第9話 九時の鐘
春の舞踏会は、四百人が入る大広間で開かれる。
蝋燭が三段の輪になって吊られていて、下から見上げると星のように見えた。楽団は二十人。床は磨きすぎて、歩くたびに自分の靴の音がする。
わたしは、八時にクラリスと入場した。
リゼットが三度直した衣装は、藍色の、地味なものである。生地はよくない。縫い目だけがきれいだった。
クラリスは、わたしの半歩後ろを歩いていた。杖の音が、床に響く。
「大丈夫ですか」
「……はい」
「ご挨拶が済んだら、壁際で座っていましょう」
八時半。オクタヴィアが会場に入ってくる。銀色の髪を高く結って、深紅の衣装を着ていた。町の仕立て屋に縫わせたとは思えない出来である。
彼女は、真っ先にわたしを見つける。
目が合った。
軽くうなずいて、それから、貴族たちの輪の中へ入っていく。
八時四十分、侍従が呼びに来た。
「ヴァレンシュタイン家の御令嬢はおいででしょうか。王妃陛下が、お目にかかりたいと」
クラリスの肩が跳ねる。
去年、療養の見舞いをいただいている。その礼を申し上げる機会を作ってくださったのだ。陛下は、そういうことをなさる方だと聞いていた。
「……アシュフォード様」
「ご一緒します」
連れを一人つけることは許されている。歩くのに人手の要る娘なら、なおさらだった。
わたしは、クラリスの腕を取った。
◇
控えの間は、大広間より暗かった。
窓が一つ。長椅子。鏡台。花の匂いが強い。
王妃陛下は、長椅子に腰かけておられた。思っていたより小柄な方である。
クラリスが膝を折る。杖を置いて、右足に体重をかけないように。わたしは、その半歩後ろで頭を下げている。
「よく来ましたね」
陛下の声は、低い。
「足はどうです」
「おかげさまで、ずいぶん」
「歩くのは大事ですよ。痛くない範囲で、毎日ね」
それだけの、短いお言葉である。
クラリスは、返事をするのに三度つかえた。
陛下は、笑ってくださる。
それから、女官長のほうを向かれる。
「重いから、外してちょうだい」
「かしこまりました」
女官長が、陛下の髪から銀の薔薇を外した。
銀の台に、真珠が三つ。思っていたより小さなものである。この国のどの家より古いものだと聞いていたけれど、手のひらに乗るくらいの、地味な細工だった。
女官長は、それを鏡台の上に置いた。
それから、陛下の髪を直しはじめる。飾りを外したあとは、結い直さなければならない。時間のかかる仕事である。
クラリスは、まだ膝を折ったままでいた。立ち上がるのに杖が要るので、誰かが「お立ちなさい」と言うまで動けないのだ。誰も気づいていない。
「クラリスさま。お手を」
わたしは、彼女に手を貸して立たせた。
立ち上がりざま、杖が絨毯の上に倒れる。
乾いた音がした。部屋にいた全員が、そちらを向く。侍女の一人が駆け寄った。クラリスが真っ赤になって、何度も詫びる。陛下が、いいのですよ、とおっしゃった。女官長は、鏡の中でそちらを見ている。
わたしは、鏡台の上を片づけた。
卓の上には、外した髪飾りと、水の器と、布が出ている。器を盆に移し、布をたたみ、飾りを箱に納めて蓋を閉める。手が空いている者がやることである。
「ありがとう」
女官長が、鏡越しに言った。
「助かります。この子たちは、髪のほうにかかっていますから」
「いえ」
わたしは、頭を下げた。
クラリスの腕を取って、控えの間を出る。
扉を閉めるとき、内側を確かめた。ジョゼットがいつもそうしていたからである。
廊下で、若い侍女とすれ違った。控えの間の、今年からの係である。二月に、名前だけ調べた娘だった。
入れ替わりに入っていく背中を、わたしは見ていない。
見る必要が、なかったからである。
◇
大広間に戻ったのは、八時五十五分だった。
クラリスを壁際の椅子に座らせる。彼女は、まだ少し震えていた。
「うまく、できていましたか」
「立派でした」
「本当ですか」
「陛下がお笑いになりました。あれは、うまくいった人にしかなさいません」
クラリスが、少し笑った。
この子が笑うのを、わたしは初めて見た。
歩くたびに、右の裾が少しだけ遅れてついてくる。
布の重さだと思うことにした。
扇を持つ手が、汗ばんでいるのに気づく。
持ち替えて、壁の彫刻を数えた。葡萄の房が十七。数え終わって、もう一度数える。やはり十七だった。
八時五十八分。
オクタヴィアが、こちらをちらりと見た。
それから、大広間の奥の扉のほうへ歩いていく。控えの間のとなりの、衣装部屋である。
九時を告げる鐘が鳴った。
わたしは、動かなかった。
そのとき、人の輪が割れる。
王太子セルジュ殿下が、こちらへ歩いてこられた。
大広間の全員が、それを見ている。
「リディア嬢」
