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#第七章 熱を帯びた夜

 雨上がり。その日は昼過ぎからずっと、逃げ場のない暑さが続いていた。札幌の夜には珍しく、湿り気を帯びた熱気が肌にまとわりつく。アスファルトは昼間の陽光を溜め込んだまま、陽が落ちてなお、足元からじわじわと熱を跳ね返していた。

 木曜日。しかも明日は祝日。ススキノの街を流れる人の数は、いつもより明らかに多かった。

(今日は、なんか違うな)

 交差点の定位置に立った瞬間、悠は肌を撫でる空気の変化を敏感に察知した。街のざわめきが、どこか軽い。それに呼応するように、自分の中のリズムも軽やかに同期していく。仕事終わりの解放感と、休日を目前にした期待。それらが混ざり合い、街全体がわずかに浮き足立っている。悪くない夜だ、と思った。

 使い古して端が擦れたギターケースを開く。いつものルーティン。だが、今日はギターを取り出す動作さえも、驚くほど滑らかだった。チューニングを確かめ、ストラップを肩にかける。一度、肺の奥まで深く、夜の熱を吸い込んだ。

(いける気がする)

 根拠なんてない。けれど、不思議とそう確信できた。

 一発目、Gのコードを力一杯かき鳴らす。硬質な音が夜の帳を切り裂き、広がっていく。その響きはいつもより少しだけ遠く、ネオンの海の奥まで届いた気がした。そのまま、シンコペーションを効かせたエイトビートのストロークを刻み始める。

 歌い出す。声の調子も、悪くない。昨日も遅くまで歌い込んだおかげか、喉がよく開いている。腹の底から放たれた声が、喧騒に負けることなく真っ直ぐに伸びていく。

 悠が路上に立つ日を水曜と木曜に決めているのには、理由があった。大学の講義が少ないという事情もあるが、二日続けて歌うことで、二日目の木曜日に声のコンディションがピークを迎えるのだ。その「仕上がった」声が、週末を控えて昂揚する街の空気に、驚くほどよく馴染む。

 金曜日もやればいい、と言われたこともある。だが、三日連続は喉も体力も限界を超える。それに金曜日のすすきのは、ミーハーな弾き語りや派手なダンスパフォーマンスが溢れかえり、悠はその騒がしい雰囲気にはどうしても馴染めなかった。自分の歌を、本気で聴こうとしてくれる人が立ち止まってくれる。それが、水曜日と木曜日の夜だった。

 通り過ぎる人波の中に、ふと足を止める影がひとつ。気のせいではない。確かに、こちらを向いている。

(お……)

 内心で小さく呟き、そのまま歌を繋げる。すると、もう一人、さらにもう一人と、影が増えていく。大袈裟な歓声が上がるわけではない。けれど、そこには確実に、自分の歌を“聴いている”濃密な空気が醸成されていた。それが肌を通じて伝わってくる。

 一曲歌い終えると、ぱちぱちと、小さな、けれど温かい拍手が湧いた。そして――。

 カラン、と乾いた音がした。ギターケースの中に、コインが落ちる。一枚ではない。二枚、三枚と、重なるように音が続く。

(……マジかよ)

 思わず口角が上がりそうになる。罵声を浴びせられることだってあるこの場所で、今日は信じられないほど「ついている」。自分の歌が届いている喜びを噛み締め、悠は自然と笑みを浮かべた。だが、余韻に浸る間もなく、すぐに次のコードを押さえる。この心地よい流れを、一秒たりとも止めたくなかった。

 二曲目。さっきよりも少しだけ、自信を声に乗せて歌う。注がれる視線が、熱を帯びていく。真剣に見つめられる感覚。以前なら気圧されていたかもしれないその圧が、今はちっとも嫌じゃなかった。むしろ――。

(気持ちいいな)

 そう思ってしまう自分がいた。歌い終えるたびに、コインの落ちる音が増えていく。その中には、折り畳まれた紙幣も混ざり始めていた。誰かがスマホをこちらに向けている。写真だろうか、動画だろうか。それすらも、今の悠には肯定的な関心として受け入れられた。

