番外編 もったいないじゃありませんか
バックヤードは、いつも段ボールの匂いがした。
冷凍庫の脇に立たされて、時計を見ないようにする。見ると長くなるからだ。それでも、壁の時計は目に入る位置にある。わざとその位置に立たされているのだと気づいたのは、三年目のことだった。
「だからさ」
店長が言う。
「言われたことを、言われたとおりにやればいいだけなんだよ。難しいこと言ってないよね?」
「はい」
「はい、じゃなくてさ。なんでできないのって聞いてるの」
なんでできないのか、という問いに、答えはない。
答えがある質問なら、答えれば終わる。終わらせる気がないから、答えのない形で聞くのだ。三十分は、そうやって作られる。
この人は、わたしより八つ下だった。
二十一で入って、三年で店長になった。わたしは二十四で入って、五年たっても時給が四十円上がっただけである。理由を聞いたことがある。聞いたら、その日から立たされる時間が延びた。
名札を曲げられたのは、四年目の冬だった。
胸につけているプラスチックの札を、指でつまんで、くいと曲げられる。痛くはない。傷もつかない。ただ、名前の書いてある札が斜めになる。
「曲がってるよ」
店長は、そう言って笑った。
周りに三人いた。三人とも、下を向いていた。
わたしは、その札を家で直した。ドライヤーで温めて、平らな本に挟んで、一晩置いた。翌日にはまっすぐになっていた。誰も気づかなかった。
気づかれたいわけではない。
ただ、あの晩、本に挟んだ札を見下ろしながら、こう思ったことだけは覚えている。
――なんで、わたしがこっち側なんだろう。
◇
この世界には、どうやら側があるらしかった。
曲げる側と、曲げられる側。立たせる側と、立たされる側。
そして、どちら側になるかは、努力とはあまり関係がない。八つ下の男が三年で店長になり、わたしが五年で四十円なのと同じことだ。関係があるのは、もっと手前で決まっている何かである。
わたしは、それに名前をつけられなかった。
名前をつけられないまま、五年目が終わった。
## 二
最後の夜のことは、はっきり覚えている。
三月だった。風が強くて、まだ寒い。
わたしは、ゲームをしていた。
休みの日に一本だけ、という買い方をしていて、その月は乙女ゲームだった。『銀薔薇の檻』という。表紙の銀髪の令嬢がきれいだったから選んだ。
悪役令嬢の名前を、オクタヴィア・ヴァレンシュタインといった。
最後は断罪されて、修道院へ送られる。ヒロインに王太子を取られて、嫉妬して、いじめて、失敗して、全部ばれて、みんなの前で罪状を読み上げられる。よくある型である。
クリアしたあと、わたしはしばらく画面を見ていた。
この人、何が悪かったんだろう、と思った。
嫉妬したのは悪いことかもしれない。いじめたのも悪い。でも、あの断罪の場で読み上げられた罪状は、どれも、やったのはこの人だと誰も証明していなかった。証明しないまま、みんながうなずいて、それで決まった。
たぶん、信じやすい話のほうが勝ったのだ。
そこまで考えて、わたしは電源を切った。
明日も早番だった。
◇
何があったのかは、書かない。
誰が悪いのかも、たぶん、はっきりとは決まらない。よくあることで、起きるときには起きる。それだけの話である。
覚えているのは、そのときに考えたことだけだ。
痛かったとか、こわかったとか、そういうことは、不思議なほど頭になかった。
あったのは、一つである。
――もう一回あったら。
もう一回あったら、絶対に、こっち側には立たない。
立たされる側にも、曲げられる側にも、証明されないまま決められる側にも。
二度と立たない。
わたしが二十九年かけてたどり着いた結論は、それだけだった。
## 三
目が覚めたのは、天蓋のついた寝台の中である。
十一歳の秋だった。
最初の三日は、頭がおかしくなったのだと思っていた。四日目に、鏡を見た。
銀色の髪に、紫の目。
パッケージで見た顔だった。
わたしは、鏡の前で長いこと座っていた。それから、鏡台の抽斗を開けて、中の紙を見た。字が読める。この国の字が、日本語と同じように読める。書いてあったのは、家庭教師の課題の日程だった。
オクタヴィア・ヴァレンシュタイン様、と書いてある。
扉が叩かれた。
「お嬢様。お召し替えのお時間でございます」
入ってきた侍女は、三十くらいの女だった。
わたしを見て、膝をついた。
床に、膝をついたのである。
わたしは、その姿を見下ろしていた。
見下ろしながら、気づいた。
この人は、わたしより二十近く年上だ。仕事も、たぶんわたしより丁寧にできる。それでも、わたしが部屋に入れば膝をつく。わたしが眉をひそめれば、青くなる。
理由は一つしかない。
わたしが公爵家の娘で、この人がそうではないからだ。
努力とは関係がない。もっと手前で決まっている。
五年間、名前をつけられなかったものに、この世界は名前をつけてくれていた。
家格、という。
そして、わたしは生まれた時点で、この国の上から二番目にいた。
◇
物語のことを思い出したのは、その日の午後である。
『銀薔薇の檻』。断罪。修道院。
思い出したとき、最初に来たのは恐怖ではなかった。
笑いだった。
声を出して笑って、侍女が飛んできて、熱があるのではと言われた。
だって、おかしいではないか。
二十九年かけて、二度とあちら側には立たないと決めて、目が覚めたら王家の次に偉い家の娘で、それでいて、最後には全部取り上げられて修道院へ送られるのだという。
また、証明されないまま決められる側に立たされるのだという。
――冗談ではない。
わたしは、その日のうちに考えはじめた。
断罪されるのは、五年後の卒業パーティーである。罪状を読み上げるのは王太子で、証言するのは令嬢が四人。取り巻きだった者、味方だった者、隣に立っていた者。
全員、わかっている。誰が、いつ、どこで、何を言うか。
物語に書いてあるのだから。
五年ある。
五年もあれば、四人くらいは、どうにでもなる。
◇
その日の夕方、わたしは屋敷の大階段の上に立っていた。
下に、五つくらいの女の子がいた。
父の妾の子で、その年に引き取られたばかりだと、頭の中の記憶が教えてくれた。名前はクラリスという。わたしを見上げて、笑った。
姉に会えたのが嬉しかったのだと思う。
わたしは、その子を見下ろしていた。
手すりに手を置いて、十数えるくらいのあいだ、そのまま立っていた。
何もしなかった。
その日は、何もしなかった。
ただ、一つ分かったことがある。
わたしがここで手を伸ばせば、あの子は落ちる。落ちたら、誰かが駆けつけて、足を滑らせたのだと言うだろう。公爵家の娘が妹を突き落としたという話と、五つの子が階段で転んだという話と、どちらを人が信じるか。
考えるまでもない。
信じやすいほうが勝つ。いつだって、そうだ。
あの晩、名札を本に挟んだときに分からなかったことが、その日、全部分かった。
側は、決まっている。
でも今度は、こちら側だ。
◇
わたしは、階段を降りた。
クラリスが、ぱっと顔を上げる。
「お姉さま」
わたしは、その子の頭に手を置いた。
柔らかい髪だった。
「そこ、危ないから、気をつけるのよ」
あの子は、大きくうなずいた。
嬉しそうだった。
わたしは、微笑んだまま、その頭を撫でていた。
撫でながら、階段の段数を数えていた。
――上から三段目までなら、たぶん死なない。
使わないなんて、もったいないじゃありませんか。
――番外編、了。
このお話で終わりになります、
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