最終話 墓前
わたしは、その場にいた。
クラリスが、一人では行けないと言ったからである。
当主が次期当主の立会いを求めた。十六の、足の悪い娘に、姉の最期を見ろと言った。理由は聞かなかった。たぶん、理由などない。そういう家なのだ。
部屋は、公爵邸の二階の客間である。
思ったより明るい部屋だった。窓が大きく、午後の光が入っている。絨毯が敷いてある。壁に絵がかかっている。
人が死ぬ場所には見えない。それが、いちばん怖いところである。
立会人は、王宮の検使が一人。医師が一人。当主。侍女が二人。それにクラリスとわたし。
テーブルの上に、銀の杯が置いてある。
オクタヴィアは、白い服を着せられて入ってきた。
自分で歩いている。背筋も伸びていた。部屋の中を見回して、それからテーブルの上の杯を見る。
わたしを見つけると、彼女は少しだけ笑った。
「あら。いらしてたの」
「はい」
「ご親切なこと」
検使が、書状を読み上げる。
「ヴァレンシュタイン公爵家息女、オクタヴィア。家名に免じ、死を賜る」
短いものだった。
読み終わって、彼は言う。
「準備が整いました」
オクタヴィアは、動かない。
杯を見たまま、立っている。
それから、口を開いた。
「お父さま」
当主は、窓のほうを向いていた。
「お父さま。一つだけ、申し上げたいことが」
当主は振り向かない。
「家の名を汚さぬようにな」
それだけ言う。
オクタヴィアの顔から、表情が落ちた。
「……そう」
彼女は、検使のほうを向いた。
「では、そちらに申し上げますわ。あの女が盗ったのです」
彼女は、わたしを指した。
「そこのアシュフォード嬢ですわ。あの夜、控えの間に入っております。クラリスの連れとして。わたくしは、この目で見ておりました」
検使が、書類をめくる。
「控えの間の係が、九時五分に卓を確かめております。そのとき、箱はございました」
「蓋を、開けましたの」
「……閉まっていた、と記録にあります」
「ならば、中は空でしたのよ! あの女が、その前に抜いたのですわ!」
検使は、顔を上げない。
「アシュフォード嬢は、九時から十時まで、王太子殿下と踊っておられます。四百人が見ております」
「ですから、その前に――」
「ヴァレンシュタイン嬢」
検使が、初めて彼女を見た。
「証拠のないお話は、承っても記録にできません」
オクタヴィアが、口を開けたまま止まる。
二年前の春、空き教室で、この人はわたしにこう言った。
――この世界で、証拠のない話をなさる方が、どうなるかご存じ?
――狂人ですわ。
彼女の唇が、震えはじめた。
「わたくしは知っていたのです。この世界がどうなるかを、全部。だから六年間、一度も外さなかった。それを――」
「ヴァレンシュタイン嬢」
医師が、静かに言った。
「お時間です。苦しみません」
オクタヴィアが、一歩下がる。
初めて、彼女の顔に別のものが出た。
目の縁が赤くなっている。喉が、何度も上下した。
「待って」
彼女は言った。
「待ってくださいまし。わたくし、まだ十八ですのよ」
誰ひとり動かない。
「十八ですのよ。前の生では、二十九まで生きましたわ。二十九まで生きて、店長に怒鳴られて、それで終わって、それで今度こそと思って」
彼女は、自分の胸元をつかむ。
紋章は、もう外されていた。
「今度こそと思いましたのよ。全部持って生まれてきましたもの。使わないなんて、もったいないじゃありませんの。誰だってそうするでしょう。誰だって――」
検使が、侍女たちに目で合図をする。
二人が、両側からオクタヴィアの腕を取る。
「離しなさい」
彼女は暴れた。
白い服の袖が裂ける。片方の靴が飛んで、絨毯の上を転がった。侍女の一人が頬を打たれて、よろける。もう一人が羽交い締めにした。医師が杯を取る。
「離しなさい! わたくしは公爵令嬢よ! あなたたち、わたくしを誰だと――」
当主が、窓のほうを向いたまま言った。
「押さえろ」
男の使用人が二人入ってきて、オクタヴィアを後ろから床に座らせる。
クラリスが、わたしの袖を強く引いた。目を閉じている。
わたしは、閉じなかった。
医師が、彼女の顎に手をかける。
オクタヴィアは唇を固く閉じ、首を振った。
医師は、慣れた手つきで彼女の鼻をつまむ。
十数えるほどの時間がある。
彼女は、こらえた。顔が赤くなり、それから紫がかっていく。足が絨毯を蹴る。肩が跳ねる。
やがて、口が開く。
息を吸うために開いた口に、杯が傾けられた。