 時間の感覚が、少しずつ曖昧になっていく。何曲歌ったのか、もう分からない。ただ、衝動が止まらなかった。人が入れ替わり、立ち止まっては去っていく。それでも、観客という名の「輪」は決して途切れない。まるで、この場所が一つのステージに作り替えられたようだった。

(これか……)

 ふと、思う。こういう夜が、本当にあるんだと。努力が報われたとか、そんな大それた話ではない。ただ、タイミングと、街の空気と、自分の熱量が、奇跡的に「ハマる」瞬間。その真ん中に、自分は今、立っている。今までになく、いや、生まれて初めてに近い感覚で、見知らぬ誰かと深い場所で繋がれた気がした。

 気づけば、Tシャツの背中に汗が伝っている。けれど、不快感はなかった。むしろ、その熱さえも心地よかった。歌いながら、意識していなかったフレーズが自然と口をついて出る。

「暮れてゆく街の片隅で――」

 いつか作りかけていた言葉の断片を、そのまま夜の風に乗せる。

「ギター片手に歌う毎日は」

 何人かが、食い入るようにこちらを見つめた。

「流れ行く人混みの中――」

 大きく息を吸い込む。

「何かを投げかけてあげれるかな」

 その歌詞に、今、生きた実感が宿る。今なら、少しだけ「できている」と思えた。

 歌い終えると、拍手は先ほどより一段と大きく響いた。誰かが「いいね」と小さく呟く。それだけで、胸がいっぱいになった。

 悠はギターケースの中をちらりと盗み見た。そこには、想像以上のコインと紙幣が重なり合っていた。

(……やばいな、今日)

 一人で苦笑する。こんな経験は初めてだった。時計を見る。まだ、夜は続いている。

(もうちょいいくか)

 軽い気持ちで、そう思う。その「もうちょい」が、どこまで自分を運んでいくのか、その時の悠はまだ考えてもいなかった。ギターを構え直し、今度は軽快な16ビートのカッティングから入る。ススキノの夜は、まだ終わる気配を見せていなかった。

まるで、星の下で新しい曲を書いている。そんな雰囲気だった。

気づいたときには、街を流れる波の色が変わっていた。さっきまでの喧騒が嘘のようにほどけ、終電を急ぐ人々の足音が、切迫したリズムを刻み始めている。それでもまだ、数人が名残惜しそうに足を止めていた。

 悠は最後の曲を歌い終える。静かな拍手。そして、深い余韻。

「……ありがとうございました」

 小さく頭を下げる。それで、その夜は幕を閉じるはずだった。

「お兄さん、もう一曲お願いします」「うん、聴きたい」「バラードが良いなぁ」

 最後まで残っていた、自分より少し年下らしき男女のグループにせがまれた。

「じゃあ、最後にもう一曲だけ」

 今夜のクロージングソングのつもりで、ゆっくりとアルペジオを奏で始める。と、聴いていた一人が不意に時計を見て叫んだ。「やばい、みんな急げ!」「あっ、お兄さんありがとうございました!」

 演奏は唐突に、中途半端なところで途切れた。けれど、不思議と嫌な気分にはならなかった。今日は十分すぎるほど歌った。新曲も試せたし、懐かしいナンバーも歌えた。それで十分だ。悠は苦笑いを浮かべ、コインをギターケースの袋の中に入れ、愛用のギターをケースに収める。ファスナーを閉める金属音が、やけに現実的に響いた。

 ふと、腕時計を見る。「ん? 急げ?」

 時刻を確認した瞬間、悠の思考が停止した。

(……あれ)

 見間違いではない。完全に、終電の時間を過ぎていた。

「マジかよ……」

 思わず独り言が漏れる。調子に乗っていた。時間の感覚が完全に消失していたのだ。こんな夜は初めてで、だからこそ「終わり」を意識することすら忘れていた。

 周りを見渡すと、人はまだいる。けれどそれは、タクシーや運転代行を待つ「帰る人たち」の流れだ。さっきまでとは違う、どこか冷ややかな夜の顔。吹き抜ける風が、火照った身体から熱を奪っていく。

(……どうすっかな)

