第8話 残りは一人
三月に入って、わたしは待った。
三人目が誰になるか、見当はついている。ついていたけれど、まさかとも思っていた。
その、まさかである。
学院の中庭で、オクタヴィアがクラリスと話しているのを見たのは、三月の半ばだった。
姉は妹の肩に手を置いている。優しい手つきだった。クラリスは、うつむいたまま、何度もうなずいていた。
二人が離れたあと、わたしはクラリスを追いかける。
「クラリスさま」
彼女は、振り返った。
この一年で、彼女はわたしから逃げなくなっている。ただ、顔は白かった。
「お姉さまに、何を頼まれましたか」
クラリスは、しばらく黙っていた。
「……舞踏会の夜に、控えの間へ行くようにと」
「何をしに」
「王妃陛下に、お礼を申し上げに。去年、療養のお見舞いをいただいたので」
彼女は、自分の右足を見た。
「みなさまが踊っているあいだに行きなさい、と。人が少ないほうがご迷惑にならないからと」
筋が通っている。気味が悪いほど通っている。
王妃陛下が控えの間に下がられる時刻。人のいない廊下。足の悪い娘が一人で歩いてくる。銀の薔薇が消えたあとで振り返れば、その姿はどう見えるか。
しかも、動機まで用意されている。公爵家の跡取りは姉で、妹は階段から落ちて足を引きずっている。妬んでいた、という話にするのは簡単だった。
「クラリスさま」
わたしは言った。
ここで嘘をつくことはできる。適当な理由をつけて、行かないようにさせることはできる。
でも、それをやったら、この子は一生知らないままになる。
わたしは、本当のことを言うことにした。
「その夜、王妃陛下の髪飾りがなくなります」
クラリスの目が、大きくなる。
「なぜ、そんなことが」
「言えません。信じなくて構いません」
わたしは続けた。
「なくなったとき、そこにいた人が犯人になります。お姉さまは、あなたをそこに立たせようとしています」
クラリスは、何も言わない。
中庭の木が風で鳴っていた。
わたしは、それ以上説明しなかった。説明できることが、何もなかったからである。
「……杖と、同じですか」
やがて、彼女が言った。
わたしは、うなずく。
「同じです」
クラリスは、しばらく自分の手を見ていた。
それから、小さく息を吸う。
「わたし、どうすればいいですか」
「わたしは何も申し上げません」
わたしは言った。
「あなたが決めてください。わたしが決めたら、また同じことになります」
この一年で、わたしが覚えたことがある。
人に道を指せば、その人はそこを歩く。歩いた先で何かあったとき、指したほうは責任を取れない。ミレイユのときに、わたしはそれを覚えた。
「……あの」
「はい」
「断ったら、どうなりますか」
「叱られると思います。ひどく」
「それだけですか」
「たぶん、それだけです」
わたしは、正直に言う。
「お姉さまは、あなたに手を出せません。今、公爵家の娘が二人とも傷つけば、家が疑われます。だから、叱るだけです」
クラリスは、うなずいた。
うなずいて、それから、わたしの顔をまっすぐ見る。
この子がわたしの目を見たのは、二度目である。
「わかりました」
◇
三日後、廊下で声が上がった。
わたしは、たまたまそこにいた。たまたま、というのは正確ではない。待っていたのである。
「なんですって?」
オクタヴィアの声だった。
窓際に、姉と妹が立っている。周りの生徒が、そっと足を止めていく。
「お使いは、お断りいたします」
クラリスの声は、小さい。小さいが、切れていなかった。
「控えの間へは参りません。ご挨拶なら、お式の前に大広間で申し上げます」
「あなた、自分が何を言っているか分かって?」
「はい」
「お母さまの違う妹が、わたくしの頼みを断りますの。理由をおっしゃい」
「長い廊下を歩くなと、お医者さまに言われております」
クラリスは、杖を持ち替える。
「本当のことですから」
オクタヴィアの手が、上がった。
上がって、止まる。
廊下には人がいる。この人は、人のいるところで手を上げない。六年間、一度も。
手が下りた。
「……そう」
オクタヴィアは、微笑んだ。
「お大事になさって」
彼女は歩き出した。
そして、三歩めで、こちらを向く。
わたしと目が合った。
彼女は微笑んだまま、口の形だけで言う。
――三人目、ですわね。
わたしは、頭を下げた。
クラリスは、まだそこに立っている。
姉が廊下の角を曲がって見えなくなるまで、立っていた。
息は、止めていない。
◇
その夜、寮の部屋の扉を叩く音がした。
クラリスだった。
こんな時間に、杖をついて、寮の階段を上がってきたのである。顔は白い。息が上がっている。
「どうなさいました」
「あの」
彼女は、扉の前で立ったまま言う。
「舞踏会には、出なければなりません。公爵家の娘ですので」
「そうでしょうね」
「でも、あの場にお姉さまがいます。四時間、同じ部屋に」
彼女の手が、杖の握りを何度も握り直している。
「……一人では、行けません」
わたしは、何も言わなかった。
少しのあいだ、廊下の灯りだけが二人のあいだにある。
「ご一緒しましょうか」
やがて、わたしは言った。
「連れがいれば、心強いでしょう」
クラリスの顔が、崩れる。
泣きはしない。ただ、崩れた。
「よろしいのですか」
「ええ」
「わたし、アシュフォード様に、何もお返しできません」
「返していただくつもりはありません」
わたしは言った。
「わたしが、そうしたいだけです」