殿下は、わたしの前で足を止めた。
「一曲、お相手を願いたい」
わたしは、膝を折って礼をする。
「光栄にございます」
楽団が、曲を始めた。
二年ぶりである。
この方の手を取るのは、二年ぶりだった。わたしが茶会を三度断った冬から、一度も。
「これでよいのか」
殿下は、踊りながら、小さな声でおっしゃる。
「はい」
「一曲でよいのか」
「二曲、お願いできますか」
「三曲でも構わん」
「殿下」
「なんだ」
「わたし、踊りが下手です」
「知っている。二年前もそうだった」
殿下の口の端が、少しだけ動いた。
「足を踏まれる覚悟はしてきた」
わたしは、危うく笑いそうになる。
この方の前で笑うのは、二年ぶりになるところだった。
殿下は、前を向いたままである。
「私は、理由を聞かぬと約束した。だが、一つだけ言わせてもらう」
「はい」
「そなたは今、四百人に見られている」
「存じております」
「……そうか」
殿下は、それきり何もおっしゃらない。
わたしは、二年前のことを思い出していた。
冬の中庭で、わたしはこう申し上げた。いつかお願いを一つだけ申し上げたら、証拠を持ってこいとおっしゃらずに、一度だけ聞いてくださいますか、と。
殿下は、覚えておこうとおっしゃった。
半月前、わたしは手紙を書いた。願いは一つだけ。春の舞踏会の夜、九時から十時のあいだ、わたしと踊ってください。理由は聞かないでください。
返事は、一行きりだった。
――承知した。
この方は、証拠がなければ動かない方である。
でも、約束は守る方だった。
◇
二曲目の途中で、控えの間のほうが騒がしくなった。
最初は、誰も気づかない。楽団が鳴っていたからである。
やがて、女官が一人、扉から走り出てきた。青い顔をしている。侍従長がそれを受け、上座へ走る。
曲が、途中で止まった。
広間が、しんとなる。
扉が閉められる。四百人が閉じ込められる。
銀の薔薇が、王妃陛下の控えの間から消えていた。
そこから先のことを、わたしは正確には覚えていない。
覚えているのは、断片だけである。
九時五分に、控えの間の係が卓の上を確かめていたこと。箱の蓋は閉まっていて、係はそれを見ただけで「ございました」と答えたこと。
だから、調べは九時五分より後から始まったこと。
衛士が入ってきて、その時刻から紛失が分かるまでのあいだに控えの間の前を通った者を挙げさせたこと。
名前が読み上げられるたびに、その人が前へ出たこと。
どの顔も白かったこと。
招かれた客の身は、誰も改められなかったこと。王家の舞踏会で、四百人の貴族の袖をめくるわけにはいかない、という理由だったらしい。
公爵家の侍女が二人。王宮の下働きが三人。
そして最後に、侍従長が名を読んだ。
「オクタヴィア・ヴァレンシュタイン嬢」
広間が、音を立てずにざわめいた。四百人が一度に息を吸う音というのは、ああいうものかと思う。
彼女は、前へ出た。
背筋を伸ばし、深紅の衣装のまま、ゆっくりと。歩き方は、いつもの歩き方である。
「衣装部屋に、四半刻ほどおられたと伺いました」
「ええ」
「お一人で」
「ええ」
「何をなさっていたのですか」
オクタヴィアは、答えなかった。
答えられるはずがない。代役が来るのを待っていたのだから。
彼女は、こちらを見た。
わたしは、殿下の隣に立っている。
衣装の悪い、地味な男爵令嬢が、四百人の見ている前で、王太子殿下と二曲踊っていた。
これ以上ないほど、下手な位置である。
彼女の唇が動く。
声は聞こえなかった。読めもしない。
わたしは、頭を下げなかった。
◇
詮議は、ひと月続いた。
銀の薔薇そのものについては、何も出てこない。誰が持ち出したのか、どこへ行ったのか、最後まで分からなかった。宝は二度と出てこない。
出てきたのは、別のものである。
オクタヴィアが、自分で出した。
詮議の四日目、彼女はわたしを告発しようとした。そのためには、何をされたかを言わなければならない。
――アシュフォードという男爵令嬢が、メナールとゴダールとクラリスを、当夜そこから外したのです。三人とも、わたくしが用意していた者ですわ。
言ってしまってから、彼女は口を閉じたそうである。
用意していた、と自分で言った。
あの三人が当夜あの部屋の前にいるはずだったことは、あの人が言わなければ、誰にも分からなかった。ジョゼットの配置替えも、リゼットの仕事も、クラリスの断りも、それぞれ別の場所で起きた、何でもない話である。
三つを並べて見せたのは、あの人だ。
監察は、そこから逆に辿った。
ジョゼットの弟が、十一月に公爵家の口利きで王宮の厩に入っている。リゼットの店には、二月に公爵家から大きな注文が入っている。クラリスは、姉から控えの間へ行くよう頼まれていた。