 選択肢は限られていた。無駄な出費はしたくない。歩くしかない、と腹を括る。だがその前に、猛烈な空腹が襲ってきた。ギターケースを背負い直し、ネオンの海を抜けて少し静かな通りへと足を向ける。

 目に留まったのは、見慣れた牛丼屋の看板だった。迷うことなく扉を開ける。店内の冷房が、汗ばんだ肌に心地よい。

「いらっしゃいませ」

 店員の淡々とした声が、高揚していた心を日常へと引き戻してくれる。カウンターに座り、メニューを眺める。いつもなら一番安い並盛一択だが、今日は違った。ギターケースの中に眠る「戦利品」を思い出す。

(……今日は、いいよな)

「大盛りで。あと……卵も」

 自分でも驚くほどの、ささやかな贅沢。けれど、それが妙に誇らしく、嬉しかった。

 待っている間、足元に置いたギターケースの傍らで、ポケットから一冊のノートを取り出す。使い込まれ、端が丸まった弾き語りノート。

『祝日前、木曜。人、多い。初めて最後まで“ハマった”感じ』

 言葉を探し、ペンを走らせる。

『コインが結構入った。過去最高。正直、かなり嬉しい』

『新曲、反応悪くない。半音だけキーを上げてもいいかも』

 書きながら、自然と頬が緩む。

『懐かしい曲は歌詞を少し変えたら、サラリーマンの人がたくさん聴いてくれた。あの一万円をくれた人も、また来てくれたらいいな』

 あの夜の男性。名前も知らないけれど、間違いなく自分の転機になった人。

『アゲハさんは最近見てない』

 そこで一度、ペンが止まった。それ以上は書かず、ページをめくって過去の自分を振り返る。

「高校生に囲まれる。アップテンポに盛り上がっていた」「年配の男性にコンビニのおにぎりをもらった。お礼に一曲」「カップルが喧嘩してた。彼女がラブソングに聴き入るのが、彼氏は気に食わなかったらしい」

 どれも断片的で短い記録。けれど、読み返せばその時の空気、匂い、自分の心の揺れが鮮明に蘇る。

(全部、残ってるな)

 ただ歌っていただけではない。確実に、自分はこの街で誰かと関わり、生きていた。その証拠が、このノートに刻まれている。

「お待たせしました」

 置かれた牛丼から湯気が立ち昇る。卵を割り、黄身を崩してかき混ぜ、紅生姜を添える。

「……うま」

 一口食べると、本音が零れた。さっきまでの夜の熱狂が、すべてこの一杯に集約されているような気がした。食べながら、最後の一文を書き加える。

『これでいいのかは分からない。でも、こんな夜も悪くない』

 ペンを置き、一気に完食する。会計を済ませて店を出ると、街は一段と静まり返っていた。ネオンの光は不夜城のごとく輝いているが、人の気配はまばらだ。夜の「後半」の顔。悠はゆっくりと歩き出す。

 電車はない。けれど、焦りはなかった。むしろ、この余韻の中を少し歩きたかった。地下鉄六駅分だ。大きな通りを抜け、遊歩道に入る。街灯が等間隔で並ぶその先に、札幌の空にしては珍しく、いくつかの星が瞬いていた。

(……こんな時間に歩くの、初めてだな)

 靴底がアスファルトを擦る音。心地よい疲労感。頭の中には、今日出会った人々の顔や、ギターの音色、かけられた言葉が反芻されている。

「擦り切れたブーツで走りましょう」

 ふと、新しいフレーズが浮かんだ。口の中で転がしてみる。いいな、これ。

 将来のこと、就活の停滞、親との衝突。課題は何一つ解決していない。けれど、今はそれでいいと思えた。

「最後まで考えて選べばいい」

 アゲハの言葉が、風に乗って聞こえた気がした。すぐに答えは出なくていい。ただ、逃げ出さなければいいのだ。

 家まではまだ距離がある。けれど、星を見上げながら歩くこの時間も、今の悠には必要なものだった。

 さっきまでぬるかった風が少しだけ涼しくなる。北海道の短い夏が始まろうとしていた。

 悠は歩き続ける。擦り切れたブーツで、自分のペースで。一歩ずつ、明日へと続く道を。



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