その夜、あの子は何度も礼を言って帰っていった。
階段を降りる杖の音が、遠ざかるまで聞いている。
音が消えてから、わたしは机に向かって、しばらく座っていた。
◇
三月の終わり、オクタヴィアがわたしを呼んだ。
空き教室である。三度目だった。
彼女は、今度は座っている。窓辺の椅子に、背筋を伸ばして。
「おかけになって」
「立っています」
「そう」
彼女は、少しのあいだ黙っていた。
「あなた、いつ気づきましたの」
「去年の夏です」
「ずいぶん早いこと」
オクタヴィアは、天井を見上げた。
「メナールの弟ですわね。あれで気づかれましたの」
「はい」
「……前の年に、同じ手を使いましたものね。わたくしの不注意ですわ」
彼女は、素直に認める。
この人は、負けを認めるのが早い。認めたうえで、次の手を打つ人である。
「一つ、伺ってよろしいかしら」
「どうぞ」
「あなた、あの三人を助けたおつもり?」
わたしは、答えなかった。
「助けたのではありませんわね。塞いだのですわ」
オクタヴィアが、こちらを向いた。
「助けたい人がいたのなら、もっと早く、もっと別のやり方がありましたもの。あなたがなさったのは、わたくしの手を一本ずつ折ることですわ。人が助かったのは、そのついで」
その通りだった。
「否定なさらないのね」
「しません」
「よろしいこと」
彼女は、膝の上で手を組んだ。
「一つ、ご提案がございますの」
「……なんでしょう」
「手を組みませんこと?」
わたしは、彼女の顔を見る。冗談を言っている顔ではなかった。
「この世界で、話の通じる相手は二人きりですのよ。あなたとわたくし。あとは全員、別の生き物ですわ」
「……そうですね」
「でしょう? わたくし、この六年、退屈でしたの。当てても誰も驚かない。壊しても誰も気づかない。あなたがいらして、ようやく面白くなりましたのよ」
彼女は、少し身を乗り出した。
「組めば、この国は取れますわ。わたくしが公爵家を、あなたが王太子妃を。物語の外まで行けますのよ。お二人で」
悪くない話だった。
本当に、悪くない話である。わたしは三十数えるくらいのあいだ、それを考えた。
「ミレイユさんは」
わたしは言った。
「その組み合わせの、どこに入りますか」
オクタヴィアの顔から、熱が引く。
「……入りませんわ。あの方は、もういらっしゃいませんもの」
「そうですね」
わたしは言った。
「だから、組めません」
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、肩をすくめる。
「もったいないこと」
「ええ」
「では、お分かりですわね。残りは一人ですわ」
「はい」
「あなたですのよ」
「知っています」
沈黙。
窓の外で、鳥が鳴いていた。春の鳥である。
「おかしな話ですわね」
オクタヴィアが言った。
「あなたは、自分が最後の一人だと知っていて、三人を外した。外さなければ、順番は回ってこなかったのに」
「そうですね」
「なぜ」
「五人目を探されるより、ましだからです」
わたしは言った。
「わたしが最後なら、あとは自分のことだけ考えればいい。誰が立たされるか分からないよりは、ずっと楽です」
オクタヴィアは、しばらくわたしを見ている。
それから、笑った。声を出して笑う。この人がそんなふうに笑うのを、わたしは初めて見た。
「あなた、本当に変わりましたわね」
「あなたのおかげです」
「……こわくありませんの」
「こわいです」
「そうは見えませんわ」
「見えないように立っているからです」
わたしは言った。
「二年、練習しました」
彼女が立ち上がる。
「では、申し上げておきますわ。当夜、あなたは招かれます。招かれた男爵令嬢が、大広間の隅で誰とも踊らずに立っているのは、みっともないことですわね」
「そうでしょうね」
「ですから、用事を差し上げますの。九時に、控えの間のとなりの衣装部屋へいらして。クラリスの忘れ物を預けておきますから、家の者にお渡しになって」
「……その部屋で、誰が見ているのですか」
「わたくしですわ」
彼女は、当たり前のことのように言った。
「人を雇うより確かですもの。侍女の証言と、公爵令嬢の証言では、重さが違いますでしょう。六年、そうしてまいりましたの。人にやらせて、見るのは自分。証言は、誰が見たかで値打ちが決まりますのよ」
完璧である。
断れない理由で、断れない相手から、断れない時刻に呼ばれる。行かなければ、行かなかったことが不自然になる。行けば、そこにいたことになる。
そして九時は、王妃陛下が控えの間に下がられる時刻である。
「行きます」
わたしは言った。
「あら。ずいぶん素直ですこと」
「ええ」
「……何かなさるおつもり?」
「何も」
わたしは、本当のことを言った。
「わたしは、何も作りません。ずっとそうしてきました」
オクタヴィアは、扉の前で足を止めた。
振り返らずに言う。
「一つだけ、教えて差し上げますわ」
「はい」
「わたくし、あの薔薇を盗りませんの」
彼女の声は、静かである。
「誰が盗るのか、わたくしも存じませんのよ。六年、ずっと分かりませんでしたわ」
「知っています」
「……そう。ご存じでしたのね」
扉が閉まった。
わたしは、しばらくそこに立っていた。
あの人が本当のことを言ったのは、たぶん、これが初めてだと思う。
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