第7話 代役
秋の終わりに、一人目が分かった。
見つけ方は、前の年に見ている。
アンリエッタ・ブランシェ侯爵令嬢を沈めたとき、証拠の手紙を届けたのは本人の侍女だった。その侍女の弟が、公爵家の口利きで王宮の下働きに採用されたのは、その一か月前である。
あの人は、金を積まない。脅しもしない。
その人が前から欲しがっていたものを、ただ先に渡す。渡されたほうは、買われたとは思わない。運が向いてきたと思う。
だからわたしは、公爵家の名前が誰かの身内の職に触れるのを、ずっと待っていた。
待つのは、思っていたより難しい仕事である。
王宮の採用は、月ごとに官報の末尾に載る。下働きの名前まで載るのは、王家に仕える者の身元を公にするためだそうだ。三行か四行の、誰も読まない欄である。
わたしは、それを毎月読んだ。
九月、何もない。十月、何もない。
その二か月で、自分がまちがっているかもしれないと十回くらい考えた。あの人が同じ手を使うとは限らない。前の年に使った手を、わざわざ二度使う理由がない。
それでも、使うと思った。
使えるものは使う人だからである。損をしない六年というのは、一度も遠慮しなかった六年でもある。
十一月の初め、王宮の名簿に一つ動きがあった。
王宮の厩に、十六の少年が採用されている。名前はティボー。姉が王妃付きの侍女だという。
姉の名は、ジョゼット・メナール。二十二歳。王妃陛下の控えの間を預かる係である。
王妃陛下は、舞踏会の途中で控えの間に下がられる。髪飾りを外して、水を召し上がって、四半刻ほど休まれる。その部屋を整え、外したものを預かるのが、ジョゼットの仕事だった。
銀の薔薇に、いちばん近い人である。
母親が長く床に就いていて、薬代がかさむ、という話も出てきた。弟の給金は、そのまま薬になる。
絵に描いたような一人目である。
わたしは、その冬、二度だけ王宮に上がった。
学院の成績上位者は、王妃陛下の主催なさる年末の茶会に招かれる。わたしは三年、成績だけは落としていない。落とさなかったのは、いつかこれが要ると思っていたからではない。ただ、他にすることがなかっただけである。
一度目の茶会で、わたしは壁際に立っていた。
男爵令嬢が招かれるのは末席で、末席というのは、実際には席がないということだ。立ったまま茶を受け取り、立ったまま飲む。
だから、よく見えた。
控えの間の扉が、四半刻に一度開く。開くたびに、同じ娘が出てくる。盆を持って、まっすぐ歩いて、誰とも目を合わせない。戻るときは、必ず扉の内側を確かめてから閉める。
途中で、茶器を運んでいた別の侍女が敷居につまずいた。
器が一つ落ちる。床に着く直前で、その娘が受けた。
膝をついて、片手で受けて、そのまま何事もなかったように立ち上がる。誰も気づかなかった。女官長も、たぶん見ていない。
わたしは、見ていた。
その人の名を、そのとき初めて知ったのである。
同じ日、給仕の手違いが一つあった。
末席に回す茶が二人分足りなくなって、若い侍女が固まっていた。わたしは黙って自分の分を隣の令嬢に渡し、空の盆を下げるのを手伝った。それだけである。
その様子を、女官長が見ていた。
二度目に上がったとき、わたしは女官長に面会を申し込む。
男爵令嬢の分際でと言われることは覚悟していたけれど、女官長は会ってくださった。
「それで、何の御用でしょう」
「控えの間のメナールという方のことです」
わたしは、用意してきたことを話した。
茶会の日、王妃陛下が召し上がる水の温度を、彼女が三度替えたこと。銀器を布で受けてから置くので音が立たないこと。下がるときに必ず扉の内側を確かめること。
どれも、わたしが見たことである。
「……よく見ておいでですね」
「ほかに見るものがなかったので」
女官長が笑う。
「アシュフォード嬢。あなた、あの娘に何か借りがおありなの」
「ありません」
「では、恨みが」
「それもありません」
「おかしな話ですね」
彼女は、扇を膝に置いた。
「人が人を推すときは、たいていどちらかですよ。三十年見てまいりましたが、そうでなかったのは数えるほどです」
