕暮れの穏やかな光が差し込む一角に、見たことのある横顔があった。
(……あ)
ページに視線を落とし、静かに座っている女性がいた。ゼミが一緒の名前も知らない、自動販売機で小銭をくれた彼女だった。彼女は本に囲まれ、じっと何かを読み耽っていた。凛とした静謐さが印象的で、強く心に惹かれた。
(……挨拶しようかな)
少し躊躇した。近づくにつれ、胸の奥が変に騒ぐ。話しかける特別な理由なんてない。悠は急に恥ずかしくなってきた。
「……まあ、いいか」
今度ゆっくりお礼を言おう。そう思いながら、彼女に気づかれないうちに、悠はそっと方向を変えて家路に向かった。
その夜は、やけに騒がしかった。
金曜日に近い木曜日。ススキノの空気はどこか浮ついていて、行き交う人々の笑い声も足取りも、いつもより少しだけ大きい。
藤井悠は、いつもの場所でギターを構えていた。一曲目、二曲目と終えても、足を止める人は少ない。今日はそういう日か、と思いながら三曲目に入ろうとしたときだった。
「おい!」
野太い声が飛んできた。振り向くと、明らかに酔っている若い男がふらつきながら近づいてくる。後ろには友人らしき数人のグループが続いていた。
「なんか、いい感じのやつ弾けよ!」
あまりにも雑なリクエストだった。
「いい感じ、ですか」
苦笑いしながら聞き返すと、男は大きくうなずいた。
「そう! なんかこう……沁みるやつ!」
(だいぶ雑だな……)
そう思いながらも、悠は少し考えた。男は失恋したばかりの顔をしていた。目が赤く、笑っているのに表情のどこかが崩れている。よくある顔だ、と妙に冷静に思う。
「じゃあ、一曲だけ」
そう言って、静かな曲を選んだ。イントロを弾き始めると、男は最初こそ騒いでいたが、途中から少しずつ黙っていった。友人たちも、茶化しながらその様子を見守っている。
歌いながら、悠は思う。この人は、何に負けたんだろう。恋なのか、自分自身なのか。あるいは、そのどちらでもいいような気もした。
サビに入り、少しだけ声を張る。その瞬間だった。
「うわああああああ!」
男が急に叫んだ。通りすがりの人々がびくっと肩を揺らす。
「兄さんありがとう。それだよぉ……それぇ……」
男はそう漏らしながら、両手で顔を覆った。
(早いな)
まだ曲の途中だった。それでも悠は演奏を止めなかった。そのまま最後まで歌い切る。
曲が終わると、男はその場にしゃがみ込んだ。
「無理だってぇ……」
泣いていた。それも、わりとしっかり泣いていた。
「おいおい、大丈夫かよ」
友人が苦笑しながら肩を叩く。
「振られたんだよぉ……今日ぉ……」
「知ってるわ」
冷静なツッコミが入る。周りの空気が、少しだけ緩んだ。けれど男の涙は止まらない。
「なんでだよぉ……本気で好きだったのにぃ……」
その言葉が、夜の喧騒に溶けていく。笑いと、ほんの少しの共感が混ざり合う不思議な空気。悠は何も言えず、代わりにギターを軽く鳴らした。
「アンコール!」
突然、別の友人が声を上げた。
「お前、もう一曲やってもらえよ!」
「そうそう! 元気出るやつ!」
完全にノリだった。けれど、どこか本気でもあった。悠は少し迷ってから、うなずいた。
「じゃあ、最後に一曲」
今度は少しだけ明るい曲にした。それでも、自分のオリジナル曲だ。
メジャーの循環コードを繰り返し、イントロを弾くと、さっきまで泣いていた男が顔を上げた。目はまだ赤いままだったが、さっきよりはちゃんと自分の足で立っている。
歌い始める。今度は、さっきほど静かではない。少しだけ前を向くような曲だ。途中で友人の一人が手拍子を始めると、それにつられて周囲の人々もリズムを取り始めた。男も、ぎこちなく手を叩いた。泣きながら、笑っていた。
曲が終わると、大きな拍手が起きた。
「ありがとー!」
誰かが叫び、「兄ちゃん最高!」と別の誰かが続いた。さっきの男が、ふらふらしながら近づいてきた。
「……ありがとう。すごく良かった」
小さな声だった。さっきまでの勢いはもうない。彼は財布を取り出し、ぐしゃぐしゃになった千円札を一枚、ギターケースに入れた。
「また失恋したら来るわ」
「それは、来ないほうがいいですね」
悠が返すと、どっと笑いが起きた。男も少しだけ笑った。
「確かに……」
男は座り込みながら、こっちを見つめる。
「感動しました。兄さんのこと、兄貴と呼ばせてもらってもいいですか?」
唐突に男は言い出したが、そのまま、彼は友人に肩を抱えられて去っていった。
「ほら、帰るぞ!」
「まだ飲めるってぇ……」
「無理だってお前!」
騒がしい声が遠ざかっていく。交差点は、またいつもの流れに戻った。
悠はギターを見下ろした。
(誰かの夜に、入り込んだ)
そんな感覚が、肌に少しだけ残っていた。それが嬉しいのかどうかは、自分でもよく分からない。けれど、決して悪くはなかった。
ギターケースの中を見る。さっきの千円札が、少し湿っている気がした。
悠は小さく息を吐き、ギターを構えて次の曲を弾く。さっきより、ほんの少しだけ音が温かかった。ネオンの下で、笑い声の残り香が、しばらくの間消えなかった。
その夜は、これまでの「内省的」あるいは「ヒリついた」夜とは打って変わり、ススキノらしい混沌とした温かさと、泥臭い人間模様が描かれた夜だった。「泣き笑い」というキーワードが、歌が持つ「浄化」の力を象徴しているように感じた。