むせる音。半分ほどが、白い服にこぼれる。医師が残りを注ぎ、顎を上げさせ、喉に手を当てた。
喉が、一度、大きく動く。
「……っ、は」
手が離されると、オクタヴィアは四つん這いになった。
指を喉に突っ込んでいる。
吐こうとしている。絨毯に爪を立てて、体を折って、何度も。
「無駄です」
医師が言った。
「回りの早い薬です。もう回っています」
「うそ」
彼女の声は、もう掠れている。
「うそよ。まだ、わたくし、まだ」
それから、顔を上げた。
目が、わたしを探している。
一年半前、処刑台の上でミレイユがしたのと同じように。焦点の合わない目が、右へ動いて、左へ動いて、また右へ戻る。
今度は、見つけた。
わたしは、動かずに立っている。
オクタヴィアの口が、震えながら形を作った。
「――おつかれ、さま、です」
日本語だった。
わたしは、答えなかった。
彼女の目に、最後にはっきりと何かが浮かんだ。それが怒りなのか、安堵なのか、ただの恐怖なのか、わたしには分からない。
分からないまま、彼女は横向きに倒れた。
痙攣は、思ったより長く続いた。医師は「苦しみません」と言っていたが、嘘である。あるいは、この人にとっては、あれは苦しみのうちに入らないのかもしれない。
終わったとき、部屋はまだ明るかった。
窓から入る光の角度が、少し変わっただけである。
当主は、一度も振り向かなかった。
◇
部屋を出るとき、クラリスはわたしの袖を離さなかった。
廊下に出て、階段の手前で、あの子はようやく目を開ける。
「……終わりましたか」
「終わりました」
「わたし、見ていません」
「見なくていいのです」
クラリスは、しばらく黙っていた。
それから、わたしの顔を見上げて言った。
「アシュフォード様がいてくださって、よかった」
わたしは、その言葉に返事をしなかった。
返事をする言葉を、持っていなかったからである。
◇
三日後、わたしは西の墓地へ行った。
ミレイユの墓は、平民の区画に近い、いちばん端にある。爵位を返上した家の娘は、貴族の区画に入れない。石は小さく、名前と没年だけが彫ってある。
わたしは、その前にしゃがんだ。
持ってきたものを、膝の上に置く。
布の包みだった。
開けると、銀の台に真珠が三つ。この国のどの家より古いものだそうである。手のひらに乗るくらいの、地味な細工だった。
「終わりました」
わたしは言った。
「覚えていてくれと言われたので、覚えていました。それだけです」
風が吹く。
「わたしが、盗りました」
薔薇を、日に当ててみる。真珠は少しも光らなかった。古すぎて、表が曇っているのだ。
「あの晩、控えの間で、女官長さまが陛下の髪を直しておられました。卓の上が散らかっていたので、片づけました。器を盆に移して、布をたたんで、飾りを箱に納めて、蓋を閉めました」
箱は、空のまま閉めた。
誰も見ていない。誰も確かめない。あの部屋では、手の空いた者が片づける。それだけのことである。
「クラリスさまが連れて行ってくださいました。あの子は、わたしを信じています。信じさせたのは、わたしです」
三人のことも、話した。
ジョゼットを外したのは、あの人なら、箱の蓋を開けるからだ。
茶会の日、あの人は水の温度を三度替えた。銀器を布で受けてから置いた。下がるときは、必ず扉の内側を確かめた。そういう人は、預かったものを見ただけでは済まさない。蓋を開けて、真珠を三つ数える。
今年からの係は、蓋が閉まっているのを見て、ございました、と答えた。
それだけの違いである。
リゼットを外したのは、当日あの人が王宮にいると、わたしの衣装の裾の袋を思い出すかもしれないからだ。
クラリスを救ったのは、あの子を残すためである。残せば、あの子は姉のいる部屋に一人で入れなくなる。連れが要る。連れになれるのは、あの子が信じている人間だけだ。
王妃陛下があの子をお呼びになったのも、偶然ではありません。年明けに、女官長さまに一言申し上げました。ヴァレンシュタイン家の妹君が、去年の見舞いの礼を申し上げたがっておられます、と。あの方は、そういう話を覚えていてくださる方です。
それから、杖のことも話す。
あの晩、控えの間で、クラリスさまの杖が倒れました。乾いた音がして、部屋の全員がそちらを向きます。
わたしが倒しました。立たせるときに、膝で。
あの子は、自分が粗相をしたと思って、真っ赤になって何度も詫びました。陛下がお笑いになって、いいのですよ、と言ってくださいました。
