#第十七章 笑い声の中の違和感
夏と秋の終わりは、いつも曖昧だ。
はっきりとした区切りもなく、気づけば風が少しだけ軽くなり、夜の空気から湿り気が引いていく。
九月の終わり。藤井悠は、いつもより遅れてススキノの交差点に向かっていた。
大学のゼミで、やけに長い議論があった。新世代の気鋭作家たちの小説についての発表。誰かが「現実逃避だ」と言い、別の誰かが「現実そのものだ」と言った。
(どっちでもいいだろ……)
冷めた思いで聞いていた自分に、小さな棘が刺さっている。
いつもの黒のパーカーを羽織り、デニムのポケットに手を突っ込む。風はもう、秋の冷たさを孕んでいた。その冷気を感じるたび、得体の知れない焦燥が胸をかすめる。
いつもの場所に立ち、ギターケースを開ける。中に入っていた小銭が、乾いた音を立てた。
一曲目を弾き始める。空気の密度が薄くなったせいか、音は夏よりも遠くまで、澄んで届く気がした。
二曲目を終えたときだった。
「え、ちょっと待って。マジ?」
聞き覚えのある声に、肩が跳ねる。振り向くと、そこには見慣れた顔がいくつかあった。
ゼミの連中だ。男女合わせて八人。全員の顔が赤く、酒の匂いを漂わせている。明らかに飲み会帰りだった。長い議論の後で飲み会の話題になっていたことを悠は知らない。普段そんな会話には加わらないからだ。
「藤井じゃん! マジでやってたんだ、これ」
一気に距離が縮まる。教室では言葉を交わすこともほとんどない、ただ同じ空間に座っているだけの関係。それがネオンの下で、無遠慮に踏み込まれてくる。
「ちょっと歌ってよ! 路上ミュージシャンじゃん、すげえな」
その言い方は、どこか軽薄だった。褒めているのか、珍しい生き物を見て面白がっているのか。
「一曲いい?」
そう言ったのは、以前十円を入れてくれた彼女だ。彼女だけは、酔いの中でもちゃんと聴こうとする目をしていた。美咲とみんなに言われていた。
悠は小さくうなずき、ギターを構え直す。
知らない群衆の前で歌うより、知っている連中の前で歌う方が、逃げ場がなくて苦しい。視線が突き刺さる。スマホを構える者、腕を組んで品定めするように見る者。
(俺、今……どんな顔して歌ってるんだろうな)
サビに入り、少しだけ声を張る。
さっきまで騒いでいた男子が口を閉じ、女子の一人がふっと表情を和らげた。
曲が終わると、一瞬の空白のあと、拍手が起きた。
「普通にすごくない?」
「ちょっと、カッコいいかも……」
美咲が照れたように呟き、周りが「え、惚れた?」「やめてよ」とはやし立てる。
軽い。すべてが、あまりに軽い。けれど、その薄っぺらな笑いの中に、現実という名の重石が混ざっていた。
「これさ」
一人の男子が、笑いを含んだ声で聞いた。
「ずっとやんの?」
声は軽い。けれど、問いは重かった。
「……どうなんだろうな」
視線を外して答える。本当は、アパートで夜通し曲を書くほど真剣に向き合っているはずなのに、彼らの前では言葉が滑り落ちてしまう。
「就職とかどうすんの? 普通にやるっしょ?」
「まあ……そのつもりだけど」
「へえ、まあ頑張れよ。またなー!」
彼らは軽く手を振り、笑い声を夜の闇に引きずりながら去っていった。
「じゃあ。また」
美咲も名残惜しそうに他の仲間についていった。
一人残された悠は、その場に立ち尽くす。
(ずっと、やるのか……?)
その問いが、呪文のように頭の中で繰り返される。ギターを持ち直したが、次に鳴らした音は、ひどく濁っていた。
夜の終わりに説明できない何かに触れた気がした。
ゼミの連中が去ったあとも、悠はやめられなかった。
その場に残った「現実」の感触を、かき消したかったのかもしれない。
四曲、五曲。指先の感覚が鈍り、弦を押さえる力がわずかに狂う。喉が乾き、声がかすれる。
(やめたら、終わる気がする)
何が終わるのかは分からない。けれど、今ギターを置いた瞬間に、自分を繋ぎ止めている何かが霧散してしまう気がした。
街灯の反射が滲み、通行人の顔が判別できなくなる。時間の感覚が溶けていく。
六曲目に入ろうとした、その時だった。
「やめなよ」
すぐ隣から、静かな声が届いた。
悠は手を止めた。そこに、アゲハが座っていた。
いつからいたのか、気配すら感じなかった。
「無理してる顔してる」
悠は脱力し、ギターを下ろした。手のひらが、小さく震えている。
「……ちょっとだけ、そうかも」
「“ちょっとだけ”って顔じゃないね」
アゲハは小さく笑った。そのいつもの響きに、喉の奥に詰まっていた塊が少しだけ解ける。
「……どうすればいいか、分かんないんだよね」
気づけば、弱音がこぼれていた。
「やめたくないんだ。でも、続ける理由を、誰かに説明できる自信もなくて。就職もしなきゃいけないし。でも、ここにいると……」
アゲハは何も言わず、ネオンに照らされる横顔を見せていた。
「そっか」
否定も肯定もせず、ただその迷いを受け取るだけの短い返事。
「ねえ。悩んでるうちはさ、ちゃんと向き合ってるってことだよ。本当に逃げてる人はね、悩まないから」
その言葉が、ゆっくりと悠の胸の奥へ沈んでいく。
「ありがとう……」
「だからさ……精一杯もがいて、悩みな。今は」
アゲハが立ち上がった。ヒールがアスファルトを叩く。彼女は少しだけ笑った。これまでで一番、柔らかい笑顔だった。
悠も立ち上がる。何か言おうとして、言葉を探した。
その時だった。
アゲハが一歩、踏み込んできた。
視界が彼女の香りで満たされる。
次の瞬間、唇に柔らかい感触が触れた。
ほんの一瞬。羽が触れるような、淡いキス。
時間が止まる。理解が追いつかないまま、悠は立ち尽くした。
「もっと大人になったらさ」
アゲハが、いつもより寂しそうに笑う。
「一緒に飲もうね」
それは未来への約束のはずなのに、なぜか今、永遠の別れを告げられたような気がした。
アゲハはそのまま背を向け、歩き出した。規則正しいヒールの音が遠ざかっていく。彼女は一度も、振り返らなかった。
悠は唇に残った感触を抱えたまま、その背中が紫色の夜の中に溶けるまで見つめていた。
夜の空気が、いっそう冷え込む。
夏は、もう完全に終わっていた。
悠はゆっくりとギターを見下ろした。弦に触れても、ミュートとも違う弱弱しいフレーズで音は出さない。
けれど、その静けさの中に、確かな感触だけが残っていた。
(最後まで、歌う……)
アゲハの言葉の意味が、少しだけ変わった気がした。
夜が終わりへと近づいていく。
その終焉は、同時に、逃げ場のない「明日」への始まりでもあった。