三人とも、公爵家に繋がっている。
三人とも、その夜、その部屋の前に立つように手配されていた。
監察官は、こう聞いた。
「なぜ、三人も要るのですか」
一人で足りるはずだ。三人配するのは、一人が来なかったときのためである。つまり、来ないかもしれないと分かっていたことになる。
つまり、何かが起きると知っていたことになる。
オクタヴィアは、答えられない。
答えるには、まず、この世界が物語だと言わなければならなかった。
彼女は、それを言う。詮議の六日目に。
――わたくしには、別の世界の記憶がございます。この世界の行く末を書いた物語を、前の生で読んでおりました。
その日の記録には、一行だけ書き足されたと聞く。
――被疑者、錯乱の兆しあり。
◇
クラリスも呼ばれた。
なぜ姉の頼みを断ったのかと聞かれて、あの子は医師の指示だと答えたそうである。
――ほかに理由はありませんか。
――ございません。
わたしは、その二行を記録で読んだ。
三月の中庭で、わたしはあの子にこう言っている。その夜、王妃陛下の髪飾りがなくなります、と。
あれを一言でも口にすれば、わたしはその日のうちに終わっていた。なぜ知っていたのかと聞かれて、答えられる言葉がない。
あの子は、言わなかった。
聞かれて、ございません、と答えた。十六の娘が、王宮の詮議で嘘をついたのである。
わたしのために。
◇
詮議の終わりのほうで、灰色の髪の監察官が呼ばれてきた。
春に、わたしとジュリアンの三か月を「疑いは証拠にならない」と言って脇へ押しやった人である。ヴァレンシュタイン家の取引を一度調べた人間として、意見を求められたらしい。
彼は、一つだけ言ったという。
――一昨年の秋、学院で毒草の件がございました。あのときの目撃証言も、公爵家の侍女でございます。
それだけである。
罪状にはならない。ミレイユ・ドラクロワの判決が覆ることもない。
ただ、記録には残った。
疑いは積んでも証拠にならない、と言った人が、最後に疑いを一つだけ積んで帰っていった。
◇
わたしについても、調べは入る。
女官長への推薦は、正規の手続きである。仕立て屋への発注は、代金も支払われた正規の取引である。クラリスの診断書は、本物の医師が書いたものである。
九時から十時まで、わたしは四百人の前で踊っていた。
どこにも、罪がなかった。
一年半かけて、わたしはそういうものだけを積み上げてきたのである。
◇
詮議の終わりに、一度だけ、彼女と口をきいた。
王宮の廊下である。衛士に挟まれて歩いてくる彼女と、聴取を終えて出てきたわたしが、すれ違った。
オクタヴィアが、足を止める。
衛士は止めなかった。もう、この人を恐れる者はいない。
「アシュフォード嬢」
「はい」
「……あなた、最初からこれを狙っていましたの?」
わたしは、彼女の顔を見る。
この一年半で、初めて、この人がわたしに本当に聞きたいことを聞いた気がした。
「いいえ」
「では何を」
わたしは答える。
「あなたが、わたしを最後の一人に選ぶことを」
オクタヴィアの目が、開かれた。
ゆっくりと、大きく。
この人は、頭の回る人である。だから、たぶん三秒で分かってしまったのだと思う。三人を外したのは代役を潰すためではなく、自分が四人目になるためだったこと。四人目に選ばれれば、当夜の九時、この人が必ずあの衣装部屋で一人になること。
誰も来ない部屋で、四半刻。
この国でいちばん説明のつかない四半刻を、自分の手で作ったこと。
「……いつから」
彼女の声は、掠れている。
「あなたが、同じやり方でなければ届かないと教えてくださった日からです」
わたしは言った。
「去年の春です。空き教室で、話をこしらえて、人を騙して、皆が信じたい形に整えろとおっしゃいました。そうしなければ一生届かない、と」
「……あれは」
「そのとおりにしました。それだけです」
オクタヴィアは、何も言わない。
衛士が、彼女の腕を引いた。
三歩ほど歩いてから、彼女は振り返って言う。
「ねえ、リディアさま」
「はい」
「あの薔薇、どこへ行きましたの」
わたしは、頭を下げた。
それが、答えだったと思う。
◇
判決は、四月の終わりに出る。
銀の薔薇の窃盗については、証拠不十分。
ただし、王妃陛下の控えの間に、日と時刻を定めて無関係の者を三名、配そうとした企てについては、王家への謀計として認められた。
公爵家当主は爵位を返上のうえ蟄居。
オクタヴィアについては、判決文に一行あるだけである。
――令嬢の処置は、家に任せる。
公爵家の名を、公開の刑で汚すことを、王家は望まなかった。
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