第6話 銀の薔薇
春の終わり、オクタヴィアがわたしを呼んだ。
一年前と同じ、空き教室である。
彼女は窓辺に立って、外を見ていた。振り返りもせずに言う。
「ドラクロワ家、なくなりましたわね」
「……ええ」
「わたくし、何もしておりませんのよ。書庫番が紙を差し出したのも、あの方が受け取ったのも、王宮が調べを入れたのも、全部わたくしの外で起きたことですわ」
全部本当だった。
それが彼女のやり方である。自分では何もしない。人が勝手に動くように、先に道をつけておくだけだ。
「褒めてさしあげますわ。金の流れをお調べになったのは、悪くない着眼でしたの」
オクタヴィアが振り返る。
「でも、なぜ調べる先が分かったと思って?」
わたしは黙っていた。
「わたくしも、同じところを調べるからですわ」
彼女は教壇に腰をかける。
「同じ物語を読んだ者が二人いれば、片方の手は読めますのよ。あなたが次にどこを見るか、わたくしには分かります。わたくしなら、そこを見ますもの」
それは、この一年でいちばんこたえた言葉である。
わたしは、原作を知っていることを武器だと思ってきた。彼女にとっては、それはわたしの手の内が全部見えるという意味でしかない。
「もう一つ、お教えしましょうか」
オクタヴィアが指を立てる。
「あなた、証拠を集めて、しかるべき人に、正式な手続きで出しましたわね。それが正しいやり方だと思っていらっしゃるでしょう」
「……ええ」
「それ、前世の発想ですわ」
彼女は、当たり前のことを教える口調で言った。
「証拠を集めれば通る、記録があれば覆らない、手続きを踏めば守られる。あちらでは、そういうことになっておりましたものね。わたくしも最初はそう思っておりましたの。11歳の秋に思い出して、半年くらいは」
指が、もう一本立つ。
「この世界で人を落とすのに、証拠は要りませんのよ」
「……何が要るの」
「みなさまが信じたいお話ですわ」
わたしは、監察官の言葉を思い出していた。
――疑いは、いくら積んでも証拠にならない。積めば積むほど、積んだ人間の執念のほうが目立つ。
あれは、彼女の言っていることと同じである。
「男爵令嬢が公爵家を逆恨みして、近衛の若者を巻き込んで、家を一つ潰した。……そちらのほうが、公爵令嬢が六年間ずっと未来を知っていたよりも、ずっと信じやすいでしょう。信じやすいほうが勝ちますの。いつだって」
ミレイユのときもそうだった。証拠が三つそろったのではない。三つそろえば信じられる話になると、彼女が知っていたのだ。
「ねえ、リディアさま」
オクタヴィアが、少し首をかしげる。
「もうお分かりでしょう。わたくしを落としたければ、方法は一つしかありませんのよ」
「……言って」
「わたくしと同じことをすることですわ」
彼女は、にっこりと笑った。
「話をこしらえて、人を騙して、皆さまが信じたい形に整える。そうしなければ、あなたは一生わたくしに届きませんわ」
わたしは、扉のほうを見なかった。
逃げ場を探す気が、もうなかったからだと思う。
この一年で、学んだことがある。
ミレイユが死んだとき、わたしは何度も「あの子ならこうはしない」と考えた。あの子は嘘をつかない。人を陥れない。正しいことをする。だからわたしも、と。
考えた結果が、ドラクロワ家の取り潰しである。
正しいやり方を選んだのはわたしで、代償を払ったのは全部あの家だった。
もう、あの子を言い訳に使うのはやめよう。
「オクタヴィアさま」
わたしは言った。
「――おつかれさまです」
日本語だった。
一年前、彼女が言った言葉を、そのまま返す。
オクタヴィアの目が、わずかに動いた。
「あら」
「一つだけ、認めます」
わたしは、まっすぐ彼女を見る。
「あなたの言うとおりです。わたしは、あなたと同じやり方でしか、あなたを落とせません」
言ってしまうと、驚くほど何も感じなかった。
こわいとも、汚いとも思わない。ミレイユの顔も浮かばなかった。浮かばなくなったことのほうが、たぶん大事なことである。
オクタヴィアは、しばらくわたしを見ていた。
それから、心底うれしそうに笑う。
「よろしゅうございますわ。そうでなくては」
彼女は教壇から降りて、わたしの横を通り過ぎた。すれ違いざま、耳元で言う。
「でも、一つだけ覚えておいてくださいまし」
息が、耳にかかった。
「わたくしとあなたでは、持っている駒の数が違いますわ。同じやり方をすれば、必ずわたくしが勝ちますのよ」
扉の前で、彼女は足を止める。
「あなたがお持ちのものといえば、あの物語の中身だけ。でもそれは、わたくしも持っておりますもの」
扉が閉まった。
わたしは、しばらくそこに立っていた。
言われたとおりである。