わたしが卓を片づけたのは、そのあいだです。
そして、三人を外せば、四人目はわたしになる。
四人目になれば、あの人は当夜の九時、誰も来ない衣装部屋で一人になる。見るのは自分でなければならないと、あの人自身が言っていた。
「三人とも、助かりました。本当です」
わたしは言った。
「でも、助けたくて助けたわけではありません。あなたが思っているような人間ではないんです、わたしは」
それから、クラリスさまのことを話す。
あの子は、詮議で嘘をつきました。三月にわたしが何を言ったかを、聞かれて、ございません、と答えたのです。
わたしのためです。
嘘をついた人は、もう戻れません。あの子は、わたしを守ったつもりでいて、実際にはわたしに縛られました。わたしは、そうなるだろうと思っておりました。思っていて、三月にあれを言ったのです。
声が、途中で変な形になった。
気づいたら、頬が濡れている。
驚いて、手で触る。
一年半ぶりだった。あの日、処刑台の前で一滴も出なかったものが、今ごろになって出てくる。
何に対して泣いているのか、自分でも分からなかった。
埋める前に、一度だけ考えたことがある。
これを売れば、いくらになるか。
王家の宝である。表で売れるものではない。でも、この国には、表でないところがいくらでもある。
売った金で、ドラクロワ家の王都の屋敷を買い戻せるだろうか。
たぶん、買い戻せる。
考えて、やめた。
買い戻したところで、誰も帰ってこないからである。それに、売れば足がつく。足がつくようなことを、一年半かけて一つもしてこなかった。
やめた理由が、そのどちらなのか。
自分でも、順番がつけられなかった。
わたしは、墓石の裏の土を、手で掘った。
春の土は固い。上は柔らかいのに、少し下に凍った残りがあって、指が入らない。爪のあいだに土が入り、そのうち爪が割れた。
石の縁で右手を切って、血が出る。血のついた土を、そのまま掘った。
深くは掘れない。腕の長さの半分も入らなかった。
それでも、掘った。
銀の薔薇を布に包み直して、そこへ入れる。
土をかけて、両手で押さえた。
物語は、犯人を書かなかった。
最後まで、誰が盗ったのかを書かなかった。
だから、わたしがやっても、何も起きない。記録にも残らないし、誰も探しに来ない。あの物語は、わたしを疑う書き方をしていなかったのだから。
毒のときも、書いていなかった。
誰が銀鈴草を盛ったのか、原作は最後まで明かさない。明かさないのに、実際にはあの人がやっていた。
書かれていない犯人というのは、そういうものらしい。
書かれていないだけで、いないわけではない。物語を知っている誰かが、書かれていない場所に立っているだけだ。
薔薇のほうも、たぶん同じだったのだろう。
その誰かが、あちらの物語でどこにいたのかを、わたしは考えないことにした。
あの人は、六年かけて、物語から逃げようとした。
わたしは、物語の中にいたまま、あの人を殺した。
手を拭いて、立ち上がる。
後ろで、足音がした。
王宮の使いだった。若い従者が、息を切らせて立っている。
「アシュフォード嬢。王太子殿下が、お呼びです」
わたしは、顔を拭いて歩き出した。
用件は、たぶん分かっている。
ヴァレンシュタイン公爵家は当主が蟄居し、跡はクラリスが継ぐことになった。十六の、足の悪い娘である。後見が要る。
誰が後ろに立つかで、この国の形が少し変わる。
クラリスは、わたしを信じている。
あの礼拝堂で、あの子が欲しがっていた言葉を選んで渡した。中庭では、自分で決めてくださいと言った。寮の廊下では、ご一緒しましょうかと言った。
全部、選んで渡した言葉である。
いつか、あの子がわたしの前で息を止める日が来るかもしれない。
来ないようにする方法を、わたしは知らない。
知っているのは、来たときに、どうやってそれを都合よく使えるか、ということだけだ。
ジュリアンの手紙を思い出す。燃やす前に、三度読んだ一行を。
――次は、そうしないでください。
わたしは、土のついた手をポケットに入れた。
中で、ハンカチに触れる。曲がった刺繍の、四枚目。
そうしないつもりは、なかった。
――完
最後まで お読みいただき、ありがとうございました!
完結になりますが、番外編があと1回だけあります!
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