わたしは、少し考えて答える。
「では、その数えるほうに入れてください」
女官長は、しばらく黙っていた。
「それで、あなたは何をお望みなの」
「本隊にお引き上げになるべきだと思います。控えの間は、あの方には軽すぎます」
わたしは言った。
「それだけです。わたしに得はありません」
嘘ではない。
得はある。でも、それは女官長の考える意味での得ではなかった。
ジョゼット・メナールが王妃付き本隊に移ったのは、年が明けてすぐである。
王宮の配置は、季節ごとに書き出されて、内廷の廊下に貼られる。誰がどこに立つかを、出入りの者が確かめるためのものだ。学院の生徒でも、使いで入れば読める。
わたしは、二月の初めにそれを見に行った。
春の大礼の欄に、控えの間の係が書いてある。
メナールの名前は、そこになかった。
代わりに、知らない名前が一つ入っている。
ベルト、と読む。年は書いていない。
数日かけて、わたしはその人のことを調べた。調べたといっても、出入りの者と世間話をしただけである。
十七だった。去年の秋に上がったばかりで、その前は王都の外の宿屋の娘だったという。器量がよくて、行儀の覚えが早いので取られたのだそうだ。
控えの間の係は、王妃陛下の身の回りのものを預かる役である。十七の、半年目の娘が就く役ではない。
でも、就いた。上の者が一人抜けたからである。
抜けさせたのは、わたしだ。
その日、わたしは王宮の廊下でしばらく立っていた。
考えていたのは、この娘のことである。
三月になれば、あの人が代役を探しはじめる。探す先に、この娘がいる。十七で、家に仕送りをしていて、王宮のことをまだ何も知らない娘が。
いちばん使いやすい人間を、わたしが一人、あの部屋に置いたことになる。
わたしは、そのことを一日だけ考えた。
一日考えて、何もしないことにした。
この娘を守ろうとすれば、また誰かを動かすことになる。動かせば、また別の誰かがそこへ入る。いくらでも続く。どこかで止めなければ、いつまでたっても一人目にたどり着かない。
だから、置いた。
そして、忘れることにした。
――忘れられなかったけれど。
春の舞踏会の夜、メナールは大広間の詰所に立つことになった。控えの間には入らない。
彼女はそれを、努力が実ったのだと思っている。
実際、努力は実っている。わたしは事実しか言っていない。
ただ、事実を、あの部屋から遠ざかる形に並べただけである。
春先に一度、廊下ですれ違ったことがある。
彼女は、王妃付きの新しい制服を着ていた。わたしのことは知らない。知るはずがない。
連れの侍女に、こう言っているのが聞こえた。
――女官長さまが、見ていてくださったのよ。
わたしは、そのまま通り過ぎた。
それでいい。誰かに礼を言われるためにやったことではないのだから。
◇
二人目は、年が明けてから分かった。
学院に出入りしている仕立て屋の娘である。名前はリゼット。十八歳。父親の店を手伝っていて、令嬢たちの採寸によく来る。
春の舞踏会の当日、この店は王宮に人を出す。控えの間のとなりに衣装直しの部屋が用意されて、裾を踏んだり紐が切れたりした令嬢が駆け込むのだ。行き来のたびに、控えの間の前を通る。
二月、ヴァレンシュタイン公爵家から、その店に大きな注文が入った。
オクタヴィアの舞踏会用の衣装である。町の仕立て屋にとって、これ以上の話はない。父親は舞い上がったそうである。
そして、当日の直しには娘を出すことになった。公爵令嬢の衣装は、公爵令嬢の採寸をした者でなければ触れない。
採寸は、学院の空いた教室で行われる。
リゼットは膝をついて、紐でわたしの丈を測っていた。口に針を三本くわえているので、話すときはいちいち手に持ち替える。
「アシュフォード様、去年より痩せられました」
「そうですか」
「三分の一寸。数字は嘘をつきませんから」
彼女は、紐に印をつけた。
「うちの店、今年は忙しいんです」
「そうなんですか」
「ヴァレンシュタイン様のお衣装を承ったので。父が三日眠れていません」