同じ紙を読んだ人間が二人。駒の数は、公爵家と男爵家。同じ土俵に上がれば、必ず負ける。
だから、上がらない。
◇
夏のあいだ、わたしは思い出す作業をした。
紙には書かない。書けば残る。残った紙が何をするかは、この一年でよく分かった。
寝台の上で、天井を見ながら、順番に並べていく。三年目の春までに起きること。起きる順番。関わる人。
その中に、一つあった。
春の舞踏会。三年目の春、学院の卒業を控えた季節に、王宮で開かれる大きな舞踏会である。
その夜、王家の宝が消える。
銀の薔薇。代々の王妃が身に着けてきた髪飾りで、銀の台に真珠を三つ並べた、古いものだ。王妃陛下はそれを着けて席にお出ましになり、途中で控えの間に下がって外される。踊りのあいだは重いのだそうである。
控えの間に戻ったとき、なくなっている。
王宮は騒然となり、出入りした者が調べられ、見つからない。二度と出てこない。
そして、疑われるのはオクタヴィア・ヴァレンシュタインである。
理由は、いくつもあった。当夜、彼女は控えの間の近くにいた。王家への不満を口にしていたという証言が出る。公爵家には古い宝を集める癖がある。どれも決め手にならず、どれも消えない。
この件は、証拠不十分のまま宙に浮く。そして翌月の卒業パーティーで、罪状の一つとして読み上げられる。
わたしは、天井を見たまま、しばらく動かなかった。
誰が盗んだのかは、原作に書いていない。
最後まで書いていない。
わたしは起き上がった。
書いていないということは、あの人にも分からないということだ。
誰がやるか分からない事件は、止めようがない。見張ることもできない。防げば済む話なら、彼女は六年前からそうしている。
あの人にできるのは、一つだけである。
――その日までに、別の犯人を立てておく。
ミレイユのときと、まったく同じだ。
王太子が毒で倒れるのを、彼女は止められなかった。誰が盛るのか知らなかったからだ。だから自分の手で日を決めて、自分の毒を使って、その日に立たせる人間を用意した。持ち出し帳に自分の名前を書いた娘を。
今度も同じ手順を踏む。
踏まなければならない。犯人が出てこないまま宝が消えれば、疑いは原作どおり彼女に戻る。六年かけて避けてきたものが、そのまま返ってくる。
わたしは、暗いまま部屋の中を歩きまわった。
考えることは一つだった。
代役がいなかったら、どうなるのか。
物語には、宝が消えるとだけ書いてある。誰が持っていくのかは書いていない。
書いていない場所には、何を置いてもいい。
まず、あの人が立てようとする代役を、一人ずつ外す。それだけは決まった。
そこまで考えて、わたしは椅子に座った。
代役になれる人間には、条件がある。
ミレイユを思い出せば分かる。あの子は、自分の足で温室へ行き、自分の手で草を抜き、自分の名前を帳面に書いた。誰にも言われていない。
それが要る。脅して立たせた人間では使えないのだ。脅せば、脅した跡が残る。あとで本人が口を割る。だから、自分の意志で動いた人間でなければならない。
自分の意志で動かせる人間は、そう多くない。
その夜に、その場所にいる人。宝に手の届く人。動機を作れる人。そして、こちらの思うとおりに動いてくれる人。
わたしは、指を折っていった。
王妃陛下の控えの間に出入りできる者。当夜の警備の配置。衣装の直しで通る者。公爵家の娘として当然に出席する者。
四人、思い当たった。
四人目が、わたし自身である。
そこで、思わず笑ってしまった。
当たり前だ。わたしは盾を捨てた。殿下から離れ、友人もいない。動機は十分にある。公爵令嬢に逆恨みしている男爵令嬢が、王家の宝に手を出した。皆が信じたい話としては、これ以上ない。
あの人は、たぶん最後にわたしを使う。
三人外されれば、残りは一人しかいないのだから。
わたしは、机の引き出しからハンカチを出した。曲がった刺繍の、四枚目。
しばらく、それを見ていた。
これから、わたしは三人の人間を助けることになる。
助けたいから助けるのではない。あの人の逃げ道を塞ぐために助けるのだ。三人とも、自分が助けられたことに一生気づかない。わたしが誰なのかも知らないままだろう。
それでも、助かることに変わりはない。
ミレイユさんなら、ここで怒っただろうか。
しばらく考えて、怒らなかった気がした。あの人は、理由を聞かずに人を助ける人だった。理由が汚いから助けない、という発想はたぶんなかったと思う。
わたしは、ハンカチを引き出しに戻した。
夏が終われば、あの人は動きはじめる。
一人目が誰なのかは、見ていれば分かる。
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