わたしは、動かずに立っていた。採寸のあいだは動いてはいけない。そう言われている。
「当日も王宮に詰めるんです。公爵令嬢さまのお衣装は、採寸した者でないと触れませんから」
彼女の声は、明るかった。
この人は、店の名が上がったと思っている。実際、上がっている。父親が三日眠れないほどに。
その夜、わたしは長いこと迷った。
打ち明けてしまえば、この人は行かない。それがいちばん早い。
でも、一年前、わたしはミレイユに「近づかないで」と言った。あの子は、危ないものを取り除きにいった。
人に危険を教えると、その人は動く。逃げるほうへ動くとは限らない。確かめにいく人もいれば、片づけにいく人もいるし、誰かに話す人もいる。話された相手が誰かは、こちらに決められない。
それに、この人には父親がいる。三日眠れないほど喜んでいる父親が。娘が行きたくないと言えば、必ず理由を聞くだろう。
理由を聞かれて、リゼットは嘘をつけるだろうか。
つけないと思った。
だから、別の頼み方をする。
「リゼットさん。当日、うちに来ていただけませんか」
「え?」
「舞踏会の日の午後です。わたしの衣装の直しを、宿でお願いしたいのです」
リゼットは困った顔をした。
「あの、その日は王宮に詰めることになっておりまして」
「知っています。だから、その前に」
わたしは、金額を言った。
男爵家の娘が払える額の、上限である。三年分の小遣いを溜めたもので、実を言えば、これ以外に使い道を考えたことがない。
リゼットの目が丸くなる。
「そんなに」
「当日にお願いするので。ご迷惑をかける分です」
「でも、それだと王宮に間に合いません」
「間に合わないと思います」
わたしは言った。
「お父さまには、代わりの職人を出していただくようお願いしてください。わたしは、あなたに縫っていただきたいので」
これは、本当である。
この人の縫い目は細かい。一度、袖口を直してもらったことがあって、そのときからずっとそう思っていた。
リゼットは、しばらく迷っていた。
それから、頭を下げる。
「……ありがとうございます。父に、そう言います」
春の舞踏会の当日、リゼット・ゴダールは王都の南の宿の一室で、男爵令嬢の裾を三度直すことになる。
一度目は丈。二度目は袖。
三度目は、裾の内側だった。
「ここ、どうなさいますか」
「袋にしてください。手のひらが入るくらいで」
「よろしいんですか。表に響きますよ」
「響かないように縫えますか」
リゼットは、少し考えた。
「……できます」
彼女は、なぜそこを袋にするのかを聞かなかった。
客の言うとおりに縫うのが、この人の仕事である。そして、頼まれたことを黙って丁寧にやる人だった。だから選んだ、とも言える。
三度目を直しながら、彼女は言った。
「こんなに丁寧にさせていただいたの、初めてです」
「そうですか」
「ええ。当日は、普通は走り回るばかりなので」
彼女は、糸を切る。
「ありがとうございます」
わたしは、鏡を見ていた。鏡の中の女は、礼を言われるような顔をしていなかった。
◇
二月の終わり、廊下でオクタヴィアとすれ違った。
彼女が足を止める。
「リディアさま」
「はい」
「あなた、今年は舞踏会にいらっしゃるの」
「招かれれば」
「招かれますわよ。成績上位者ですもの」
彼女は、扇を開かなかった。
開かないときのほうが、この人は本気である。
「……ずいぶん、無駄遣いをなさっているとか」
「衣装にお金をかけました。一度きりですから」
「そう」
紫の目が、わたしの顔の上を、ゆっくり這った。
「そう」
彼女は、それだけ言って行ってしまう。
気づかれた、と思う。
二人目である。一人なら偶然で済む。二人続けば、偶然ではない。
それでも、あの人は止められない。
日は動かせないのだ。春の舞踏会の夜に、銀の薔薇は消える。誰が盗るのかは、あの人にも分からない。分からないものは見張れないし、防げない。
だから、その日までに誰かを立たせるしかない。
三人目を探すしかない。
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